第一章 一話
「ねーねー父さん」
「なんだ?」
「人間ってさ、なんでこんなあっつい中で働かなくちゃいけないの? もう二十一世紀半ばだよ? 昔の人からしたらSFの世界だよ? それがこんな未来だなんて、あんまりだあ……」
リビングに置かれた二人がけの古びたソファで干物のように倒れ込んでいる柚が、怠惰と疲れを凝縮したような声でそんなことを言っている。彼女のボサッとした長い髪の毛もあって、角度次第ではまるで死体に見えそうだ。ソファの向こうではベランダに続く掃き出し窓が網戸を残して全開にされているが、肝心の風が吹いていない。せっかく吊るした年代物の風鈴も、こうなればただの飾りだ。
ソファの隣では木製の食卓兼作業机にノートパソコンと小型の機械を並べて、柚と同様だらしなく伸びた髪の英生さんがパチパチとキーボードを叩いていた。作業の邪魔なのかヘアピンで前髪を止めている姿からはやはり『無精』の二文字が感じられて、親子というのはここまで似るものなのだなあと感心してしまう。小さい頃から親がいない私にとっては、何度見ても新鮮というか不思議な光景だ。
「分かるぞ〜柚。俺も柚くらいの歳……あーっと十七だったか、その頃はそんなことを思ってたもんだ」
「だよねー、人間仕事なんかやめちまえよホント。夏の昼は涼しい場所で寝て、夜も肉だけ食って寝るのが一番――」
「だけどな、大学生になってアルバイトをするようになって、初めて先輩から感謝された瞬間に気がついたんだよ。『ああ、人類ってのは、仕事をするために生きてるんだ』って――」
「は?」
「柚はまだ家に引きこもってるから分からないんだろう。でもな、仕事して褒められる瞬間っていうのが人間一番嬉しいんだぞ。だから父さんは大学も中退して、ずっと技術職一筋でやってきたんだ。朝六時から夜二十三時まで馬車馬のように働いてな。そうそう、中でも一番大変だったのは三十の頃にあったデスマーチで……」
「その話聞くのもう一万回目くらいだよ。つーかサラッと私馬鹿にされてない? いやでも父さんにこの話を振った私は確かに馬鹿だったか」
「さあ柚も寝っ転がってないで働け! 俺だって得意じゃないプログラム書いてんだから! いいか、俺が若い頃はな……」
「うるせーよジジイ、プログラムなら午前中に私が大体書いてあげたじゃん。なんで残りが書けないんだよ〜、あーまったく父さんはこれだから困る」
ブツブツと文句を言いながらのっそりと柚が起き上がったところで、台所でグラスを盆に載せ終えた私は二人の元へと向かう。
「はい、コーヒーです。冷たいやつ」
「いつも悪いな。そんな気を遣わなくてもいいのに」
机の上にグラスを置いた私に小さく頭を下げて、英生さんが申し訳なさそうに言った。
「これくらいはさせてください。私は居候の身ですから」
「違う、俺たちは対等だ。それに朝は畑を見に行ってたんだろ? 柚をどかしてソファで休んでろって」
「これくらい、慣れてるので大丈夫です」
「それは理由になってねえ。ほら、休んだ休んだ」
笑いながら私が言った言葉を、英生さんはきっぱりと否定した。私としては本心だったし、こんな大変な時代に匿ってくれる二人には感謝しかない。というか、このコミューンだと私にはこういう仕事しかできないから、むしろやらせてほしいまであるけど。
「そうだよ芽衣、そんなダメ親父放っておいて一緒に寝よ」
「柚は今日の分の仕事が残ってるだろ。つーか家事当番、本当は今日お前なんだぞ。結局朝は俺がやったが」
「めんどくさい。プログラム書いてあげたんだからいいでしょ」
「ったく、俺もお前を甘やかしすぎたよな……」
「そーそー、教育が悪いんだから親の責任だよね」
「んだと」
ため息まじりに頭をかいた英生さんを柚が煽って、若干険悪そうな雰囲気になる。一見喧嘩みたいに見えるこの光景に最初は戸惑ったのを思い出した。これが二人なりのコミュニケーションなんだということが徐々に分かってきたのは、一緒に生活を始めて半年くらいが経った頃のこと。共同生活歴三年になった現在では、こういうときの二人に一番効く返し方もバッチリ会得している。たとえばこんな具合に。
「じゃあ、今日の残りの家事は私がやります。ご飯とか作りますから、二人はゆっくりしててください」
「えっ、いいの?」
「いいよ。朝から農作業で疲れてますが、でも私は立場が弱いし? 当番を守らない人がいても、所詮よそ者の私は馬車馬のように働くしかないよ。きっと私みたいな女は死ぬまでこんな感じなんだろうな〜」
「あー、分かったってば! 嘘! 冗談だから! 芽衣はこれ以上働いちゃだめ!」
「でも――」
「すいません私が悪かったです当番守ります頼むから休んでてくださいお願いします芽衣様」
「うん、じゃあお願い」
「……はあぁ」
「やっぱり疲れてるみたいなら――」
「いやいや元気いっぱい! よく寝た! さあ仕事しようかな仕事! というわけで父さんはそこどいて他の仕事やって」
「ウス、じゃあこっちは頼んだ。俺は本業をやるよ」
途端にパタパタと機敏になった柚がラップトップの前に座り、英生さんはその隣にある小型の機械の前に移動する。英生さんは私の方に顔を向けると、右手で小さく親指を突き立てた。私は愛想笑いを返しておく。無事に回り始めたことを確認して、私は自分の分のグラスを取るとソファに座った。これ以上あれこれ動くとややこしくなる。
アイスコーヒーを口に含んで、グラスを揺らす。冷たい感覚と氷同士の軽い音が混じって、夏の暑さが幾分か和らいだ気がした。とはいえ、私たちが住んでいるのは山の中……いわゆる田舎だから、平地に比べたらずっと涼しい。以前に住んでいた場所では、もっと凄まじい暑さだったのを覚えている。
そういえば、あれも夏の日だったっけ。バタバタと倒れていく老人たち。食料不足で殴り合いになる隣近所。割れたアスファルトに燃える陽炎の中、血を流しながら倒れている一家――
「……やめやめ」
左右に首を振って、ぐいと口元のグラスを傾ける。冷たい氷とコーヒーを、脳裏に浮かび上がってきた嫌な記憶ごと胃へと流し込んだ。「終わったことは振り返らない」は、この厳しい時代を生き抜く知恵の一つだ。そして、今回のコーヒーは少し薄かったかも。
首を回して、二人の様子を伺う。柚も英生さんも、さっきと打って変わって黙々と作業に集中していた。柚はキーボードを叩いてはじっと考えるのを何度も繰り返していて、英生さんは手先で器用に小さな機械の配線を組み替えているようだ。私がじっと見つめていても、二人ともこちらに気づく素振りはない。お互いに文句を言い合うことはあってもやっぱり似たもの同士というか、根っからの技術者なんだなあと感じる。そう考えるとなんだか二人がより可愛らしく思えてきて、口元が少しほころんだ。
この人たちはいい人だ。私みたいな人を受け入れてくれて、仕事にも一生懸命で。もし世界が少しだけ違っていたらきっと、英生さんたちの家族は何不自由なく幸せに暮らせていたんだろう。
でも本当に、神様っていうのは意地悪だから、
「……皮肉な話だよね。一生懸命書いたこのドローンの制御用プログラムもさ、私たちは使えないんでしょ」
「言うな。クソモミジが、俺たちにドローンなんて高級なもんをよこしてくれると思うか?」
「だよね。あー、モミジなんてみんな死ねばいいのに」
「今は我慢だ。モミジをぶち倒すまでの仕事だと割り切れ」
「分かってる。けど、さ」
隣のコミューンへの呪詛を吐く二人の姿を見る度、私は二人が遠くに行ってしまったように感じて、ちょっと悲しい。
本作品は、文芸サークル「変態美少女ふぃろそふぃ。」が2022年に発行した同人誌「東雲銀座広報 ゆり時計」に寄稿・収録されたものを修正・加筆したものです。