32話 密売人
風呂。
ジークは光る風呂桶の前に、タオル一枚の姿で立っている。
手にはいくつかの石ころ。
辺りを見回し誰もいないことを確認すると、その石を浴槽に勢いよく叩きつけた。
石ころからは大量の湯が溢れだし、あっという間に光る風呂が完成した。
ジークがその浴槽の中に入ると勢いよくお湯が溢れだす。
湯気の中から月を見上げ、ほっと一息ついた。
――ジークとリルは風呂好きだ。
たとえ旅の中でも、最低でも二日に一回はお風呂に入りたい。
そんな贅沢過ぎるワガママ、普通の冒険者には許されない。
そう……"普通"ならば、だ。
神霊であるリルの超絶技巧・ウォールシルトを用いれば風呂桶の一つや二つくらいどうにでもなる。あとはそこに市場で買ってきた湯の魔石をぶち込み、水の魔石で温度を調整すれば即席の釜風呂の完成だ。
ウォールシルトを使っているからやたらと発光してしまうのが玉に瑕だが、まあ旅の中でお風呂に入れるのならこのくらいは全く気にならない。
「気にならない……気にならない……」
いや……気になる……。
今回ばかりは気になってしまう。
すぐ近くをおばさんが通り過ぎて行ったのを見て、ジークはそう思った。
光る風呂は目立つ。
しかもこれは屋外。
ギルドの派遣所でこの村には宿がないことを知った。
今日も野宿かと諦めかけていた矢先、有難いことに偶然居合わせたこの村のシスターが、教会の中の片隅に泊まっていいと許してくれたのだ。
とはいえ宿ではないので浴槽などあるはずもなく……。
教会の横にこの浴槽を作ったものの、いつもの旅の道中とは違いここには人が住んでいる。
別に人通りが多いわけではないのだが……この浴槽、光るから……。
「ジーク! 一緒にお風呂入ってもいい!?」
ひょっこりと物陰から現れた銀髪の少女にジークは仰天した。
「いいわけねえだろ!? ただでさえ人目があるってのに!! 未婚の男女で風呂に入るなんて……論外だ!!」
「そ、それって人目がなければいいってこと……!?」
「いいからどっか行け!! 落ち着かねえ!!」
タオルで下腹部を隠しながら叫びリルを追い返す。
リルはぷくりと頬を膨らませながら、出てきた物陰のほうへと引っ込んで行った。
「アイツは本当に……」
昔からリルは距離感が狂っている。
すぐにくっついてくるし、朝目が覚めると何故かベッドの中にいたり、「はい、あーん」と言って食べ物を食べさせてきたりする。
昔は恥ずかしくて嫌だったのだが、今となってはリルの奇行にも慣れきってしまった。
マルティナの村では散々いろいろな人にあれやこれやと言われたものだが、それももう慣れだ。
とはいえ、こういうことをされるとさすがに心臓に悪い。
「はい、あーん」とかいつの間にかベッドの中に入っているのは別にいい、だけど風呂はマズいだろう。常識的に。裸だし。
「……この風呂、流石にリルが入るのは不味くねえか……?」
年頃の女子を吹きさらしの野外の風呂に。しかも風呂桶は半透明で、これ見よがしに発光しているときたものだ。
リルの裸体をどこの馬の骨とも知れない輩に見られるかもしれない。
そんなことを想像し、ジークはスッと目が据わる。
「ジーク、そろそろ上がったー?」
「この風呂は俺が守る!」
唐突に立ち上がり奇妙なことを口走るジークに、物陰から顔だけ出していたクラウスは唖然とする。
「し、失礼したようだね……。それじゃあ僕はこれで……」
教会の中に帰ろうとするクラウスの背に「待て!!」と声が刺さる。
「クラウス、お前にも手伝ってもらう」
「何を……」
――30分後
「はあー! やっぱりお風呂っていいよねー! 一日の疲れが体の芯から溶け出していくみたいだよ~」
「そ、そうだね……。なんで僕がこんなことに……」
「ここは俺たち二人で死守する。リルはゆっくりしていろ」
「ありがと、ジーク!」
この三十分、リルが来るまでの間にジークとクラウスはそこら辺の木の枝を切断しロープで結び、マントを括り付けることで即席のカーテンを作りこの状況を潜り抜けようと画策していた。
しかし長い人生、何もかも全てが上手く行くとは限らない。
カーテンが三つ出来たあたりでリルが来てしまった。
何とか少し待ってくれるように頼んだのだが、どうしても待てないと押し通され、三方をカーテン、残る一方をジークとクラウスが肉壁になることでリルを四方から守ることを余儀なくされた。
「ジークも一緒に入る?」
「俺はさっき入ったからいい……」
この状況はいつまで続くのだろう。
通り過ぎたおじいさんの視線が痛い。
というより、何をこんな夜に出歩いているんだ、早くどこかに行ってくれ。
そんなことを願っていると、おじいさんがこちらへと近づいてくる。
「ジーク、どうする……? この状況はマズいよ……」
「畜生……」
「ジーク、どうかしたの?」
「なんでもねえ……。ここは俺に任せて、リルはゆっくりしていてくれ」
近づいてくるおじいさんに、ジークとクラウスは引きつった苦笑いを浮かべる。
「ど、どうかしましたか……?」
「おぬしら、ここで何をしているんじゃ? ここらでは見ない顔だが」
「これは、その……」
「後ろの物は何だ……? テントのようじゃが……何かを隠しているのか?」
おじいさんが覗き込もうとするのをジークとクラウスが即座にガードする。
二人の息の合った動きに余計に疑念を抱いた老人は、眉間に皺を寄せて詰め寄ってくる。
「まさかおぬしら、"密売人"ではあるまいな……?」
老人の尋常ではない圧に気押され、ジークとクラウスは目を合わせた。
(おい、"密売人"ってなんだ……?)
(ええ……僕も知らないよ……)
執拗にカーテンの中を覗き見ようとしてくる相手に、身体をくねくねとさせながら必死に抵抗するジークとクラウス。聞き覚えの無い言葉に困惑する二人に対し老人は骸骨のように落ち窪んだ瞳をギラギラとさせている。
「おぬしら、密売人か……? 密売人だ! なあ、密売人だろう!? なあ密売人だろうおぬしら!!」
狂ったように叫ぶ老人に二人は引き攣った笑みを浮かべる。
本当なら逃げたい。
何を言っているのか全く分からない叫ぶ老人など、誰がどう見ても怖いに決まっている。
それはジークとクラウスとて変わらない。
人間の発狂する声は、鼓膜から理性を破って本能に突き刺さる。
生命としての生存本能が"コイツはヤバい"と告げてくるのだ。
しかしジークとクラウスは逃げられない。
なんとしてでもリルだけは守らなくてはならないから。
そんなことを発狂する老人を前にぼんやりと考えていると、背後から女性の声が聞こえてきた。
「あらー、おじいちゃんどったの~? こんな夜遅くに一人で歩いたらご家族が心配しちゃいますよ~?」
「し、シスター!!」
教会を貸してくれたこの村のシスターだ。
彼女には教会の裏で水浴びをする許可を取っている。
「あら、このテントは……?」
「密売人だ!! 密売人を殺せ!! 殺せ、ころせ!!!」
老人を前に必死にガードを固める男二人。
裏のテントからは湯気が立ち昇り、女性の鼻歌が聞こえてくる。
目で訴えかけるジークに対して、シスターは納得したように頷いた。
「ああ、そういうこと。おじいちゃん、この人たちは密売人じゃないですよ~。私がここでお風呂に入っていいって許可したんですよ~」
「……密売人じゃない? 密売人じゃないのか? おぬしらは密売人ではない……? そうなのか? 密売人ではないのか? なあ、密売人じゃないのか? なあ」
「ええ……僕たちはただの冒険者で……」
「そうですよー。この人たちはジードフィルからやって来たんですって」
「……ジードフィル。そうかそうか、それならよかった!」
老人は二カっと笑うと、そのまま向こうのほうへと歩いていった。
「なんだったんだ……一体何が起きてたんだ……」
「シスター、ありがとうございます。あなたが来てくれなければこの先どうなっていたか……」
「いえいえー、あのお爺ちゃんはいつもああですから」
苦笑いでそう答えるシスターに、ジークとクラウスは顔を合わせた。
「密売人ってのは何だ……? あの怒り様、凄まじかったが……」
それを聞くと、シスターは溜息を吐いた。
「大麻を売り歩く売人ですよ。少し前にこの村にも密売人がやってきてひと悶着ありましてね、それであのおじいちゃん、密売人に対して物凄い憎悪の感情を滾らせているんです。なんでも、お孫さんが大麻を買っていたとかなんとか……」
それであの怒り様。
納得はいくのだが、旅人がやってくる度にああやって難癖を付けて回っているとしたら、よっぽどお孫さんがどっぷり浸かっていたのだろう。想像しただけで少し胸やけしてしまう。
「この辺りではよくあることなんですか?」
「まさかまさか! ただ……やはり近くに貿易の街があると良いことも悪いこともあるものです。人の往来が激しいと、どうしても悪人も紛れてしまいがちですからね。とはいえ悪人も人目を憚るもの。そういうわけで、こうした小さな町に麻薬を売り捌きに来るんですね」
「なるほど……」
「まあごく稀に、ですけどね……。大抵の人は買いませんけど。皆さんもお気を付けてくださいね」
そう言ってシスターは教会の中へと戻っていった。
「人混みの中には悪人が紛れる、か……」
「ジーク、なんか騒いでた?」
テントの中から顔を出したリルにジークは目を閉じ、クラウスは顔を逸らした。
「いいや……とりあえず危機は去った」