22話 神霊コカトリス
アクティスから奥まった森の中へと入っていき、二人は黒鹿毛を降りた。
森の中は静閑としていて虫の音ひとつ聞こえやしない。
あるのはただ、風に揺れる木の葉のざわめきと、動かなくなった動物たちの骸のみ。
木々は枯れ、川の水は闇夜の暗さの中ではっきり分かるほどに淀んでいる。
リルはスッと瞳を閉じ、近くに神霊の気配を感じ取った。
全ての生物に平等な死を配布する最悪の毒。
この世界から生命の火を消し去る死神の鎌。
毒鳥コカトリス。
敵の気配は濃厚になり、死の深淵がすぐそばまで迫っている。
ジークは鉄剣を、リルはシロザの杖を構えマグネタイザーで手の平に固定した。
冷たくなった動物の亡骸、動かなくなった虫の死骸。
死はすぐ横を転がっている。
無機質な風が煩わしい。
夜空の星も、どこか遠くの存在のようで、まるでこの空間ごと別世界へと切り取られたような、そんな錯覚を感じさせる。
生命を失った死の森の中において、今の二人は紛れもなく異物そのもの。
静謐な闇が、恐ろしい孤独の幻影が、リルの背中を撫でる。
(違う。私は一人じゃない。私にはジークがいる……)
リルはジークの肩に杖を置き、心の中でエンチャントと呟いた。
もしもコカトリスがいたら、と考えるまでもない。
コカトリスは確実に、この森の中、すぐ近くにいる。
万全を期してあらゆる可能性を考慮して、出来る限りの策を張る。
"病"を司る神霊と対峙するのに一切の慢心は不要だ。
目の前を歩くジークも今は何も言わず、ただ剣を構えて慎重に奥へ奥へと進んでいく。
もしここがダンジョンだったら、クロスライトを使っていたかもしれない。
でも今はそれをしない。
相手に察知される危険を少しでも減らすためだ。
神霊同士は相手の位置を大まかに把握できる。
だが、それはあくまで"おおまかに"でしかない。
もしここでクロスライトを使えば、どこからそれを投げ込んだのか一瞬にして悟られる。
二人に今必要な判断は、数において勝っているという点を活かした奇襲作戦。
敵より先に相手を発見し、挟撃によって最初の一太刀を加える。
『リル、他の神霊もお前みたいな人型の魔物なのか?』
ここに来る直前、ジークはリルにそんなことを聞いていた。
リルは自らの枷を撫でながら、頷く。
『神霊には本体に相当する"霊核"がある。霊核を構成するのは、今の私のような"人型"の魔力。巨獣状態では何をするにも目立つから、移動中と潜伏中には霊核状態でいることが多い。霊核状態は見つかりにくい利点があるのと同時に、弱点が剝き出しという欠点がある。そこが狙い目だと思う』
つまり、今コカトリスが見つからないということは、相手は人型の霊核状態でいるはずだ。
そして神霊を倒すには、霊核を破壊する必要がある。
つまるところ、最初の一撃で"人型"を倒せれば、コカトリスの撃破は成功する。
(最初の一撃で、全てを決める……)
そのつもりで挑まなければならない。
ジークは静かに、足音を消して歩く。
森の中で音を消して歩くのは至難の業だが、幸いなことに、風に揺れる木の葉のざわめきが多少の音なら掻き消してくれる。
狩人として培った勘と経験を活かし、獲物の位置を探す。
コカトリスの毒が川を伝って流れ出るなら、水源を探すのが妥当だ。
そして、二人は歩みを止めた。
木の陰に身を隠し、向こう側の水源に視線を向ける。
リルはジークの横で息を潜めて、そこにいる一人の少女の姿に息を飲んだ。
少女は16歳ほどの外見だろうか。
腰まで伸ばした美しい巻き毛の金髪に、凛とした燃えるような赤い瞳。
月灯りを一身にうけて、白く輝く柔肌は人間を超越した美しさを感じさせる。
一糸纏わぬ裸の少女は、毒の泉で水浴びをしている。
普通の人間なら……いや、どんな獣や魔物でも生きていられる環境ではない。
「神霊コカトリス……」
リルのその呟きに、ジークは思わず剣を握り締める。
あの少女が、クラウスやエニーの父、アクティスの村の人々を苦しめる、諸悪の根源。
全ての生命を消し去る毒鳥コカトリスの本体。
「私が移動する。クロスライトの合図が見えたら……」
その時は、あの少女を挟撃して、打ち倒す。
ジークがリルの言葉に頷くと同時、泉の少女はこちらへと振り返り、その赤い瞳に静かな笑みを浮かべた。
見つかった。
いや、もしかしたら最初からここにいることは分かっていたのかもしれない。
真っ赤な瞳を真っ直ぐにこちらへと向け、リルの姿を見てゆったりと微笑んだ。
「不意打ちを狙ったみたいだけど、残念だったわね。生きてるって感じが伝わって来ちゃって、バレバレだったわよ? 神霊フェンリル」
リルは杖を構え、無言で相対する。
月灯りの下、銀の狼を前にして、毒鳥は長い髪の毛を掴み、それで裸体を隠すようにして笑う。
この空間では、"死"という状態が当然であるかのような言い草。
自らに近付く生き物がいるのなら、羽虫一匹すら生かしてはおかない。
そんな意思を根底に宿したような、どこか薄ら寒さを感じさせる声音。
「コカトリス……」
「あらあら、何を怒っているのかしら。わたしまだ何もしてないのに……。そんな怖い顔で見られたら、泣いちゃうわ……」
コカトリスはクスクスと笑い、リルを挑発する。
「何もしてない? こんなに毒を撒き散らしてよく言うよね……。あなたは何も思わないの? こんなに生き物が死んで、沢山の人が苦しんで、悲しんでる……。それをどうとも思わないの!?」
「逆に聞くけど、何か思うところがあるのかしら?」
コカトリスは蠱惑的な表情で、リルの問に問で返す。
表情、声音、言葉……そのどれにも真摯さは感じられず、ただただ軽薄に笑うだけ。
リルは杖を構えたまま続ける。
「無益な殺生だ。あなたのやっていることは理解が出来ない」
そんな言葉に、何がおかしいのか目元を細める。
「そうかしら? 無益な生命が、無益に散ったところで、何もおかしいことはないじゃない。あなたも神霊なら分かるでしょう? この世界の生命は、全て私たち神霊の下位存在なの。強者が弱者を蹂躙する。当然の理だわ」
本気でそう思っているのか、それとも冗談のつもりで言っているのか。
判断しかねる軽薄さだが、この金髪の少女は口元を歪めながら持論を述べる。
「だって、弱っちいクセに世界中にのさばっていて気持ち悪くない? あなたなら分かってくれるでしょう? 神霊序列一位のフェンリル様からしたら、どんな魔物や生命も、ゴミ屑以下のカス虫みたいなものでしょう? 私も一緒。だから、いくら殺してもな~んとも思わないわ。むしろ楽しいくらい!」
「貴様……」
リルはコカトリスの言葉にグッと奥歯を噛み絞める。
ジークはリルの肩に手を置き、落ち着かせる。
「コイツの言葉に乗るな。相手にするだけ無駄だ」
「あら、つれないこと言ってくれるのね……。あなたは人間の剣士かしら? 知ってるわよ。そのつまらない鉄の棒で人間を殺す職業でしょう? 私、そういうの良いと思うわ! 素敵よ」
コカトリスの言葉に乗る必要はない。
コイツの言葉には中身がない。
意味の伴わない、独特の"軽さ"がある。
ただ相手を煽って正気を見失わせようとしているだけだ。
「ねえ、聞いてるの? 無視は寂しいわ。もっと私に構ってよ。ね? もし私の毒に耐えられたら、あなたを新世界に残してあげる。私、強い生き物は大好きなの! あなたは強い? フェンリルもね? もし耐えられたら、一緒に暮らしてあげてもいいわ。もちろん、私のペットとして!」
「……ッ!」
刹那、地面から無数の障壁が襲いかかった。
コカトリスは軽々とそれを躱してみせると、障壁の上に立って二人を見下ろした。
「いきなり攻撃するなんて酷いわ! あんまりよ! やっぱり、私以外の生き物は全部滅ぼすべきね……。私の理想の新世界に、私の毒に耐えられない弱っちい現生生物なんて、一匹たりともいらないわ」
そう言うと、彼女の周囲に禍々しい紫色の魔力が集中し、無数の羽根が舞った。
羽根はこの空間を埋め尽くすほど増殖し、螺旋を描いて彼女の下へと集まり、閃光を放つ。
ジークたちの前に、さっきまでの少女の姿はどこにもない。
そこにあるのは、全長20メートルほどの巨大な"毒鳥"の姿。
巨獣化した、神霊コカトリスが聳えていた。
「私の願いはね……現生生物の絶滅と新世界の創世! だからね、この世界でどれだけ殺したって全然構わないの! だって、私の願いが叶ったら、この世界の生き物は全部全部ぜ~んぶ死んじゃうんだもの! それってすごく素敵だわ! そんな私の唯一の願いを否定するなんて、本当にサイテーだわ。嫌い……。大嫌い。死んじゃえよ、みんな……」




