会者定離
3
どれほどの時間が経っただろう、少女はチューチューという可愛らしい声が耳元で聞こえ目が覚めた。
目の前には縒れた絆創膏があった。
否、それは絆創膏ではない。
褐色がかった灰色の沢山の毛が見える。
円らな瞳、小さい耳。
それは間違いなく、少女が看病していたあのネズミであった。
鼠が少女の鼻先をペロリと舐め、そのまま何処かに行ったかと思いきや銀色の何かを咥えて引きずり持ってきた。
側面には、掠れた文字。
少女が持ってきたロザリオと形も文字も同じ、だがそれには何故か付いていなかった筈の数珠が付いていた。
そして数珠の中に二つ一回り他より大きな珠が左右にあり、AとGの文字が左右にそれぞれ刻印されている。
寝そべった格好のまま、少女はそれを手に取った。
「有難う」と途端に声が聞こえた。
少女は跳ね起き周りを見渡す。
しかし、そのような声をあげる様な存在は見当たらない。
「貴女の献身的な看護のおかげで今私はここに存在出来ている。貴女は私の汗を拭いてくれた、暖かい寝床を用意してくれた、そして数少ない食事や飲み水すらも」
声は尚も聞こえ続ける。
看護、飲み水、汗の処置、食事ーー。
少女の瞳がネズミへと移る。
「今貴女には声が聞こえている筈だ、貴女が意識を失った瞬間に急にここに現れた存在がその金属の塊に鎖をつけ帰っていった。」
確かに、口を開ける度に鼠の声が聞こえる、鼠が喋っているとしか思えないその様にしか見えない情景が今間違いなく目の前に広がっているのだ。
「その者たちは言った。私達も力を与えようと、貴女だけにその他の生き物の声を聞くことのできる力を与えようと」
尚も鼠が饒舌に話す。
それはもう嬉しそうに、楽しそうに。
少女は目を白黒させ、あたふたと声にならない声を漏らす。
何せこの数日、声を出していなかった。
声の出し方を忘れた喉を無理矢理想起させる。
「鼠........さん...?」
鈴の様な声が響く。
それはあの空襲の日から泣く事しかしてこなかった少女の漸く出たまともな言葉であった。
その声を聞き、少女が昔読んだカートゥーンの世界の様に鼠が正に胸を逸らす様に動いた。
「はい、私は貴方に助けていただきました鼠めでございます。この御恩は忘れません、力及ばずながら貴女の御心、貴女の力に感服したこの身を貴女の力として利用していただきたく。」
キョトンとした目をした後に少女が久々に笑みをこぼす。
数日前と、あの空襲の日と比べ唇は旱魃したように枯れ、頰は少し痩け、それでも尚目の輝きはあの日よりも光り輝いてーー。
「鼠さん、つまり貴方は私の為に力を貸してくれるのね?」
そう少女が聞く。
「はい、この身を一生御身に捧げましょう。」
鼠は恭しく頭を下げる。
「つまり、私のお友達になってくれるの?」
少女が目を綺羅綺羅と輝かせて鼠を見る。
それは正に年相応の少女のソレに戻っていた。
「友達?それは私たちの社会にはない言葉です。そう、私は貴女の兵士になりたいのです。」
少女は少し拗ねた様に目を伏せる。
「...兵士は嫌。何もかもを奪っていくもの。好きだった本も、好きだったパンも、公園も、家もーーママも...。」
鼠が一瞬だけ逡巡し、声を少女にかけ直す。
「貴女は貴女の手足を、何かを奪う者を必要として居ないのですか?」
少女は頷く。
「では、どの様に力になれば貴女の御心に添えますか?」
そう聞かれ、少女は軽く口を開けて固まる。
友人とは、何をするべき者なのか。
友人とは、何を表すのか。
数分の沈黙が流れ、少女は漸く
「一緒にいて、お話をして、食事も一緒にしてくれる?」
そう鼠に話しかける。
鼠が首を縦に振り、今度は人の様に目を閉じ顎先に手を当て考えるそぶりを行い、目を開いて少女に向き直ると少女の質問に応じる。
「それでは、貴女と話をしよう、食事も共に行おう、ずっと貴女と共にいよう。
君主と共に一緒にいる者のことを我々は騎士と呼びます、私は貴女の騎士になりましょう。」
少女の顔が和らぎ、満開の花の様に笑みを浮かべる。
「そう、じゃあ鼠さんは私の騎士様になってくれるのね!じゃあ、じゃあね鼠さん。私の騎士になってくれるなら、私どうしてもしてみたいことがあるの!」
そう無邪気に少女は笑い、鼠の手を取る。
「そう言えば、鼠さんにはお名前はないの?」
「私はつい数日前まで群の中の一人ーーー失礼、人の目線であれば一匹であり、定められた名前はございません。」
そう鼠は少女の目を見据え答える。
「そんなの駄目よ、分かったわ私が貴方の名前を考えてあげる。」
そう少女が鼠の瞳を見据え返した。
「それと準備をするからちょっとだけ待ってね」
そう少女は話すと鼠の手を離し寝床の付近をごそごそと探り始めた。
ーーーー数分後。
そこには奇妙な光景が広がっていた。
爆撃で崩れた瓦礫が重なり合い出来た人二人分ほどの雨露をしのぐ事の出来るその場所で、正座をする少女とその前に一匹の鼠。
少女はその鼠に仰々しく手を翳し、近くにあった細長いネジを手にする。
先ほどまで二本足で立っていた鼠が平伏する様に四つ足をつき直し、擦り付けるように頭を地面に下げる。
少女が咳払いを一つ行い、何処かで見た、何処かで読んだ様に、細長いネジを鼠の右の肩に軽く押し付ける
「鼠...いいえ、サー・スカーチよ」
右肩からネジを外して左肩にまた軽く押し付ける。
「貴方はこれから私の劔、私の盾、私の鎧である事を誓いますか」
それは失われた騎士の叙任の儀式。
文字を読む事を好いた少女の記憶の引き出しから紡がれた言葉であった。
左肩からもネジを外しネジ部を手に持ち、頭部を鼠の頭に向ける。
鼠は頭を上げ、歯で頭部を受け取り、一旦地面に置き恭しく再度頭を下げる。
「はい、私は貴女の劔であり、盾であり鎧である事を誓います。」
少女は鼠の体をぬぐっていた布を鼠の首の後ろに回し、首前の所でキュッとくくる。
「では貴方はこれから私の騎士です、貴方の様な騎士を持てた事を私は光栄に思います」
そして言葉をそう締めくくる。
鼠の目に薄く涙が浮かぶ。
「私如き矮小な身に名までつけて頂けるとは光栄の極みでございます、このスカーチ貴女に一生身を捧げましょう。」
そう言いながら鼠は恭しく頭を下げた。
少女は『献身』を知った。
そして一人と一匹の暮らしが始まった。
が、長くは続かなかった。
スカーチが自分の仲間を連れてやってきたからだ。
結局一人と10数匹の暮らしが始まった。
鼠達は、食事を手に入れるために動き、鼠を狙うために襲いくる野生動物達に話しかけ少女が追い払う。
そして、少女に近寄る虫の類をスカーチが追い払う。
落ちていた鍋に水を組み、手に入れたライターを使い火をつけ、その日の食事をする。
ある時、ライターを取り落とし、鼠の一匹が火傷を負った。
ふと思い立ち、少女はロザリオを手に念じ、ロザリオをかざすと鼠が負った火傷を自らの体に受け取ることができた。
鼠は大層驚き、少女を崇めたが少女は自分にできることをしているだけだと言い切った。
もう寂しくは無い、少女は沢山の友人に囲まれ、荒んだ表情に笑顔が戻った。
騎士のスカージ、ご意見番のヒョウドル、紅一点のフルルカ、ひょうきん物のバラス、調達係のショール、セルド、パラドム以下数名。
そんな鼠達と少女は荒廃した街で成長していった。
少女は『助け合う』という事を知った。
そしてそんな生活を初めて一年が経つ頃。
吉報が届く。
老鼠となり始めていたスカージとフルルカの間に子が産まれた。
可愛らしい小鼠達と共に過ごし、より一層力を振り絞り、精力的に各所から食料を手に入れる様になった少女達は小鼠達を天敵から守りながら、半年経ち小鼠たちも一人前に成長した。
その二月後のある朝。
スカージとフルルカはその小さな手を取り合い二人で静かに息を引き取った。
少女は泣きながらロザリオの力で蘇生を試みた。
しかし、その力は働かず、二匹が再び動き出す事はなかった。
悲痛に叫ぶ少女にヒョウドルが肩に乗り声をかける。
彼等は寿命を迎えたのだと。
それは悲しむ事ではなく、この荒廃した世界において幸せな事なのだ、と。
諭された少女はせめて笑顔で見送るために増えた命と共に微笑みながら亡くなった命を埋めた。
少女は『誕生と避けられぬ死』を知った。