間章 二話
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あれから三日が経った。昼間だというのに、リビングには私以外誰もいない。普段なら誰かが仕事をしている時間帯だけど、あの会議以降、我が家では誰一人として仕事をしていない。理由は、会議に現れたという参型だ。梓さんから聞いた話では、モミジは所詮作業用スーツの技術しか持っていないと甘く見ていたところに、量産体制になるまで仕上がった戦闘用スーツなんて出されたらしい。当事者からすれば、衝撃なんてレベルでは到底済まないんだろうなと思う。日常生活に気を使う余裕がなくなるのも分かる。
かくいう私もアイスコーヒーを入れたグラスを片手に、リビングのソファに座って怠惰な時間を過ごしていた。弱い風が時折風鈴を揺らして、わずかに心地よい音が鳴る。
リン……リン……。世界の終末なんてものがあるのだとしたら、きっと、今日とさほど変わらないのだろうな、なんて思ったりして。
「おはよ」
声が聞こえた方へ振り返ると、寝間着姿の柚が寝室からリビングへとやってきていた。髪が爆発したかのように乱れていて、目元も赤く腫れているように見える。服もずっと寝間着のままだし、英生さんと違って、ほとんど寝室に籠っているようだった。流石に体はシャワーで洗ってると思うけど……食事についても、二人は私が作り置きしたものをそれぞれ勝手に食べているだけだ。いつここへ来ているのかも分からない。団欒は一切なくなった。
そんな柚は、ふらふらとした足取りでそのまま台所へと歩いていく。
「柚、大丈夫?」
「まあ、別に」
今の柚に何を尋ねても空返事しか返ってこない。昨日も一昨日も同じだったから驚きはないけど、思わずため息を漏らしてしまう程度にはつらい反応だった。
今までも似たような状況になったことはあったものの、一晩経てば柚は元気になっていたし、英生さんが話し相手になってくれたりもした。でも、今はどちらもない。
これがずっと続くのだとしたら、本当に……
「……夢を見てたんだ」
気分が沈み込みそうになったところで、グラスに水を注いでいる柚がぽつりと呟く。驚いた私の胸が大きく脈打った。三日間の上の空ループが、ようやく断ち切られるかもしれない。
「っていっても、あの会議からずっと嫌な夢ばっかりでさ。心臓がバクバク鳴ってる中、死にそうな感情だけ抱えて嫌々起きるわけ。生きる気力も失うレベルの最悪の目覚めでしょ? だから寝たくなくなって、寝る時間が遅くなって――じゃーん、見事に昼夜暗転した美少女の完成」
柚は冗談めかして笑ったが、その声からは力が感じられない。柚は多少無理をしてでも、私に話しかけてきてくれているんだと思った。一言も聞き逃さないよう、彼女の声に精神を集中する。
「でもね、さっきまで見てたのは違ったんだよ。ホントにいい夢だった。決闘とか政治とか食料とか……面倒なものはぜえええぇぇぇんぶ捨てて、みんなで山の中を走り回ったり、湖を泳いで。夕方になったら、芽衣と一緒に涼子さんを回避しつつお風呂に入って、でもなんだかんだ話す羽目になって……文句言いながら家に帰ったら、父さんがご飯を作って待ってくれてて。一緒に机を囲んでご飯を食べて、芽衣が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、今日あった話とか明日の予定とか話してさ」
「うん」
「晴れの日も、雨の日もずっと幸せで。ある日、遠出をしたらなぜか梓さんや和葉さんと会って、近くにいた孝介さんが意味ありげにニヤニヤしてたり。夜は野原にテントを立てて、脇で焚火をしながら……芽衣と一緒に寝るんだ」
そこで一旦言葉が途切れる。じっと耳を澄ますと、柚が呼吸する音が聞こえた気がした。
「でもさ、どんなに綺麗で楽しくて、そうあってほしい未来でも、結局は夢。ただの夢なんだよ。父さんの技術は盗まれて、サクラは結局勝てなくて……大好きだった場所も人も、みんなバラバラになるんだ。モミジに吸収されたら、今のままじゃいられないから……」
柚。父親とそっくりのお調子者で、元気いっぱいで、面白くて、かわいい妹みたいな存在。一方、強がりなくせに寂しがり屋で、面倒くさくて、毒舌家なくせに独り言でしか弱みを吐き出せない天邪鬼……そしてきっと、私のことを好きでいてくれる女の子。
そんな彼女が、私の前で落ち込んでいる。私たちの居場所――サクラが、奪われてしまうことを怖がっている。その気持ちが、私には痛いほど分かる。
「夢じゃない、夢なんかじゃない」
「えっ?」
「柚――大事な場所を守るっていうのは、夢で終わらせちゃダメだよ。ヒマワリを見てきた私には分かる」
私だって、時折ヒマワリを夢に見る。でも、私の夢は既に終わってしまっているから。
柚には、同じ思いをして欲しくない。
だから私は、言葉を紡ぐことにした。
「サクラを囲んでいる山の反対側にあった、人口三千人くらいの田舎のコミューン。戦時中に私が疎開してきた自治体の後継として戦後にできたのがヒマワリ。疎開したのが小さい頃だったから、親の記憶が正直ほとんどないんだよね」
そう、自分の親のことはよく覚えていない。不幸中の幸いなのかもしれないけど。
親は東京で官公庁の仕事をしていたらしく、私を連れて東京を離れられなかったらしい。結果、私は小学生になる直前に、郊外の施設へ疎開させられた。
それから間もなく、核弾頭によって東京は消滅してしまう。私は孤児になったものの、親との接点が薄すぎたせいで何の感情も抱かずに済んだ。
私にとっての本当の家族は、施設にいる大人や同じような境遇の同年代の友人たちだった。
「ボランティアの人が開いてる学校に通いながら、農作業や仕事の手伝いをして。サクラみたいにほとんど顔見知りだったし、なんだかんだ楽しい生活だったんだよ」
「……」
「とはいえ生活は苦しかったし、年齢が高い人たちから倒れていって、他のコミューンに移る人も多くてね。年を経るごとに悪化するうち、私が見知っている人たちも荒んでいった。『別のコミューンに移った裏切り者のせいで苦しい』『他のコミューンがヒマワリを潰そうとしている』『こうなったらそいつらを武力で黙らせるしかない』って大人たちが言い始めて、実際に計画や準備が始まって……」
脳裏に浮かんだ凄惨な光景を、顔を左右に振って追い出す。拳を握って、何度か深呼吸をする。よし、大丈夫。
「ツバキに、私たちのコミューンの襲撃計画が漏れたのが運の尽きだった。誰が告発したのかは分からない。ツバキは大人たちの計画を全部把握していて……協定違反として、ヒマワリを制裁。他のコミューンもツバキには逆らえないから交易が全部止まって、完全な自給自足になった。未来のないヒマワリから逃げ出そうとする人が増える中、裏切り者の魔女狩りが始まって……見知らぬ人じゃない、見たこと話したことがある人同士で、殺し合ってね。おぞましくて、私も逃げ出した」
混乱の中、私たちの施設にも大人が飛び込んできた。包丁を持って何かを喚いているのが怖くて、私たち子供は散り散りに逃げた。もうヒマワリは安全じゃないし、私は追手から身を隠そうと山道へ走って。
その途中、戦前からある住宅地を突っ切ろうとしたところで、見た。
ブロック塀に挟まれた道に横たわる大人と子どもの死体。大きな赤黒い染みの周りを飛び回るハエ。
知っている顔だった。学校でボランティアをしてくれていた、かつての先生。私がハズレと呼んでいた人。
その人の名前を、結局私は知らないまま……怖くなって、逃げて、逃げて、ただ逃げて。
「気が付いたら山道を登り切ってた。ヒマワリの方を見下ろしたら、騒ぎの音と黒煙が立ち上ってて。一方で遠くには、ツバキの大きな畑と家々が見えた。ああ、『負ける』ってこういうことなんだって、そこで分かったよ。だから……」
私は手にしていたグラスを飲み干して、乾いてしまった唇をもう一度湿らせた。
「夢で終わらせるなんてダメだと思う。私も、もっといろんな人と仲良くなっていれば大人たちを止められたかもしれない。制裁を受けた後に大人たちを説得して、立て直しを進める道だってあったかもしれない。でも私は眺めるだけだったから、人もヒマワリも死んだ。幸せな未来を掴むためには、できることをやるしかない」
「……うん」
「だけど、だけどね」
私は先を続けようとして、自分の声が小刻みに震えてしまうことに気が付く。悲しみでも怒りが原因じゃない。大きく重たい不安と恐れが、私の中で渦巻いているせいだ。
「こうやって綺麗事を言ってる私が言うのも変だけどさ、やっぱり怖いよ。できることをやるって言うのは簡単だけど、一歩間違えれば、ヒマワリの大人たちと同じことになる。正解を見誤って突き進んだら、サクラも取り返しがつかなくなるかもしれない。でも何も行動しなければ、過去を振り返らなければ、一気に事態が悪化することはないはず。もしかしたら勝手に良い方向へ向かうかもしれないし、悪くなるにしても徐々にゆっくりと進むだけだろうし……って、何言ってるんだろ私」
そこまで話して、私は自分の発言に呆れて目を伏せる。全く、何がしたいんだ。柚を元気づけたいならこんなことを言うべきじゃない。もっとやる気が出るような、背中を押してあげられるようなことを言ってあげた方がいい。
でも、私にはそれができない。大人たちのように暴走することも、すべてを諦めて受け入れることも。
――本当に中途半端だな、私は。
「ねえ、芽衣」
床しか見えていない私の視界に柚の足が入ってくる。そのまま、その足が私へと近づいてきて、
「――これでもくらえ!」
「え、ぐぇっ」
柚は私の頭を持ち上げると、こちらの額におでこをぶつけてきた。さほど勢いと痛みもなかったものの、突拍子もない彼女の行動に対して変な声が出てしまう。
急接近してきた柚の顔から、汗と、かすかに花の匂いがする。三日間風呂に入ってないのかと心配してたけど、やっぱりシャワーくらいは浴びていたらしい。私は柚に残っていた最低限の生活力に安堵しつつ、久々に間近で見る柚の頭を両手でがっしり挟んだ。
「柚、今の襲撃は何?」
「い、いやぁ〜だってさあほら空気が激重になっちゃってたし、場をうまいこといい感じに収めるにはどうしたらいいかなって考えたら浮かんだのが物理しかなかったっていうか」
「ふーん」
「むぐ、やっぱり必ずしもそういうわけではないといいますか」
ぎゅっと手の力を強めると柚の頬がぶちゅっと可愛くなって、よく分からない謎の言い訳を述べ始める。そこで、私は一つ悪戯を思いついた。
「ねえ、柚」
「はいはい、だからごめんって――」
「汗臭いよ」
「ゔぇぇぇっ!?」
私の一言を聞くや否や、柚はさっきまでの萎えっぷりからは想像できないほど強い力で私の両手から頭を引き抜くと、私から一メートルくらいの位置まで飛び退いた。慌てふためく柚を見て、私はクスクスと笑いを抑えられなくなった。
「ごめん、嘘」
「……はあああああああっ、今のはホントに焦ったんですけど!! 私だって精神終わってても風呂くらいは入ってたんですけど!! 意外とそういうとこ繊細なんですけど!!」
「ふふっ、ごめんってば」
無事に仕返しを終えた私はもうひとしきり笑ってから、不服そうな顔をする柚に話しかけた。
「でも安心したよ。ちゃんとシャンプーの香りがしたし、最低限の生活はできてるんだなって」
「いやいや、さすがの私でも三日間体洗わないのはあり得ないから。シンプルに不潔でしょ」
「へえ、そうだったんだ?」
「え、何その反応。もしかして私マジで汚い女だと思われてない? 違うから! 疲れてたり面倒なとき雑になるだけだから!」
わざとらしいフリに反応した、元気いっぱいの返し。そう、これが私のよく知っている柚だ。沈んでいる様は柚らしくない。
「えーと、だからさあ、芽衣」
「うん」
柚が困ったような顔をして、何やら口篭ってから話を切り出した。
「その……ありがと。綺麗事だけを並べるんじゃなくてさ、悩みも迷いも含めて話してくれたから……本当に私のことを想ってくれてるんだって分かったよ」
「それは本当?」
「私は誰かさんと違って嘘は言わないので」
「嘘だ」
「あーとにかく、そんな風に私以上に私のことを考えてくれる人がいるなら、もうちょっとだけ頑張ってみようかなって思ったわけですよ。ということで――――芽衣、ただいま」
「……うん、おかえり」
照れ隠しに柚が笑って、私もつられて笑顔になる。柚の奇行のおかげか、さっきまでの重苦しさは綺麗さっぱり消え失せていた。
柚はその場で大きく伸びをすると、息を吐きながら腕を回して体操を始める。不思議に思ってそれを眺めていると、彼女は息を吐き出しながら、
「はーっ、三日も寝てばっかだったせいで体がなまりまくってるよ。そんなわけで、私は一仕事してくる」
「え、今から? でも、梓さんたちから仕事を請け負ってないんじゃ……」
仕事をしたいなんて言い出したことに驚いた私は、すぐに訊き返す。何せ柚は面倒くさがりの代表例だ。どういう風の吹き回しだろうと考えていると、柚はチッチッと舌を鳴らして、不敵な笑みと共に答えた。
「違う違う。ウチにはもう一人、現実に連れ戻さなきゃいけないバカがいるでしょ? それをさ、今からしばきにいくんだよ」
本作品は、文芸サークル「変態美少女ふぃろそふぃ。」が2022年に発行した同人誌「東雲銀座広報 ゆり時計」に寄稿・収録されたものを修正・加筆したものです。