54話 深淵へと……
激しい横波に掬われ、足が宙に浮く。
ミュシィは突然の出来事に対応できず、そのまま甲板を滑り落ちていく。
咄嗟にレイピアを甲板に突き立てたアアルは、ミュシィの右手を掴んで彼女を受け止めた。
「ミュシィちゃん……少しダイエットしたほうがいいかもね……」
剣が軋みを上げ、ゆっくりと甲板が裂かれていく。
「……すみません」
レイピアの細身の刀身は、当然、ヒト二人を吊るすことなど想定していない。
刀身は徐々に歪み、まさに折れようとしたその瞬間、船の傾きは元へと戻る。
三人はなんとか揺れ動く甲板に立ち上がり、荒れ狂う嵐の怪物へと視線を移す。
「神霊ヨルムンガンド……総本部長のお出ましね?」
『……セシリアは間に合わなかったか』
ジークは土砂降りの雨の中、呆然と蛇竜を眺める。
『細けえ説明は割愛するが……アイツはギルドの総本部長だ。黒薔薇を殺すためなら巻き添えも上等ってわけだ』
嵐の中で、レイピアを構えたアアルが突っ込んでくる。
刃を弾き、雨水の滴る前髪越しに黒の騎士を睨みつける。
「てめえ殺しあってる暇かよ……! このままだと二人まとめてあの世行きだぞ!!」
「上等!! 地獄で鬼ごと追いかけまわしてあげるわ!!」
「こいつ狂ってやがる!!!」
船が大きく揺れ、再度三人は宙へと放り出される。
ミュシィはナイフで支柱にしがみつき、投げ出されたジークは何とか支索の足場に掴まり、嵐の中をもみくちゃにされながらなんとか帆桁へと登った。
足場へと登ると同時、先に着地していたアアルがレイピアを突きこんでくる。
ジークは腰から引き抜いた左手のハンティングナイフでレイピアに対応し、右手のクレイモアでバランスを取る。
曲芸染みた、まるで綱渡りのような一直線上の足場での攻防。
アアルは重心の移動を最小限に、フェンシングのような突き主体の攻撃へと切り替え、ジークは長大で重いクレイモアを振れずナイフでの防戦を強いられる。
『おい剣のあんちゃん! とっとと脱出しねえとマジで死ぬぞ!!』
「脱出だぁ!? どこに退路があるってんだ……よ!!」
レイピアを弾き、一気に間合いを詰めにかかる。
思い切ったクレイモアの一振りをアアルは軽々躱し、ジークはバランスを崩して足場から転落する。が、強烈な突風にあおられ中央の帆の麻布に上手く着地。
アアルはレイピアを逆手に持ち、左手を柄頭に添え、ジークのもとへと飛び降りる。
「殺人狂が!!」
転がって刺突を避け、アアルはそれを追って帆に刺さったレイピアで布を裂いていく。
過重限界と損傷を受けた帆布は破れ、二人は甲板へと落下した。
「お前……マジで死ぬぞ! 戦争が起こった後の世界を見ることも、明日また別の誰かを殺すことも出来なくなるんだぞ……。お前それでいいのか!? ここは一旦休戦して手を組むべきじゃねえのか……!?」
「違うわ……死が差し迫っているからこそ殺しあうの……!」
閃光が弾け、それに呼応するように嵐の中で雷が走る。
海中には巨大な渦が大口を開き、三人の乗った商戦はその渦の中心へと徐々に徐々に呑まれていく。
「畜生! ヨルムンガンド!! こいつは俺が始末する!! だから一旦これを止めろ!!」
首元を切先が掠め、銀の刃が雨の中で閃光を発す。
「ねえ、よそ見は嫌だよ。今は私との時間でしょ?」
一体どこから引き寄せられたものなのか、船体に巨大な木材が叩きつけられ、甲板が激しく揺れる。
バランスを崩したアアルの鳩尾を蹴り上げ、むせ返る彼女の胸倉を掴んで持ち上げ、思い切り柱へと叩きつける。
「が、ぁ……、ふふ……♪」
アアルが指を鳴らす瞬間、ジークは彼女から離れロープに掴まった。
左手に纏った炎は一瞬で消え、彼女は息を整える。
「楽しいねえ♪ どっちにしろ二人とも死ぬからこその純粋な殺しあい……最高」
「クソ……」
二人がぶつかり合い、剣と剣が削り合う。
船体は悲鳴を上げ、甲板がはじけ飛び、帆柱が倒壊し、帆が風に攫われる。
甲板上は壊れた木材で荒れ果て、荒波に洗われて足場が悪い。
揺れる船体の上で二人の剣士が剣戟を交え、突風が大粒の雨を叩きつける。
視界は悪く、突風と大波のお陰で音も滅茶苦茶だ。
転がってきた樽を避け、風に暴れ回るロープを躱し、木材の折れる音に歯軋りする。
『早くしろ!! 船がもたねえ!!』
「分かってる!! 分かってるから黙ってろ札野郎!!! 畜生! このクソ女が!!!」
船は着実に崩壊を続け、そして渦の中心へと向かっている。
対して目の前のアアルは未だ健在。
魔力切れを起こしているのは見れば分かるが、剣だけになってもこいつを倒しきるには時間も人手も足りていない。
だから、ここは命を度外視するしかない。
「これで――ッ!」
守りを捨てた唐突な剣にアアルは一瞬竦み、しかしその剣をすぐに受け止めた。
「っひひ!! えへへ……♪ その剣が見たかった……っ!」
続く二撃目がレイピアの切っ先を叩き折り、アアルの頬を掠める。
三撃目、防いだレイピアがさらに折られ左手の半ばを砕く。
「は、ぁ……ッ!!」
四撃目、躱したアアルが反撃へと移った。
半ばで折れたレイピアがジークの右手首の健を切断し、返す刃が肘を裂く。
しかしジークは歯を食い縛る。
「グ、ぅおおオおおぁあッ!!!」
健の切られた右腕で剣を振るい、油断したアアルに左手のハンティングナイフを突きつける。
ナイフは脇を掠め、その刃を返し二の腕を裂いた。
鮮血が散り、アアルははっと息を飲んだ。
刹那、彼女はすっと瞳の色を変える。
ジークとアアルはその瞬間、世界の全てが止まったかのような錯覚に襲われた。
死ぬ。
二人はそれを予感した。
止まった時の中、アアルの刃が翻され、ジークの喉元へと襲い掛かってくるのが見える。
ジークのナイフが首筋へと振り下ろされ、刹那のうちにアアルの動脈は確実に切り裂かれる。
これは回避できない。
前へと突出し過ぎた。
走り抜けるにもしても、この剣の軌道では直撃だ。
守りを捨てて突撃したツケが回ってきた。
止まっていた時が加速し、刃が喉元へと触れる。
その瞬間、ジークはその刃を回避した。
いや、違う。避けられるはずがなかったのだ。
回避不可能な筈の刃を、ジークの体は身を退いて避けた。
一歩退いた足が二歩三歩と退いていく。
「トリガーディレイ――」
ジークは目を見開き、背後へと振り返った。
こちらへと踏み出したレイピアの刃など気にも留めず。
何故なら、その刃はどうしたって届かないのだから。
「マグネタイザー!!」
ふっと体が宙に浮き、それと同時に目の前にレイピアの剣筋が光った。
前髪が僅かに切り取られ、それからジークは後方へと磁石のように引き寄せられる。
そして、吹っ飛んできたジークをリルが受け止め、セシリアは海面を蹴って海域からの離脱を図る。
「ジーク!!」
「リル、助かった……。それにしてもこの状況は……」
セシリアに掴まり渦のほうへと視線を向ける。
ヨルムンガンドによって船は大破し、今にもその姿は渦の中へと消えようとしている。
「これで、終わるのか……?」
ジークは最後まで、その渦から目を逸らせずにいた。
ジークたち三人は海域から離脱し、ヨルムンガンドも既にその場から消えていた。
壊れゆく船体の上、ミュシィがアアルのもとへと歩み寄る。
黒の騎士は波の向こうに消えた剣士のほうをいつまでも見つめている。
「アアル様、この次はどのようになされるのですか?」
ミュシィのその問いにアアルは肩を竦めた。
「さあ、なるようになるでしょうね」
その答えに、ミュシィは何も言わずに辺りを見回した。
紺碧の巨大な渦の中、既に船体は原型を留めておらず、海の底へ呑まれるまで秒読みの状況だ。
彼女ならこの状況からでもきっと何とかしてくれる。
そう思って彼女に次にやるべきことを聞いたのだが、どうやらもうこれでおしまいらしい。
そう思い、ふと思った。
なぜ自分は彼女なら何とかしてくれる、なんてことを考えているのか。
以前の自分であれば、あるがままこの状況を受け入れていただろう。
自分が抱いていたこの思いが何なのか、ミュシィは答えを出せない。
アアルはふっと溜息を吐き、ミュシィのほうへと向き直った。
彼女は手を取り、こちらを向いて問うた。
「ミュシィちゃんは、私といてどうだった? 楽しかった?」
アアルの問いに、ミュシィは俯く。
この期に及んで、この女は何を聞くのか。
だけど、その問いにミュシィは気付いた。
自分は、彼女と一緒にいて楽しかったのかもしれない。
どんな状況でもひっくり返してしまう黒き騎士、そんな彼女が次は何を見せてくれるのか。
どうやってこの状況を切り抜けてくれるのか。
人の言いなりのまま、予定調和の中で生きてきたミュシィにとって、彼女との時間はいつもとは違うものだった。
何が起こるか分からない時間。
命を賭け代に使った狂った遊び。
スリルに満ちていて、だけどそれ以外何もない時間。
「ミュシィにはよく分かりません……」
そう言って、ミュシィは自分の胸に手を当てた。
いつもより早いこの心臓の鼓動は、自分に何を伝えているのだろう。
目の前にいる彼女の微笑みに、ミュシィはそれを聞きたくなった。
だけど、首を横に振り、手をぎゅっと握った。
これはたぶん答えのないものだ。
自分の思いを人に聞くことほど馬鹿馬鹿しいこともない。
分からないのなら、自分で決めてしまえばいい。
答えがなくて迷うのなら、自分が決めたものが正解だ。
たとえそれを否定されても、自分の感じているものは、自分自身にしか表現できないのだから。
目の前の彼女に視線を合わせて。
「たぶん……楽しかったと思います」
滅茶苦茶なことをした。
あれは正しくない、間違った行いだ。
だけど、正しいかどうかと、楽しいかどうかは関係ない。
自分の気持ちが楽しいと思うことを、ありのまま楽しいと言って何が悪い。
たとえそれが間違っていたとしても、自分の中ではそれが一番心地良いのだ。
生憎、ここにはたった二人の悪の騎士しかいないのだ。
だったら、思ったことを素直に吐いても問題ない。
「凄く楽しかったです」
そうだ、私は生粋の悪人だ。
人を嬲り、痛めつけ、殺すのが好きらしい。
それを自覚させてくれた、悪の権化と視線を合わせる。
彼女は二っと笑顔を浮かべる。
「そう、それならよかった♪」
ミュシィはその言葉に、少し安心したように微笑んだ。
しかし一つだけ悔いがある。
今の今まで……自分の本当の気持ちに気付くまで……自分は全ての行いをただ見ていることしか出来なかった。
もし次の機会に恵まれたのなら、その時は――
船体が崩壊し、二人は渦の中心で水の中へと消えていく。
人の世の理を拒んだ者たちが、人の世の理の届かぬ場所へと沈んでいく。
暗く冷たい、何者にも触れ得ぬ深淵の底へと。