23話 決戦
月明かりに照らされた暗い闇夜の森の中、無数の刃を躱し、剣士は駆け抜ける。
左右の挟撃を身を屈めて回避し、前方の煌めきに刃を翻し軌道を逸らす。
コカトリスの"羽根"は依然として空中を駆け巡り、剣士と魔法使いに食らい付く。
「ウォ-ルシルト!」
リルは前方に壁を出し、杖を構えたままコカトリスの左翼を駆ける。
けたたましい金属音が何重にも重なったこの空間で、リルとジークは挟み込むようにコカトリスの両翼へと広がった。
ジークは剣で、リルは障壁で自らの身を守る。
もはや互いのことなど構っている暇はない。
右から左、前から上から後ろから無数の刃が襲いかかる。
風に舞う天使の羽などという生易しいものではない。暴風雨そのもののような刃の猛攻。叩きつけるかのように激しくぶつかる鉄の羽に奥歯が軋む。
「……! ――ッ!」
息つく間もない怒濤の連撃。
暴力の嵐、鉄の風、刃の雨。
弾きにいけば巨大な岩石を受け止めるかのような衝撃に襲われ、回避に移ればクモの糸上をピンヒールで踊るかの如く際疾い体配を余儀なくされる。
あまりにも一方的な暴虐の嵐にジークはハッと息を吐く。
その瞬間に後方の刃を振り向きざまに叩き斬り、ふっと息を吸うと同時に前方からの刃を回避する。
動きの中に呼吸を組み込まなくては、酸欠になりかねないほどの猛攻。
コカトリスの羽根の刃は、まるでこの空間の空気すらも切り裂くようだ。
ジークは一瞬リルの方を確認した。
魔法使いはウォールシルトを毎秒のように使い捨てて刃の雨を凌いでいる。
夜の森の中に散る桜吹雪を思わせる魔力のかけらが、辺り一面を照らし出し、その美しさとは裏腹に、その中央に踊り狂う少女の表情は闘争本能を剥き出しにした獣そのものだ。
もはやジークもリルも、互いを気にする余裕はない。
いや、むしろ気にするつもりが一切無い。
二人はこの無数の乱打の雨の中、相手がこの程度の攻めに怯むなどあり得ないと信じ切っているのだ。
狂奔染みた刃の群れが、月の灯りを乱反射する地獄の渦中。
その中にいて、ジークは、リルは、微塵も敗北を感じていない。
刹那を悠久と見違える圧縮された剣戟空間の中にいて、二人はこの苛烈な嵐の中に、針穴に糸を通すような一瞬の勝機を探している。
そして、相棒がそれを見つけ、この漆黒の絶望に風穴を開けると心の底から信じている。
ならば、その可能性に報いる必要があるだろう。
剣はまだ折れていない。
障壁はまだ限界じゃない。
それならば、膝を着くのはまだ早い。
無窮たる銀の閃光の底、夜空の星よりも遠い場所にある希望、砂漠に埋もれた一粒のダイヤモンドを探すかのように。
剣と刃が爆ぜ、飛び散る火花のひとつひとつに勝機の可能性は潜んでいる。
「ッ! ――は!!」
コカトリスの猛撃にジークは笑っていた。
口端を大きく引いて、全力で笑っている。
獲物を前にした狼の如き形相。
「…………!!……!!!!!」
コカトリスは闇夜に翼を広げ、天空に羽根を解き放つ。
恐れる気持ちがないわけじゃない。
この目の前のちっぽけな人間は、既に一時間以上もこの無数とも言える量の刃と戦い続けている。
戦いは一方的だ。
負けるはずがない。
それなのに、毒鳥はこの人間に僅かな恐れを抱いていた。
(なぜ……、ここまで戦える?)
普通なら最初の一瞬で死んでいた。
どれだけ優れた剣士でも、五分も耐えれば大したものだ。
仮に本人が耐え切れるとしても、剣が折れて終わる筈だ。
そう、この戦いはとっくに終わっているはずなのだ。
だが、実際にはそうはなっていない。
この男は無数の刃に取り囲まれ、落石のように叩きつけられ、暴風雨のような連打を押し付けられても、決して折れない。
それは精神的にも、物理的にも……。
この男は、身を守るために凌いでいるわけではないのだ。
剣が折れないように凌いでいるのだ。
それに気付いた時、コカトリスは全身に悪寒が走るのを感じた。
いつか来る反撃の瞬間のため、今はただ耐えている。
自分が生きる為に耐えているのではなく、相手を斬るために耐えている。
懐に凶器を潜ませた暗殺者のように、この絨毯爆撃のような理不尽な攻撃に、ただただ静かに沈黙の刃をぶつけているだけなのだ。
その沈黙が口を開けた時、何が起こるのか毒鳥には分からない。
分からないということは、何よりも恐ろしい。
「このッ!!」
気付けば必死になっていた。
この量の刃でやれないなら、二倍、三倍に増やせばいい。
そんな、なまっちろい考えで戦っていた自分に苛立ちを憶える。
(人間風情が……)
剣の折れぬよう細心の注意を払いつつ、もはや切れ味など皆無にも等しい鉄くず同然の剣で、自らの羽根を切り伏せていくこの男に、憎悪の感情が先立っていく。
この動き、判断、立ち位置、剣筋、その全てが毒鳥の気に触わる。
わざわざフェンリルとの連携を捨ててまで両端に広がったのは毒鳥の気を分散させるためだ。
どちらか一方に余裕が出来れば、それが反撃の狼煙になる。
この二人は互いのことを信用しているのだ。
どれだけの猛攻だろうと、必ず勝機を掴むまで耐え抜くだろうと。
そのために敢えて連携を捨てた。
敢えて一人で戦うことを選んだ。
たった一人の戦士として戦う、剣士と魔法使いの二人。
それぞれが死力を尽くして生みだす、ひとつの戦場。
それがふたつ。
その二つの戦場が、ただ一柱の神霊を追い詰めていく。
削っていく。
故に、コカトリスは無限に羽根をぶつけ続けなければならない。
それは本人の自由意志による蹂躙ではない。
そうせざるを得ないから、そうしているだけだ。
この戦いの主導権は、既にこの剣士と魔法使いが握っている。
(なんで私がこんなことに……ッ)
コカトリスはギリと歯ぎしりをした。
この程度の人間の一人、本来なら簡単に消し飛ばせるはずなのだ。
だけど、今は出来ない。
羽を輪転させ魔力の渦を生みだし放射する魔力砲、羽ばたきによる毒の散布、接近戦による圧殺など、人間を殺す手段など充分過ぎるくらいに持ち合わせている。
だが、今は使えない。
どの攻撃手段も、発動までに一定の硬直時間が存在する。
そんな長い時間じゃない。
せいぜい二、三秒程度だが、この剣士とフェンリルに限ってはそんな隙を与えればこちらの命が危ういのだ。
今はとにかく硬直がなく手数と威力で勝る羽根で削りきるしかない。
(私は……ただ夢を叶えたいだけなのに!)
自らの心の奥に、"毒"を感じた。
それは徐々に滲み出ていく黒みがかった紫の毒。
不安、恐れ、苦しみ、悲しみ、孤独、絶望。
その"毒"にコカトリスは苦虫を噛んだかのように吠える。
「あなたたちにとって、私は毒かもしれない……! でも、私にとってはむしろあなたたちのほうが毒なのよ! あなたたちを見ているだけで吐き気がするの! 家族だとか仲間だとか友達だとか! そういう馴れ合いの何が楽しい! この世界のたったひとつの理は"弱肉強食"! 強い生命が生き残り、弱い生命は息絶える! だから私以外はいらない! 私だけに生きる資格がある!」
羽根の嵐の発狂。
奔走する刃の群れ。
コカトリスの絶叫に呼応するかのように、その勢いは増していく。
「私の夢はこの世界から全ての生命を消し去ること! そのたったひとつの願いを穢す存在は、たとえ虫けらの一匹だろうが許さない……ッ!」
暴虐が連続して閃光し、拮抗が崩れた。
まるで雨粒を避けるかのような、ギリギリの回避の末に、剣士はその一筋の"道"を見出した。
(行ける……!)
目に見えない道だ。
全てがスローモーションのように映り、刃を回避し、弾き、その筋道を駆ける。
風や音さえも置き去りにして、無音にして無色の世界を、ただ疾走する。
「捉えたぞ!」
「……!」
横から襲い来る刃を弾き、その反動を利用して宙へと舞う。
二発、三発と火花が散り、体を捻りながらコカトリスの眼前に迫る。
「冷静さを欠いたな。一瞬の隙が命取りだ」
回転する勢いのままにコカトリスの両眼を引き裂き、続く刃で喉元を裂く。
「ガっ――あああああああ!!!!」
絶叫と共に無数の刃が襲い来るが、狙いの甘くなった剣戟など相手ではない。
続けざまに三つの刃を叩き落とす。
「リル!」
「ウォールシルト!」
リルから一直線に射出された障壁を足場に、コカトリスの背後へと跳ぶ。
コカトリスを撃破するには人型本体の"霊核"を斬るしかない。
懐から白蓮を取り出し、鉄剣で羽根を弾き落下の軌道を修正する。
「白蓮――」
狙うは左胸。心臓のある位置を、背後から正確に狙い抜く。
「真空断裂!」
銀の輝きが一直線に毒鳥の心臓を居抜き、確実に破壊する。
断末魔さえ許さぬ一瞬の剣筋。
最速の居合い斬り。
今まで白蓮を抜かなかったのは、全てこの時のためだ。
神霊葬という切り札を知られず、最後の一瞬にのみ、それを見せる。
トドメの一撃の為だけに、鉄剣だけで耐え凌いだ。
ジークは空を落下していく中、不意に嫌な予感に襲われた。
「一瞬の隙が、命取りですってね……」
睨むような、鋭いコカトリスの瞳。
黄金色の憎悪がこちらを捉えている。
(治っている……霊核は心臓の位置じゃなかったのか!)
即座に白蓮を振り抜くが、既に遅い。
「私が斬られたおかげで、羽根のコントロールをしなくてもいい時間が三秒も出来た。三秒あれば……!」
ゆらりと巨体が右にずれ、その背後から輪転した羽根の魔方陣が姿を見せる。
高速で回転する羽根が周囲の魔力を圧縮し、強力な魔法を編み出していく。
(回避……間に合わない!)
「魔力砲――ッ!」
咄嗟に白蓮をかざす。
禍々しい紫紺の熱波がすぐ目前まで迫っている。
今出せる、最強の剣で対処する。
それしかない。
「ウォールシルト!」
「心喰断裂!」
熱波がジークを飲み込む寸前、リルのウォールシルトが一瞬にして蒸発した。
だが、その障壁のお陰でコンマ一秒の遅延が発生した。
その一瞬に、ジークの放てる現在最強の剣を抜き放つ。
――心喰の剣。
ジークが、無数の人食いを前にして放った紅蓮を纏った漆黒の一撃。
あらゆる物質を飲み込み、食い散らかし、消滅させる真空の剣。
それを、体が無意識のうちに放っていた。
コカトリスの熱波をギリギリのところで漆黒が食い止めるが、神霊の圧倒的な力の前に一つ、また一つと剣筋が破壊されていく。
白蓮の小瓶にミシッとヒビが入る。
(ここで……終われるか!)
白蓮からさらに五つの漆黒が放たれ、熱波に対抗すべく突撃する。
ぶつかり合う魔力の衝撃が周囲の木々を薙ぎ倒し、轟音と共に全てが炸裂した。
「はあ、は、ぁ……」
熱波と、心喰の闇が消滅し、辺りは静けさに包まれる。
ジークが地面に手を付き倒れると、コカトリスはニヤリと笑う。
「二発目よ」
一撃目の魔力砲の死角に、もうひとつの魔方陣を編んでいたのだ。
「次こそ死ね!」
「心喰断裂!」
ジークは駆け、コカトリスの目前で
おびただしい量の漆黒を放ち、熱波と衝突する。
離れては駄目だ。
少しでも近付いて、この熱波をコカトリス自身に浴びせる。
もう、今はこれしかない。
心喰の剣でコカトリスを斬れないのなら、この熱波を、少しでもコカトリスに浴びせるしか。
「うぅうおおおおおおおお!!!!!!」
「アハハハ! やっぱり、私って最強!」
熱波が弾け、漆黒が爆ぜる。
白蓮の小瓶が割れ、その刀身を成していた塵が散って、ジークの手の中から消えていった。
クラウスから託された、神霊を屠る剣。
神霊葬、白蓮。
それが、コカトリスの魔力砲によって完全に打ち砕かれた。
「三発目ェ! ギャハハ!!」
コカトリスの周囲に魔力が集中し、今までにないほどの強烈な魔力の奔流が迸る。
「私の夢は誰にも譲らない。私の願いが、この世界を正しくする!」
「違う!」
背後からの叫びにコカトリスは振り返る。
「あなたの夢は歪んでる……」
ボロボロになった銀髪の少女が、杖を構えて吠える。
ジークの前に、コカトリスの正面まで歩き対峙する。
「本当に、それがあなたの夢なの……? あなたはそこまでしてその歪んだ夢を叶えて、その先で何が見たいの……?答えろ、コカトリス……」
毒鳥は勝ち誇ったような笑みで二人を見下ろし嗤う。
既に勝負は付いているかのような、そんな余裕の表情で。
「あなたたちが知るべきことではないわ。……でもそうね、敢えて言うとすれば、罪なき世界かしら。もっとも、あなたたちがその意味を知ることは出来ないけれど」
なぜなら、あなたたちはここで滅びるから。
そう答えたコカトリスにリルは俯き、しかしすぐに顔を上げ真っ直ぐに彼女を見つめた。
「私は、あなたについて何もしらない。なんでそんなことを望むのかも知らない。だから、本当ならあなたの夢を否定する資格だってない。たぶん、それは本当なら誰にも無いんだ。でも、だからと言って黙って滅ぼされるわけにはいかないの」
「そう。でも、あなたは滅びるわ。ここにいる男と一緒にね」
そう言うと、コカトリスはジークを見下ろした。
ジークは立ち上がり、ボロボロになった剣を構え、まだ燃え尽きぬ闘志を燃やす。
「滅びねえぜ。俺の相棒がまだ諦めねえって言ってんだ。俺はその言葉に応えて、何度でも立ち上がる。立ち上がって、斬る。ただ斬って斬って斬りまくる。俺に出来ることはそれくらいだからな。それに」
ジークはコカトリスの魔力砲に対峙し、吠えた。
「希望はあるぜ! 最後の瞬間までな! なあ、リル!」
リルの周囲に、魔力の風が舞った。
「遅延発動!! マグネタイザー!!!」