東京オリンピックの開会式
オリンピックの開会式はひどかったようですね。
私は見ずに批判するのは良くない、と思うタイプの人間なのですが、今回ばかりは恥ずかしさに悶絶死しそうなので勘弁してください…という感じです。出演したアーティスト名を見れば大体わかります。
ネットのコメントを見ると、電通や政府を叩くコメントが結構あります。それから「いや意外に良かった」というような意見もあるようです。私は、今度の開会式のひどさは必然だと思っています。避けようがないというか、ごまかしようがないものが出たと思っています。そういう意味で、恥部を曝すのは悪い事ではないと思うのですが、まあ、この社会はこの恥を恥と思わず邁進していくのでしょうね。
有識者のコメントでは、北野武がまっとうな事を言っていると思いました。結果論ですが、今回の開会式をそこそこまっとうにするには、誰をプロデューサーにすればいいか、後から考えてみました。最初に思い浮かんだのは二人で、北野武と坂本龍一でした。後、宇多田ヒカルでも悪くないかなとも思いました。それと久石譲とか。そのあたりに土下座して頼んで、全体を統括してもらえば多少は良くなったのではないかなと思います。あくまでも結果論ですが。
実際にはどうだったでしょうか。実際には、「日本の内輪芸」を世界に曝す醜態だったと思います。これについてこれ以上色々言う必要があるでしょうか? 例証してもいいですが、そんなものを日々、目の当たりにさせられているのだから、改めて言う必要もないと思っています。
それにしても、この国って何の人材もないんだなと思います。なだぎ武とか、劇団ひとりとか、真矢ミキとか。みんなタレントですよね。…一応、言っておきますが、私はなだぎ武のビバリーヒルズ青春白書のモノマネは大好きで、大笑いしていた人間です。しかし、それが世界に出る芸かと言うと、また違う話でしょう。
ラーメンズの片方がディレクターをやっていたというのも驚きました。解任よりも、彼に話が行っていたのに驚きました。マイナーな芸人としては、ラーメンズは全然いいと思います。しかし、ラーメンズに頼むしかなかったのか…。
ただ、こういう事は必然だと思います。電通と政府だけ叩いて済む話ではないと思います。日本の大衆は、女子アナだ、スマホゲーだ、ユーチューバーだ何だで大騒ぎで、それで満足していました。その大衆に合わせた機関が存在し、それらがああいう壮大なゴミを作り出したとしても何の驚きもない。
ユーチューブに河野大臣とはじめしゃちょーが対談する動画があります。勘弁してくださいよ…と言いたい事ですが、これが政治のアップデートという事でしょうか。若者を取り込む新スタイルの政治なのでしょうか。そうかもしれませんが、そうならばこんな世界クソくらえとしか言いようがない。
芸人のバナナマンが、劇団ひとりが開会式が出た事に対して「世界的コメディアンですよ、一気に」と述べたそうです。これが皮肉ではないとすると、こうした内輪的なノリこそが、ああしたレベルのものしか作り得ない原因になっていると思います。この内輪性についてもう少し丁寧に述べます。
内輪性というものは客観的な基準がないという事です。それは自分が自分に対決する態度がないという意味です。これだけでは伝わりにくいでしょうが、例えば、試験のような制度を採用しても、それで客観的な基準が即できあがるというわけではないという事です。
芸術の歴史を辿ると、偉大な芸術が少数の内輪でできた例は沢山あります。というかそういうものばかりと言ってもいいかもしれません。しかし彼らは内輪で甘やかすのではなく、自己が自己に対峙し、また、自己に対峙するように他者と対峙してきたのです。そういう対決ーー葛藤の姿勢から偉大なものが生まれてきたのです。
私は以前、テレビを「大衆学芸会」と名付けた事があります。オリンピック開会式も大衆学芸会の延長です。普段から学芸会しかやっていないのだから、そのレベルでしかできないのは当然でしょう。
学芸会とか文化祭を思い出して欲しい。文化祭の出し物は当然、レベルは低いです。だけど、友達の誰彼、恋人の誰彼が出演していると思うと、心を込めて応援できます。レベルが低くても、『あたたかい』気持ちで応援できます。今の世の中は全てがこんな風にして、程度の低い学芸会になっています。
レベルに関してごまかしが効かない分野というのは、唯一、スポーツだと思います。これも完全ではないですが、他のジャンルと違って実力がないとどうしようもないという事があります。メッシやイチローが実は三流選手というのは考えにくい。私もスポーツは好んで見ています。
しかしそれ以外のジャンルはごまかしが効きます。アートなどは、見る人間にも技量が必要とされるので、大衆の手に委ねられてしまえばおしまいです。先程、私は北野武の名前をあげましたが、彼の映画も海外で賞を取って逆輸入されて評価されたものです。北野の傑作「ソナチネ」は映画館ガラガラで、二週間で公開打ち切りだったそうです。売上で言えば「シン・ゴジラ」や「君の名は。」の方が圧倒的に上でしょう。
今の世の中は、学芸会とか文化祭の拡大版と見ればわかりやすいと思います。世界はメディアの発達によってどんどん狭くなっているのです。空間が狭まってきているのです。
又吉直樹が芥川賞を取った時、みんなが祝福しました。何故かと言えば「私達が知っている『あの』又吉さんが権威のある賞を取った」という祝福です。親戚や友人が賞を取ったのと同じような喜びでしょう。こうした事はまさに学芸会・文化祭だと思います。
作品そのものに深く心を打たれた経験のある人は少数です。ほとんどいないと言った方がいいでしょう。それに比べれば、生身の人間はなんとわかりやすい事か。なんとなく好感が持てるとか、人として優しいとか。なんとなくの好感で構わない。その「彼」「彼女」が賞を取って偉くなったとするとこれは祝福せずにはいられない。ユーチューバーまで来ると、人間そのものの商品化の完成です。媒介となる作品もふっとばして、人間そのものを消費者に売りつけるという感じです。
劇団ひとりが出演しているのを見て「これで彼は世界的コメディアンだ!」と言うのは、仲間の芸人としては満点でしょう。私も芸人だったらそう思うでしょう。問題は、それを心に留めて、その先に客観的な領域がある事を認めるか否かです。まあ、こう言っても伝わらないのはわかっています。「その先」の意味は結局の所、自分の足で歩いた人間にしかわかりません。
最近、チャールズ・ブコウスキーを読んでいますが、彼が真面目な努力家で、自分の足で先の先まで歩いていったのがわからない人には彼はただのクズにしか見えないでしょう。ブコウスキーは内輪で褒めるにはあまりにもろくでもない人間です。ですが遠目に見れば偉大な作家です。この遠目に見る視点が欠けているのが現在です。
視点の欠けた現代社会が、あのような開会式を生み出したのだと私は思っています。今の日本にはサブカルとタレントしかないというのも露呈しました。もっともこの社会はここ最近ずっとあんな事ばっかりやっているのだから、きっとそんなに驚くことでもないのだろう、とも思います。