第二章 四話
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浜辺に座り込んでいると、思ったよりも時間が過ぎるのは早かった。浜には枯れかけた葦が散乱していて、その上に座れば砂で汚れることもない。私は近くに生えていた葦を一つ引っこ抜いて、茶色く染まったそれを手元でグリグリといじる。潮騒と風の音を聞きながら、日が徐々に沈み、輝きを失っていく湖をただ眺め続けていた。
「二人はうまくやってるかな」
艺涵さんを見送ってから、あっという間に数十分が経っている。時間的に会議が始まってしばらく経ったころだ。顔合わせ等々が終わって、いよいよ本題を切り出す頃合いだろうか。本題――つまり決闘の申し入れがうまくいくかは、サクラ代表の二人……そして、柚と英生さんの説得にかかっている。代表は冷静だろうけど、正直柚たちの落ち着きの無さは気がかりだった。揺さぶりをかけられてもちゃんといなせるかな。失敗したらサクラ全体に影響が及んでしまう……なんて考えてしまって、二人にかかる重圧の大きさをまざまざと実感する。自分だったら絶対に出席したくない会だ。
手で弄んでいた葦を、湖に向かって思いっきりぶん投げる。全力で投げたのに、ふにゃふにゃとした葦はたちまち失速して手前の砂浜に落ちてしまった。はあ、と思わずため息が漏れる。まったく、最近は気がかりなことばかりだ。
ふと、艺涵さんの言葉を思い出す。「過去の決定はともかく」と「今の私の本心」か。含みのあるこれらの言葉に、私は不愉快さを感じてしまう。モヤモヤよりもイライラに近いような不快感。ああ、彼女との接触はただの好奇心のはずだったのに、こんな感情になるくらいなら会わなければ良かった。見なければ、意識しなければ何も考えなくて済むのに。過去は振り返らない、振り返ってはいけない。昔の苦境を思い出しても怒りや憎悪が残るだけ。そんな感情に突き動かされて、失敗して、全てが壊れたのがヒマワリ。私はそれが分かっている。分かっているから……
……分かっているから、サクラとも距離を感じるんだろうか。サクラの過去があるからモミジとの決闘にまで発展してるわけで、英生さんや柚、サクラの人たちの怒りや恐れは間違ってない。それは理解できるけど、のめり込むのにはどうしても抵抗がある。
みんなと一緒にいたい、身近で過ごしたいなんて思いながら、
熱を持ちすぎたくない、人と安全な距離を置いておきたいとも思う。
サクラの闘いを応援したいし、除け者にされたくないなんて思いながら、
周りには変わらないでいてほしいし、私に寄り添って欲しいとも思う。
どこまでも中途半端で自分勝手な私。そんな自分は嫌だけど……手放すだけの勇気、そう、勇気が私にはない。
「あーもう、本当に、何もかもが面倒くさい!」
考えるのが億劫になって、私は湖に向かってそう叫ぶ。いっそこの世から心がなくなればいいのに。全員が事実だけを受け入れて淡々と過ごす世界なら、戦争なんて起きないだろうし。
そんな非現実的な妄想を浮かべながら、葦をブチブチと引き抜いては投げ飛ばす。でも、どんなに勢い良く飛び出したところで水面に届かない。所詮は草。それでも私は引っこ抜き続ける。届かなくてもバカバカしくても、ブチブチ、ブチブチ、ブチブチと――
「それ、俺にも一つ貸してくれない?」
急に背後から男の人の声がして、慌てて振り向く。瞬間、掴んでいた葦が抜けてバランスを崩してしまう。背中から倒れ込んだせいで視界が上を向いて、炭火みたいな色の空が一面に広がった。そこにおずおずと入ってきたのは、私と同年代くらいの男の人の顔。くせ毛なのか髪型は波打っていて、うねった髪が目元まで伸びている。上下共に紺色の作業着を着ていたが、この服装は英生さんがよく着ているものに似ていた。おそらく、現モミジの人なのだろう。困惑した顔で、倒れた私の顔を覗き込んでいる。私は起き上がって背中を払うと、平静を装ってこう尋ねた。
「……もしかして、ずっと見てたんですか?」
「まさか。叫びが聞こえたから見に来てみたら、あー、ほら、草を投げまわってるのが見えたから」
「ヴッ」
まあ自明だったとはいえ、心に事実がぐさりと刺さる。めちゃめちゃ見られたくないところを見られているし聞かれてたし、なんか言葉も選ばれてたよね絶対。恥ずかしさで死にそうだし、そもそも近くの人に聞かれるんじゃないかという懸念がすっかり抜けていた。湖の開放感が何もかも悪い。
「ハハ、誰にだって嫌なときはあるっしょ。てか、君を見てたら俺も同じことやりたくなってきてさ。その草貸してよ」
「この葦のこと?」
「そうそう、草でも葦でも何でもいいから」
自分でそこら辺から抜けばいいのにと思いつつ、私は握っていた葦を手渡す。彼はそれを手に取ると、両手でぐちゃぐちゃと丸め始めた。
「遠くまで飛ばすコツはとにかく固めること。まあ見てなよ、できる限り抵抗を小さくして、砲弾みたいにこうすれば――ッ!」
彼は葦の塊をぐっと片手で握りしめて、そのまま思いっきり斜め上に放り投げた。それはおそらく最適な角度で射出され、私の投げていた葦よりも遠くへと飛んでいき――
「あ」
……案の定、湖の手前に落ちた。私よりも遠くには届いたけど、水にはまだまだ遠い。
「クソッ、軽すぎて飛距離が出ねーっ」
「全然ダメじゃん」
意気込みとは全く異なる結果に対し、智明が悔しそうに唸る。私が半笑いで煽ると、彼は口を尖らせて言い返してきた。
「これはハード的な制約だししゃーない。泥混ぜてたら絶対うまくいってた」
「レギュレーション違反」
「じゃあ一生無理だよこんなの」
そう言って、彼は拗ねた表情でそっぽを向く。最初は多少大人びているように見えたけど、中身は子供っぽいのかも。煽りに弱いところとかは柚に似ててかわいい。
「ねえ、名前教えてよ。あと歳も」
結構話しやすい相手っぽいので、そう話を切り出してみる。話し相手もいなかったし、暇を潰すにはちょうどいい。彼は再度こちらに向いて、そっけなく答えた。
「俺は智明で、十八。そっちは?」
「私は芽衣。やっぱり同い年か」
「ふーん」
「……その反応はなくない?」
「いや、こういうときにどう反応すればいいのか分からんだろ」
逆に私が口を尖らせてみると、彼……もとい智明は思った通りの困り方をしてくれた。よし、こういうタイプなら安心して会話できそうだ。
「ごめん。ところで、智明はモミジの人だよね。今日はなんでここに来たの?」
「俺はまあ、付き添いみたいなもんかな。そっちこそ、こんな浜辺で何やってたんだよ」
「暇つぶし」
「はあ?」
「私も代表たちに着いてきただけだから、実質付き添い。一応部外者だから、ここで待ってるの」
「じゃあ俺らは付き添い仲間か」
「だね」
お互いに共通点を見出して親近感が湧く。サクラでこう雑に話せる人はいなかったから、かなり新鮮な気分だ。ヒマワリで過ごしていた頃は、同級生とこんな風に会話してたっけ……なんて過去を懐かしんでいると、
「でもサクラってことは、やっぱ芽衣はプログラムに強いんだろ? いいよな、専門分野があるのはさ」
「私は別に。というか、そう言うと智明には専門分野がないみたいじゃん」
何気ない智明のぼやきに違和感を感じて、返事がてら確認してみる。
「ホントにないんだよ、去年に移住してきた身だから」
「……」
「身体能力には自信あるけどさ、機械や回路には詳しくないから困ってんだよな。工場勤務はいいけど、このままじゃずっとレーン作業だ」
私は、智明の回答を聞いて硬直してしまった。なにせ、自分と同じ外様の人間に会うのは、サクラに来て以来初めてのことだったから。もちろん頭では存在していて当たり前と分かっていたけど、こんな場所で巡り合うなんて思ってもみなかった。
「おい、なんか俺悪いこと言ったか? 急に黙られると困るんだけど」
「……私も難民だからさ、まさか同じような人に会えるって思ってなくて」
「え、マジか。元々はどこに?」
「ヒマワリ」
「あー、なるほどね。もしかして艺涵にも会った?」
ヒマワリという名前を聞いてピンと来たのか、智明は些か同情的な声色と表情でそう尋ねてきた。嫌味な印象は一切感じられないから、純粋に私へ共感してくれているらしい。私が黙って頷くと、彼は意味深にため息をついた。
「艺涵、表だと優しいけど裏はコスいからな。前いたコミューンでも、ツバキとの交易で艺涵にしてやられたことが何度かあったしさ。それに、ヒマワリの話は……俺だったら耐えられん。サクラにまで行った上で正気を保ててる芽衣は、マジですごいよ」
智明の言葉に、胸のあたりがキュッとした。私は恥ずかしいというかむず痒くなって、普段なら絶対言わないような意地悪なことを言ってしまう。
「そういう言い方されると、割と腹立つなあって」
「わりぃ。確かに今のは失言だったよな、すまん」
「え? あ、いや嘘、嘘。褒めてもらえて普通に嬉しいよ」
冗談を真に受けて謝ってきた智明に対して、なぜか私の方がよっぽど狼狽していた。慌てて煽りを訂正撤回すると、智明は露骨に大きく息を漏らして、
「……こういう話題での冗談は洒落にならんから勘弁してくれ」
「ごめん」
安心半分怒り半分の温度感で私はこってり絞られた。やれやれ、慣れないことはするもんじゃないな。
「ってか、立場的には外様同士なんだから、お互い気を使うのも変な話だよな。俺も芽衣の気持ちは多少分かると思うし」
「さすがにそれは言い過ぎ。私はそこまで単純じゃないよ」
「へえ、そうか? じゃあ例えばさ……芽衣は、サクラに心から馴染みきれてるか?」
「ゔっ……」
「いや思いっきり図星じゃん。イキってたくせに弱すぎるだろ」
悩んでいたことをズバリ言い当てられて何も言い返せない。あまりのスピート陥落ぶりに自分自身が心配になる。智明は呆れたようにわざとらしく咳払いをしてから、諭すような口調で続きを話し始めた。
「まあ分かるよ、俺だってそうだから。前いたコミューンは資源も少ない上に年寄りばっかで生活が苦しくて、ちょうど人を集めてたモミジに家族で逃げてきたんだ。でも、移住してハイ仲良くなりました、とはならない。周りの目はやっぱ気になるし……もらった仕事も、工場での淡々とした単純作業だ。職人や技師が別の部屋でガンガン成果上げてるのを見ると、やっぱ思うところはあるよな」
「……」
「生活は確かにマシにはなったけど、俺みたいな人間はいつ切られるか分かんないし。一方で、重宝されるような専門技能なんて早々身につかない。何よりうぜーのはさぁ、周り、というかみんな俺に優しいんだよ。配慮されてる感が伝わってくるから文句も言えない。いっそ突き放してくれりゃ、俺だって他人のことなんか考えずに……」
智明はそう言って自嘲気味に笑いながら、足元の葦を何本か引っこ抜く。ひとしきり葦を手に取ると、さっきと同様に手元でぐしゃぐしゃと丸め始めた。
「でも、そんな俺にも千載一遇のチャンスが巡ってきてさ。うまくやれば、今後はあんまり心配せずに過ごせるようになるんだ。そしたら親と一緒に穏やかに暮らせる上に、誰かと結婚だってできるかもしれない。だから――」
彼は大きく振りかぶって、再度葦の塊を湖へと投げつけた。角度も勢いも完璧に見えたそれは……やっぱり手前に落ちてしまう。どんなに努力しても、葦では湖に届かない。智明は肩をすくめてから、一転してさっぱりした笑みで私に向き直った。
「芽衣も、変に悩む必要なんかないって。今は違っても、その時が来たら自然とうまくいくよ。もちろんチャンスさえ逃さなければ、って但し書きはつくだろうけどな」
「そうかな」
「そうだよ。過去もあるだろうけどさ、俺たちは今を生きてんだ。移民同士、絶対幸せになってやろうぜ。じゃなきゃ、世の中バカバカしくてやってられんだろ」
智明が「バカバカしい」を強調してそう言った。バカバカしい……そうだ、確かにバカバカしい。過去に囚われて周りとの距離に悩むなんて、本当に間抜けだ。
「うん。幸せになるよ、私」
「よしよし、その意気だ。だって俺たちは――」
そこで急に、彼の体から大きな電子音が鳴り響いた。彼は慌てた様子でズボンのポケットから小さな機械を取り出して、
「悪い、呼び出し食らっちまった。じゃ、お互い頑張ろうな!」
智明は走って会議所の方へと戻っていく。私は彼が完全に見えなくなるまで、その後ろ姿をずっと見つめていた。
「……」
手持ち無沙汰になって、シャツの胸元をギュッと掴む。とくとくと拍を刻む心臓の鼓動が早くなっているのは……ただの気のせいだ、きっと。
***
智明が呼ばれてから十五分くらいが経って、湖畔はすっかり夜闇に包まれている。私はさっきまでの会話を思い出しながら、相変わらず湖畔に座り続けていた。静かな夜、聞こえるのはほんの僅かなさざ波の音だけ……。それなのに、不思議ともう寂しさは感じない。
そこでふと、そもそもどうして彼が呼び出されたんだろうなと考えて……ハッとする。そうだよ、私は何をボーッとしていたんだ。「付き添い」で来た智明が呼ばれたということは、会議に進展があったのかもしれない。
「思ってたよりもかなり早いけど、可能性としてなくはないよね」
急いで立ち上がると、彼の後を追うように私も会議所へと突っ走る。会議所の前まで来たところで案の定、建物から人が出てきているのが目に入った。いつの間にかモミジ側は撤収が完了したのか、准さんが乗ってきたのと同じ車両が会議所を発っていく様子すら伺える。会議は長引くどころじゃない、想定よりも随分と早い速度で結論が出たらしい。時間的に、智明が向かってすぐに終わったのだろう。思っていた展開と現実が違いすぎて、胸騒ぎが収まらない。
玄関前に到着したところで、中から出てきた艺涵さんと鉢合わせになる。目を逸らそうとした私に、艺涵さんはすかさず声をかけてきた。
「あら、芽衣さん」
「……どうも」
私は内心毒づきながらも小さく挨拶を返す。艺涵さんは私の様子を見て勘付いたらしく、建物の中を指差して言った。
「サクラの人ならまだ中にいらっしゃいますよ。なにせ、モミジの方にしてやられたみたいでしたからね」
「えっ――」
「お迎えに行かれては? もう人もいませんから」
悪い予感が的中して一気に脈が上がる。私は艺涵さんに小さく礼をすると、勧められるがままに建物の中へと駆け込んだ。既に会議所内はがらんとしていて、目的の会議室がどこかが分からない。直感的に二階へ駆け上がったところで、大会議室らしい両開きの扉を見つける。『サクラ・モミジ・ツバキ 合同会議』と印刷された紙が貼られているのを見て、ここだと確信する。
「みなさん!」
扉を跳ね飛ばすように開ける。電灯に照らされた会議室の真ん中には大きな机があり、それを囲むように背もたれのある椅子がいくつか置かれていた。肝心の四人は、右側の席に座っていて――
「…………」
私は、四人の光景に愕然とした。和葉さんは腕を組みながら天井を見上げ、柚はうなだれたまま微動だにせず、英生さんは青ざめた顔で口元を抑えながら肩で大きく息をしている。口元からは庇い切れなかった吐瀉物が漏れ落ちていて、梓さんがその背中をさすっていた。梓さんは私の方に顔を向けると、固い表情のまま小さく首を横に振る。
すぐに私は悟った。サクラの命運を分ける会議は――最悪の形で決着したんだと。
本作品は、文芸サークル「変態美少女ふぃろそふぃ。」が2022年に発行した同人誌「東雲銀座広報 ゆり時計」に寄稿・収録されたものを修正・加筆したものです。