第一章 三話
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アパートの二階から降りて、柚と一緒に細長くて古いアスファルトの道を歩いて進む。左右に広がる空き地には青々とした背の高い草が生い茂り、時折現れる一軒家にはよく伸びた蔦が絡みついていた。このあたりはコミューンの中心部から少し離れていることもあって、住人数に対してのメンテナンス効率が悪い一軒家は割と放棄されている。一部が備蓄倉庫に転用されているとはいえ、そもそも今は資源が不足しがちということもあって、やはり捨てられている建物の方が圧倒的に多い。昔は『憧れのマイホーム』という言葉が流行っていたそうだけど、今となっては死語だった。
数分ほどで草木まみれだった視界がようやく開けて、夕日の残滓を浴びて小刻みに揺れながら光る湖が眼の前に広がる。それを囲むように山麓のちょうど正面には、一際大きな山がそびえ立っていた。この風景は何度見ても飽きないけど、個人的には日中の青空の方が好きだったりする。湖畔は風が少し強くて、前を歩く柚の髪がパラパラと宙を舞っていた。
左に曲がってしばらく行くと、右手に黄色い木製の手漕ぎ船が数隻揚げられた浜辺、左手に荒れた芝に覆われた五十メートル四方くらいの広場があって、さらに奥に二つの大きな移動式仮設テントが見える。経年劣化で薄汚れた白色の外観、分厚いタープの端がパタパタと音を立てるこのテントこそが目的地――このコミューンの名前を冠した唯一の公衆浴場『サクラ風呂』だ。
「毎回思うけどさ、サクラの人ってネーミングセンスないよね」
見慣れたテントを目指して歩いていると、柚が唐突にそう話を切り出してきた。話すネタがないからだろうけど、いきなり自己批判なんて珍しい。何かあったのかな。
「うーん? まあ、柚の命名ってちょっと変なときもあるよね。機械にギリシャ神話の神様の名前をつけたりとか」
「え、あ、そりゃ私は生粋のサクラ人だけど……じゃなくて! 風呂の名前のことを言ってるの!」
ムッとした表情で迫ってきた柚に「ごめんごめん」と謝る。なるほどそっちのことだったかと、今になって話の流れが腑に落ちた。柚は話の前提を端折ることが多いので、こういう齟齬がしばしば起きるのがちょっとした問題だ。かくもコミュニケーションは難しい。
「『サクラ風呂』のこと? いいじゃん、分かりやすいし」
「いやダサいでしょ。コミューンの名前そのまんまだし、末尾に風呂って付けてるだけなのもひねりがないし」
「そんなこと言ったら、私たちが住んでるアパートの名前だってダサいことになるけど」
「げ、ウチの『サクラコーポⅡ』なんて問題外すぎて記憶から消えてたよ……最後のⅡなんて聞いただけで全身から蕁麻疹が出るくらいにはどう考えても余計でしょ。でもまあ、確かにあれと比べたら『サクラ風呂』は相対的にカッコよくみえなくもないような気がしなくもないような……? Ⅱも入ってないし」
「私は入ってた方が好きだけどな」
「……今日の私、聞く相手を間違えまくってる気がする」
「えー」
ふくれっ面でぼやく柚をどうなだめようか考えてみるが、あんまりいい案が浮かんでこない。そうこうしているうちに、サクラ風呂の前までやってきていた。なんだかんだ、時間潰しとしてはいいネタだったかも。
「やあ、お二人。今日も仲がいいじゃないか」
二つのテントのうち右側、女風呂入口の横で折りたたみ式のキャンプ椅子に座る長髪の女の人……番頭である涼子さんが、落ち着いた声で私たちを呼ぶ。番頭をずっと務めている割に一年中長袖と長いジーンズの格好で、いつも物憂げな表情をしている変わった人だ。五十歳近い年齢にも関わらず、腰まで伸びる長い髪には白髪一つなく、一本一本が流れるようにさらさらとしている。常に冷静沈着なところといい、古い言い方なら『淑女』と表すのがしっくりくる佇まいだ。初対面時に挨拶したときには何やら苦悩するような表情をしていて、粗相でもしたかなと慌てた私に「この人はいつもこんな感じだよ」と柚が教えてくれたっけ。前に理由を尋ねたときは、番頭は暇だから、読んでいる本の内容に表情が左右されるんだと説明していた。本当かどうかは結局分かってない。
「こんばんは。今日の涼子さんはまた一段と憂いてますね」
「ん、この顔のことかい。君たちに心配されるなんて、私もまだまだだな」
私が冗談半分にそう言うと、涼子さんは右手を目元に当てて小さくため息をつく。細長い指が整った顔に沿って伸びて、儚さを帯びた眼差しも相まってか、夕闇の中で独特の存在感を放っている。絵に描いたらすごく綺麗だろうな、と感じずにはいられない。
そんな涼子さんの膝の上には日に焼けた装丁の文庫本が置いてあった。これが悩みのタネだとしたら、内容が気になる。
「夏目漱石の作品集だよ。さっきまで読んでいたのは、そのうちの『文鳥』でね。籠の中に閉じ込められた小鳥を、好きだった女に重ね合わせて描く作品さ」
私の目線で察したのだろう、私が心で思っていた疑問を涼子さんが答えてくれた。
「読んだことないですけど、そんなに悲しい作品なんですね」
「いや、内容自体は特にそうでもない。言うなれば……そう、漱石が人を小鳥に重ねたように、私も重ねてしまったんだろうな」
「えっと、何をですか?」
「このコミューン……サクラを、小鳥にね。まあ、何にでも現実と結びつけてしまう私の悪い癖でしかないけれど」
「はぁ」
「混乱させてしまったかな。でも大丈夫、若い君たちにはまだ時間と未来が――」
ぼーっと涼子さんの話を聞いていると、突然ぐいと柚に右腕を引かれた。見ると、彼女は苦笑いを浮かべながら、私をテントの入口へ半ば強引に引っ張っていこうとする、
「りょ、涼子さん! 今日って、確かお風呂閉まるの早いんでしたよね」
「そうだよ。ボイラー用の燃料が厳しくてね、今日は短縮営業――」
「それは大変だ、私たちも早く入らなくちゃ! というわけでほら、行くよ芽衣」
「分かったから柚、痛いってば」
芋を引っこ抜くかような力強さで引かれた私は慌てて涼子さんに会釈をすると、柚に続いてテントへと入った。
中に入ってすぐに靴を脱ぎ、すのこの足場へと上がる。まだ早いせいか、脱衣所は人もまばらだった。テントの上から下げられた高光度LEDから少し離れた棚で、私たちはてきぱきと着替えを済ませる。この場所にした理由は単純で、全体を照らせる強さのLED電灯は明るすぎて眩しいからだ。あと、近くだと直で照らされてる感じがしてちょっと恥ずかしい。今どき羞恥心なんてほとんどないようなものとはいえ。
「柚、さっきのは流石に失礼だよ。私も腕痛かったし」
服を脱いだところで、見えるように右腕の付け根をさすって圧力をかけると、柚は露骨にバツが悪そうな顔をした。実際、引きこもりとは思えない力の強さを柚が持っているせいで、肩に若干の違和感が残っている。
「ごめんって。でもさ、私はシンプルにあの人苦手だってずっと言ってるでしょ。勿体ぶった話し方とか衒学的なところとかヤな感じじゃん。でも存外ああいうのに男はコロッと騙されちゃうんだよね、知的だの何だの褒めそやすから増長するんだよケッくたばれバカチンコ共」
「後半はただの妄想になってない?」
「いーーーや絶対褒めてる、私はサクラのオッサンらには詳しいんだ。なにせ、もう十年来の付き合いになるからサ……」
「柚は『英生さんとこの子』で可愛がられてただけでしょ」
「う、うっさい」
図星だったのか、柚は顔を赤らめてぷいと顔をそむけると、浴槽の方へと歩いていった。
サクラ風呂には、戦時中に製造された巨大な移動式の簡易浴槽が二つ置いてある。湖から組み上げた水がボイラーで温められて、定期的に浴槽へと流し込まれる仕組みだ。濃い青色の厚いシートに覆われているこの浴槽は製造後十数年が経つ年代物らしいけど、一つあたり同時に十人くらいはゆったり入れるくらいのサイズ感なので伸び伸びできるのがとてもいい。特に今回は時間的にほとんど人がいないので、開放感もひとしおだった。
浴槽の手前には鉄むき出しの無骨なシャワーが設置されていて、湯船に浸かる前に体を洗うのがルールになっている。床に置いてある『一回だけ押す』と書かれた容器を軽くプッシュして、出てきたシャンプーを髪の毛に混ぜてしゃこしゃこと掻き回す。洗うのが簡単なのも私のようなショートヘアの利点の一つだ。容器の横にある皿から石鹸を取ると、タオルで泡立てて手早く体を洗っていく。ほのかに甘い香りを感じながら、最後にシャワーで全身から泡を流しきった。
タオルを絞って折りたたんだところで、柚も体を洗い終えて隣へと戻ってくる。ボサついていた彼女の長い髪の毛は、湯を吸い込んで背中の半ばまで艷やかに伸びてきっていた。
浴槽は意外と深いので、足場に乗って浴槽の仕切りを乗り越える。柚と一緒に浴槽へ入ると、二人ともほぼ同時にリラックスした声が出た。
「アア〜〜、極楽極楽。このご時世、仕事終わりの風呂だけが万人向けの娯楽だよ」
「お風呂はいいよね。一日の終わりに浸かると、すぐに疲れも吹き飛ぶし」
「今はなき日本が残した、最高の文化的な置き土産ってやつですなあ。まあ娯楽という観点で言えば、恋人がいる人間は夜にベッドの上で楽しく――」
「こら、ここでそういう話題はだめ」
「ぐあっ」
下の話を持ち出そうとする柚の頭を軽く叩く。調子に乗るとすぐこういう話題を出そうとするのが柚の悪いクセだ。ぐるりと見渡すと、隣の浴槽に浸かりながら苦笑いする女の人と目が合う。恥ずかしくなって私は小さく頭を下げた。ああ、もう。
「なんだよ、冗談なんだから叩かなくてもいいじゃん! あーほら今叩かれたせいで体の分子構造が壊れて疲れと一緒に私も溶け出しはじめちゃいました、私が最終的に液体になっても骨だけは拾ってお墓に埋めといてね……できれば父さんも同じ墓に……」
「想像したらホラーな光景だからちゃんと生きて、そして顔を沈めない」
ずるずると浴槽の奥に体を滑らせて、口元が湯船につきそうになった柚の両脇を慌てて抱えた。それを待ってから、柚は狙い通りと言わんばかりの満足気な表情でゆっくりとこちらに振り返る。上気した彼女の頬は妙にあざとく感じられて、言葉に詰まった私は、咄嗟にさっきまで話していた内容を掘り返す。
「そういえば、さっき柚も言ってたけど、サクラができてからもう十年なんだっけ。コミューンがなくなって移民してきた私からすれば、ずっと残ってるのは羨ましいな」
「……」
言ってすぐ、これは意地が悪い言葉だったかなと思い直すも既に遅い。柚は悩んでいるのか数秒ほど黙りこんでから、最終的に困ったような笑みを浮かべて答えた。
「芽衣の境遇についてはどう反応していいか分かんないけどさ……やっぱり前のコミューンの方が良かったとか、あるの?」
「まあ……なんだかんだ八年いた場所だし、思うところはあるよ。でも、今の私にとってサクラは大事な居場所。だから羨ましいって感じるのと同時に、誇らしくもあるかな。三年しかいない身だけどね」
「そっか、うん。でも大丈夫、芽衣もサクラの立派な一員だって! さあ同志よ、この美しいコミューンを今後も共に発展させていこうではないかっ」
私の返答に安心してか、柚の表情と声色がすぐに元の明るいものへ戻る。変に心配させてしまって申し訳ないことをしたな、と私は心の中で反省した。一方勢いを取り戻した柚は、やや重めの話題を別の角度で切り出してくる。
「にしても、日本や世界が完全崩壊したのが十一年前、サクラができたのが十年前、芽衣が来たのが三年前と考えると、怒涛の勢いだと思わない?」
「それもそうだし、完全崩壊っていうのも改めて考えると凄まじいというか。私たちは子供の頃からそういう世界だったけど、英生さんとかの話を聞くといろいろあったみたいだし」
「『第三次世界大戦、核爆弾に化学兵器の使用、大量殺戮に国家と世界秩序の崩壊……文字通り世界が終わった後に俺たちは生きてるんだぞ、ロマンあるだろ』って昔は父さんが子守唄代わりによく聞かせてくれてたような」
「それは教育としてどうなんだろう」
「おかげで今の私がいるんだから大成功でしょ」
「さすが、自己肯定力がすごい」
上機嫌の英生さんが適当にアレコレ話す隣で、布団に寝転がった幼い柚が楽しそうにそれを聞いている光景が脳裏に浮かぶ。今とさほど変わらない親子仲を想像して一人で笑う私を、柚は若干怪訝な目つきで眺めていた。
「フフッ、ごめん。でも『東京』とかは一度でいいから行ってみたかったな。もうなくなっちゃったらしいけど」
前のコミューンで教わった東京という場所を思い出して、ぼんやりと呟く。戦時中に攻撃を受けて焦土になったという話だけど、戦前は建物が立ち並び人がひしめくすごい場所だったらしい。東京出身のおじいさんが寂しそうにそう話してくれたのが印象的で、ずっと記憶に残っていた。
「東京ねえ……人と人の繋がりが薄い場所だったって父さんは言ってたけどさ。サクラ暮らしが長すぎて、そう言われても全然想像できないんだよね」
「東京だけで一千万人以上いたらしいから、お互いのことなんか気にしてられなかったんじゃない? そこまで人が多いと薄情になっちゃうのも分かる」
「サクラが千人くらいだから、みんな優しいのも当然っちゃ当然か」
「会えばだいたい顔見知りというか、半ば家族みたいな感じだしね」
「ホント、こんな身内感漂う場所で薄情な接し方したら次の日怖くて出歩けなくなるっての」
「ということは、もしかして柚が引きこもりがちなのって――」
「いや私はただ面倒がってるだけだから。それに私はまだ一応子供だし、周りの目もそんなに厳しくないっていうか。決して怖い人がいるとかそういうわけでは」
微妙に心当たりがあるのか、柚は自己弁護混じりの煮えきらない返事をする。調子者のことだから、きっと誰かに叱られたとかそんなところだろうか。彼女にとって怖い人は誰なのか気になる。
「あー、でも今の私たちにとって薄情といえば」
そうやってあれこれ柚のことを想像していると、彼女は唐突に、
「東京なんかより、真っ先にモミジが頭に浮かぶな」
「……」
忌々しげな表情で、モミジのことをそう吐き捨てる。雰囲気が一気に変質して、温かいはずの湯船が一気に冷え切ったようにすら感じられた。離れてしまった心理的な距離をもう一度縮めようと、相槌がてら柚の会話に乗ってみることにした。
「追い出されたんだよね、サクラの人たち」
「そうだよ……っていうか芽衣にも何度か話してるでしょ? サクラの人間が、非効率って言われてモミジから追い出された話」
「あ、うん」
怪訝な顔をした柚に私はやや慌てて頷き返す。ただの相槌のつもりが変に刺さってしまったらしい。もちろん、サクラの歴史はサクラに来てから何度も教えてもらっていた。
大まかな流れは、確かこうだ。秘密裏に新型兵器を開発する目的で、戦前の政府が工学の研究者や技術者をこの地域へ集めた。しかし、設備を整え、開発が開始されてまもなく大戦が始まってしまう。それから数年で核弾頭により東京や主要都市が消滅し政府も崩壊。その後、残っていた人たちで立ち上げたのがモミジだった。
最初は平和だったものの、物資の貯蓄が底をつき生活が厳しくなると、扱いづらい情報系の人間との対立が勃発。結局、情報系の人らは『資源不足な状態でも一定の能力を発揮できる他系と違って、電力を食うマシンやシステムがなけりゃ意味のない非効率なやつらだ』と烙印を押され、追い出されてしまう。
その方針を推し進めたのが、モミジのエンジニア中最年少で機械系を牽引していた天才設計者――現モミジ代表の准という人らしい。
「ひどい話だと思う。それでも、モミジはその時からインフラとか物資の提供をし続けてくれてるのは驚くけどさ」
「あくまで最低限だよ。それを盾に、モミジが作ってる機械類のプログラムとか手伝わされてる。私や父さんもそれが仕事で忙しいし、土地も人も農業に適してるわけじゃないから自給自足も難しい」
「……」
「もちろん、向こうだってその点は同じで農業とかが得意なわけじゃない。でも、向こうには引き継いだ軍用施設があるし、そこで機械を製造、輸出することで食料や資源の獲得がかなりできてるって話だよ。そのくせ、その製品の中身を書かせたこっちには資源を渋ってる」
「ズルい」
「そう、今のモミジはまさしくズルの塊! サクラがみんないい人なのになんでモミジがクソ野郎だらけなのかは今世紀最大の謎でさぁ。まあサクラにも涼子さんみたいな変わり者はいるけど別に悪い人じゃないし、情報系にいい人が多すぎたのかも。ただ、父さんは……もともと情報系ではないけど」
柚は途中までまくしたてるように話してから、英生さんのところになって急に尻すぼみになる。一家の過去について触れそうになると、いつも柚はこんな感じに言い淀んでいた。三年間過ごしても未だに細かいことが聞けていないのが、私がこの話題で疎外感を感じる要因の一つであることは間違いない。そう考えると、この話の流れはチャンスかもしれなかった。今なら、ようやく聞き出せるかも。
「結局、英生さんには何があったの? サクラとモミジの関係は知ってるけど、二人にはまた別の事情があるんだよね。三年間知らないままだな、私」
「う……」
柚の目が泳いでいる。立ち上る湯気越しに、彼女が必死に思考を巡らせているのがありありと伝わってきた。これは押せばいけそう。そうだ、こういうときに効く言葉は……
「芽衣、自分で言い出しといて何だけどさ……辛気臭い話は終わりにしない? モミジは単に裏切り者の悪いやつで、サクラの天敵。それでオシマイってことで、ね」
私が切り出すよりも先に、柚がにへらとした表情で私へそう告げる。その柚の目を見たとき、
ああ、私は人として最低なことをしたんだと悟った。
「ごめん。聞いちゃいけないことだった」
「うう、芽衣を除け者にしたいわけじゃないってことだけは全力で伝わってて欲しいんですが……! でも、でもね、この話は……あんまりしたくないんだよ。やっぱ、思い出すだけでも辛いからさ」
「……」
「だから、私や父さんも芽衣の過去のことを詳しく聞くつもりはないよ。芽衣はヒマワリってコミューンが潰れたからこっちにやってきて、私たちと気が合った。私はそれだけ知ってれば十分。何せ、こんな世の中だもんね」
私は柚から顔をそらすように俯いて、湯船に映る歪んだ自分を眺める。その通りだった。私だって過去を全部話せているわけではないのに、こっちだけ過去を知りたいなんて……なんておこがましいんだろう。
そう理性が反省する一方で、でもやっぱり、柚を深く知りたいという思いも捨てきれない。私は頬を両手で叩いて、勢いよく湯船から立ち上がる。
「のぼせちゃった。柚も上がらない?」
「うん、出よっかな」
「じゃあ今日だけは、特別に体を拭いてあげます」
「私は五歳児かよ……でもまあ、苦しゅうない」
自分の醜悪な部分をごまかすように、わざと明るく振る舞う。自覚はある。しっかりした子、優等生、母親みたい。昔からそう言われがちだった私の中にはきっと、誰にも見せられないほど酷く濁りきった何かが詰まっている。私はそれがどうしようもなく嫌いだから……偽物の優しさで、自分を包み隠して生きているのだと思う。
本作品は、文芸サークル「変態美少女ふぃろそふぃ。」が2022年に発行した同人誌「東雲銀座広報 ゆり時計」に寄稿・収録されたものを修正・加筆したものです。