52話 向き合う覚悟
海面、闇夜の風となって駆ける。
着水と同時、爆発音と飛沫が上がる。
三秒おきに蹴っては跳ね、跳ねては蹴ってを繰り返す。
「それにしてもセシリアさんって凄いね……。生身の人間が海を走るなんて……」
リルはセシリアの背中にしがみつき、眼下の水面を見下ろした。
真っ黒な水面は夜風に揺れ、セシリアが跳ぶ度に激しく白く散っていく。
夜空の星々を鏡映しに揺れる波間を、砕いて走る。
彼女の固有能力、"能力重化"は術者の筋力を底上げする。
純粋な力、それは純粋な力であるが故に強力で、高い汎用性を兼ね備える。
能力によって強化された筋力は海面を生身で走ることさえ可能にし、巨石を砕くことさえ容易にする。
「ありがとう。確かにこの力には幾度となく助けられました。ですが――」
そう言って、セシリアはリルへと視線を向けた。
「神霊フェンリルの力には遠く及びませんわ」
その言葉にどのような意図が含まれているのかは分からなかった。
分からないから、リルはただ押し黙った。
「なぜ自らのお力を発揮なさらないのですか」
相手を見定めるかのような澄んだ声音。
リルは何も言わず、ただ視線を下へと向ける。
「……」
なぜ力を抑えているのか。
それは神霊である自分が、なぜ人間の枠に収まっているのかという問いかけだ。
強大な力を持ちながら、なぜそれを行使しないのか。
彼女の問いかけに、リルは自らの枷を触る。
「……強ければいいってもんじゃないよ」
ふと、そんな言葉がこぼれていた。
「強くなりたくて強くなったわけじゃない。力があるから正しいわけでもない。私は、本当に自分が正しいのかどうかも分からないのに、本当にこの力を持つに値する者なのかも分からずに、この力を持って生まれてきた。……本当なら、神霊の力なんて必要ないのに。みんなと同じで構わないのに……。だから、私は……」
枷を撫で、その鋼の冷たさに安堵する。
彼女の様子をそっと流し見、セシリアは視線を前へ戻す。
「力には必ず反動があるものです。強く壁を殴れば、その力のぶんだけ、自らの拳も痛むもの。その相手が壁ではなく人であれば、拳だけでなく心も痛む。それが嫌だったのですね」
夜風のように優しい声音。
だけど、それはあまり聞きたくない言葉だった。
セシリアはリルの息遣いからそれを察しつつも続ける。
「わたくしにも、今のリルさまと似た時期がありました。幼少の頃、力の制御が上手くいかず母の腕を折ってしまったことがありました。事故とは言え、母は私のことをひどく恐れ、遠ざけました。私は母を傷つけてしまったショックから、杖を捨て魔法の修練から逃げようとしたのですが、如何せん父は厳格なお人でした……。こっぴどく叱られて、襟を掴んで道場まで引きずられ、泣きながら修練を続けさせられたものですわ」
「……お父さんは今は」
「健在でしてよ。南のほうにアレクシオンという街がありますでしょう? 今はそこにご隠居なされておいでです。老体にも関わらず手厳しいのはお変わりなく、前に会った時にも長々とお説教を受けてしまいまして……。世間一般には、父というものは娘に甘いものだと聞きますが、どうにもあのお方は……」
セシリアはクスリと笑う。
その様子にリルは彼女の顔を覗き込んだ。
「辛くはなかったの……? お父さんを嫌いになったり……」
「それはもう、泣くほどですから当然。能力を使って背後から奇襲をかけたこともありましたが、相手は同じ能力を持つ歴戦の強者。結果の程は言うまでもなく」
「奇襲……」
「ふふ……ですが、わたくしはそんな父に感謝していますし、尊敬もしております。確かにわたくしは父をぶん殴りたいと思ったこともありますし、今でもたまにぶっとばせないものかと隙を伺っておりますが、それとこれとは話が別。わたくしに正しい力の使い方を教え、決してそれを投げ出さず、わたくしに在るべき姿を示してくださったのは、紛れもなく父なのです。あのお方の助力なくして、この力の制御は成し得ませんでしたから」
セシリアは振り返り、リルのほうへと視線を向ける。
「その枷はリルさまの優しさの裏返しです。強い力を抑え込むことで、誰かが傷付くのを防ぐ。それもまたひとつの正解でしょう。扱いきれぬ力であるのなら、いっそ捨ててしまうのも選択肢のひとつ。しかし、わたくしにはそれがどうにも惜しい。その力も、しっかりあなたの一部であることを、リルさまには分かって頂きたいのです……」
「どういうこと……?」
セシリアは優しく微笑み、しかし真っ直ぐな声音でリルへと語る。
「自らの力から逃げないことです。強大な力が周りを滅ぼしうるのは分かります。神霊フェンリル……それが儀式の中で最も多くの神霊を屠ってきた最強の魔物であることはわたくしも重々承知しております。しかし、リルさまとこうしてお話をして、あなたという神霊のお人柄、よく存じ上げました。そのうえで、わたくしはこう断言致します」
声に芯が通る。
無骨な鋼のメイスのように、決して折れない芯のある声音。
そんな声がリルに告げる。
「力から逃げるのではなく、力と向き合うのです。あなたには、いずれそれを求められる時が来ることでしょう。その際に自らの力を正しく扱うためにも、必ず」
彼女の瞳がリルを見据える。
天高く、真空に浮かび、地上を見下ろす月光のように。
「力というものは、持つに値する人が持たねば意味がありません。そしてあなたにはその資格がある。わたくしが言うのですから絶対です。信じてください」
そう言って、彼女はにこりと微笑んだ。
リルはその笑顔に、自信なさげに顔を逸らす。
彼女は少しだけジークに似ている気がする。出自も目指す場所も違うけれど、心の奥底に宿したものは、たぶん似ているものだろう。
リルはそんなことを思い、ジークのことを考える。
彼は自分を助けてくれた。夢を与えてくれた。
そして今も戦っている。オルフェリアのみんなを守るために。
だけど彼は人間だ。神霊じゃない。
彼は確かに強い。
だけど、たった一人の人間に出来ることなんてたかが知れている。
きっとそれは彼自身も分かっているはずだ。
心の奥底にはいくらかの諦めもあるだろう。
彼がマルティナで腐っていた時、自分は彼を勇気づけるようなことを言わなかった。
一緒に、そこで暮らしていければいいと思っていた。
だけど今は違う。
二人でもう一度歩き出したんだ。
今、ジークは戦っている。
人の身で足掻き、藻掻き、戦っている。
魔物よりも劣る力で、必死になって剣を振る。
だったら、自分も力の限りを尽くすべきではないのか?
リルはスッと息を吸い、吐いた。
「私は、今はまだ力を開放できない。必要だと思う時もあるけど、これが軽はずみに使っていい代物じゃないってことは私自身が一番よく知ってるから。だけど……確かにこの力を使うべき時はいつか来るのかもしれない」
あらゆる神霊を前にして、傷一つ負うこともなく、一瞬にして全て一纏めにして終わらせるフェンリルの力。
使えば最後、周囲を巻き添え。
そうしてあの子も殺してしまった。
「だから……そうだね。セシリアさん、私向き合う努力をするよ。逃げるだけじゃなくて、その時が来て、ちゃんと力を使えるように。今度こそ、正しく力を使うために」
それを聞き、セシリアは微笑む。
「昔話をした甲斐がありましたわね。わたくしに出来ることがあればいつでも、呼んでさえ頂ければ海超え崖超え山を越え、すぐにでも駆けつけ助言でも助力でも協力致しますわ。なにせ、わたくしたちは共に正義を志す盟友ですもの!」
『その前に剣士のあんちゃんを助けてやれ。急がねえとちょっとヤバい感じだぜ』
「あら、ダリオさま聞いていらしたの。言われなくともわたくしは常に全速力ですわ!」
「セシリアさんもっと飛ばして!!」
「全速力だと先ほど……まあいいですわ、ぶっとばして行きますわよ!!」