56話 静かな夜に
――夜。
面倒事は概ね済ませた。
この一週間で随分と冒険者ギルドと宿との間を行き来したが、ひとまずはこれで一息つける。
宿の屋根の上、クラウスは雲の波間に見え隠れする月を眺めていた。
ジークとリルは夕食を済ませ部屋へと戻っている。
たぶん剣の手入れをしているか、明日からのギルドへ行かなくていい日々のことを話したりしているのだろう。
クラウスは剣を抜き、それを月明かりに翳した。
月を乗せて煌めく鉄の光沢、一切の淀みのない銀の刀身。
ふと隣に一羽のカラスが降り立った。
くちばしに札を加えている。
『よお、一人でいるとは珍しいじゃねえか』
「ダリオか。別に珍しくはないよ。君こそどうしたんだい、こんな時間に」
剣を鞘に納めカラスのほうへ視線を向ける。
『いいや、仕事がひと段落ついたもんで、たまにはと思って来てみただけだ』
「宮廷騎士も大変そうだね。セシリアさんは?」
『アイツは偽オルフェリア王と残業してるぜ。ニセフェリアのほうから、より似せるためにアドバイスが欲しいって言われてな』
ニセフェリア、話したことはないが、詐欺師の割には勤勉だなとクラウスは思った。
人を騙すことを生業とする悪人ではあるが、今は彼のお陰で混乱を押しとどめられているのも事実だ。
「ニセフェリア、完璧に仕事をこなしているならそのまま王様に仕立て上げちゃってもいいんじゃないかな?」
『馬鹿言え。アイツは金と、人を騙すことにしか興味ねえよ。権力なんてクソ喰らえだそうだ』
「冗談のつもりで言ったけど、権力に興味のない王様のほうが案外いい仕事をするかもしれないね」
クラウスの言葉をダリオは鼻で笑った。
『あら、ダリオさま! もしかしてお話のお相手はリルさまかしら!?』
『うるせえのが来たな……。代わるぞ』
ダリオの宣言通り、声の主が女性に変わる。
札の向こうからセシリアが楽しげに話しかけてくる。
『リルさま、わたくしです! セシリアですわ!』
「セシリアさん、悪いけどここには僕しかいないんだ」
『あら、そうでしたの……。それならそれで構いませんわ。クラウスさま、急なお話かもしれませんが……宮廷騎士へと戻ってくるおつもりはありませんの? わたくしども、あなたさまが戻ってきてくださるなら喜んで歓迎致しますわ。先日ダリオさまと、クラウスさまが戻ってきてくれたら嬉しいですわよね!とお話していましたの』
『おい! 俺は言ってねえぞ!!』
『あら、でもわたくしがお聞きした際は「ああ、いいんじゃねえか」と仰っていらしてよ?』
『てめえの相手が面倒だから適当な相槌打っただけだろうが! ああ、胃がキリキリしてきやがった……!!』
二人のやり取りにクラウスはふふっと微笑んだ。
「それは嬉しい申し出だけど、今は遠慮させてもらうよ」
『あら……でもお気持ちが変わったらいつでもいらしてくださいまし。今の宮廷には国王オルフェリアも、その思想に染まった宮廷騎士もいませんの。ですからもう、ここはクラウスさまの思っているような場所ではありませんわ。それに人材不足が激しくて、猫の手も借りたいくらいですわ……』
「うん、そのことは分かっているよ。今の宮廷騎士とは僕たちも友好的に関わりたいと思っている。人手不足については……まあ二人には頑張ってほしいな。僕たちも儀式のほうは頑張るからさ」
『ああ、そうそう儀式についてのお話なのですけれど……』
セシリアの声音が変わった。
クラウスも、宮廷側で握っている儀式の情報が得られるチャンスは逃したくない。
「儀式について、宮廷側で何か進展があったの?」
『ええ、いろいろと。それに関してはダリオさまが調べていらしたので、わたくしはこれにて失礼致しますわね』
『俺らで把握した情報は二つだ。一つはお前以外の人工神霊の情報、もう一つは神霊イブリースについての情報だ』
人工神霊の存在に、神霊イブリース……。
どちらも儀式に関する重要な情報だ。
『まず人工神霊についてだが、黒薔薇の騎士アアルと行動を共にしていたミュシィという騎士……あれはお前から得たデータを元に改良を加えた人工神霊だ。もっとも、既に海の底に消えたからコイツに関してはどうでもいい』
「……僕以外に全部で何人の人工神霊が作られたのかは分かるかな?」
『お前とミュシィだけだ。改良を加えたと言っても、ミュシィはお前と違って従順になるように人格矯正の術式を加えたくらいの話だから、これは大した問題じゃない。本題はイブリースのほうだな』
まさか自分以外に人工神霊が開発されているとは思いもしなかった。
しかし、ミュシィは既に海底に引きずり込まれて死んでいる。
とはいえ人格矯正の術式なんて危険なものをよく簡単に使うものだ。
人の意思を人為的に捻じ曲げる魔法。
奴隷鳩に使っている術式を人間用に調整した禁忌だ。
もしも何らかの弾みで術式が破れたら、人為的に矯正していた部分のタガが外れて、精神のバランスに異常を来たす可能性が非常に高い。
ダリオはミュシィの話を切り上げ、イブリースの話に移る。
『イブリースについてだが、どうやらゼーランディアの地下神殿に捕らえられている線が濃厚だ。とは言え、この情報もどこから仕入れてきたものなのかは俺たちにも分かりかねる。機密文書には何重にも呪縛魔法がかかっていて、解呪するのに時間がかかるからな』
イブリースがゼーランディアにいる……。
しかし、地下神殿というのは何のことだ。
聞いたことのない単語にクラウスは軽く唸った。
「ゼーランディアは神霊を捕らえて何をするつもりなんだろう? いや、そもそもどうやって捕まえた……? 神霊を捕らえるなんて殺すよりも難しいはず……」
『どうやったかは分からんが、地下神殿はゼーランディアの実験施設のようなものらしい。数百年かけて、その時代の精鋭魔法使いを総動員して開発・改良を続けている拘束術式……というのが今のところ分かっていることだ。それと、気味の悪い記述……いや記述とも言えないようなものなんだが、ひとつあってな』
「なにが書いてあった……?」
クラウスの問いに、ダリオが溜息とともに答える。
『この機密文書、関わった奴の中にアアルの名前が連なってやがる』