ドロドロした血縁関係の貴族令嬢の幸福論
「お父様の人生は酷く無意味だったわ」
妹の言葉は嫌に的を付いていて、ヨルニアは苦笑いをするほかなかった。
父であるペルティレス公は自分の葬儀の場で最後にそのような言葉を投げかけられ死後何を思うのだろうか?
必死に婚約までこぎつけた娘は、結婚相手である王子と大喧嘩の末に婚約破棄を言い渡された。そして自身は王族との和解の気配さえないまま道半ばで天に召されたのだ。きっと無念であったには違いない。当然の結末を迎えたと言えばそれまでだが。
「それをこれから決めるのは生きている僕達だよグレーテル」
精一杯に出たヨルニアの虚偽は、後方で楽士隊の奏でる『別れの曲』と目の前を横切る人々のすすり泣く声によってかき消された。王族とは違い、民衆に支持されていたペルティレス公を弔おうと多くの人が大聖堂に集まり献花しているのだ。荘厳な光景はある種宗教画のような神聖ささえ感じられ、その様を、最前列の長椅子に座るヨルニアは無感動に眺めていた。
大聖堂のステンドガラスに映る天使達は彼を今頃天国に運んでいる最中だろうか?であるならば中々の皮肉に思えた。
ペルティレス公はヨルニアや民衆にとっては心優しく、聡明な権力者の側面を見せていたが、一方で妹のグレーテルに対する教育はただ辛らつで苛烈な面を覗かせていた。彼のグレーテルに対する態度はあまりに横暴で、暴力を振るう所を目撃したことさえあった。あの時の父は確かに常軌を逸しており、たびたびヨルニアは恐怖を覚えた。自分が出くわした時は必ず彼女を外に連れ出して彼女が傷つかないように努めたが、きっとあれが全てではないだろう。
「あの人がくれた嫁入り道具も一緒に棺の中に入れてもいいと思う?お兄様」
「良いわけがない、あれでも父親だ。僕が父の地位を引き継ぐからには彼の意向は出来る限り汲んであげたい」
「こんな私に良い人が見つかると思うの?舞踏会に出てもただの笑いものになるだけなのに」
隣で手を握るグレーテルの横顔をヨルニアはちらと見た。ウサギのように赤黒い虹彩を瞬かせ、自分とは違う美しいプラチナブロンドの髪をかき分ける。それはあまりにさまになっており、まるで童話に出てくるお姫様の相貌に思えた。
実際、結婚したいと言うものは数多いた。一方でグレーテルの外見的特徴はよくも悪くも人の目を引く。花や蝶ともてはやされた頃とは打って変わり、今では王子の肩を持つ貴族たちからのやっかみや批難の的になっていた。ヨルニアが付き添った舞踏会では他国の貴族に妹は一方的に罵られ、その貴族にヨルニアが掴みかかりあわや国際問題になりそうなこともあった。妹本人が仲裁に入り事なきを得たが、あの時の無理に取り繕った痛々しい笑顔が今でも頭にこびりついている。
妹の心の傷はいつか癒えるのだろうか?神はなぜ彼女にこんな過酷な運命を強いるのだろうか?もしや妹は一生このままなのだろうか?あまりにも不憫すぎる。
一抹の不安が頭をよぎった時、後方からこの静寂な場に似つかわしくないほどの喧騒が聞こえた。それはどよめきだった。人々は足を止め、司祭は「静粛に、ここは死者を手向ける場ですよ」と注意を促すも、どうもその効果は無いらしい。
「ペルティレス公が亡くなられたというのは本当か!」
力強く鮮明で、凛々しい男の声が教会内に響いた。
その声を聞いた瞬間、ヨルニアは苦虫を潰したような顔をせざるを得なかった。
「誰か答えて欲しい、これはペルティレス公の葬儀で間違いないか!?」
「そうです。ここはペルティレス公の葬儀ですよ。お久しゅうございます。ミルフォリア王子」とヨルニアはひとつ咳払いをしてゆっくりと席を立ち、彼の声量に負けないくらいの強さで答えた。
ミルフォリアと呼ばれた男は王貴族の甲冑に身を包み、この場に相応しくない出で立ちも気にせず、人並みをかき分け、ずかずかと歩みを進めた。ミルフォリアはヨルニアの横で一瞥すると、棺の中を覗き、ペルティレス公の死を確認して舞台役者のように泣き崩れ膝をついた。鉄と鉄のこすれる鈍い音が教会内に反響する。しかも棺の柄に寄りかかりながら大声で涙を流し始めた。大の男が子どものように涙を流し、周囲にいた民衆は驚き、彼の周りから退かざるおえなかった。
「どうして逝ってしまわれたのか、ペルティレス公!!あなたを父同然と思っていた。まだあなたに教えをこうことはたくさんあったというのに」
よくそんな事が言えるなとヨルニアは喉からでかかった言葉をグッと我慢した。握り拳を作り、手の腹に爪を勢いよく押し付けた。
言葉尻だけ聞けば感動的で、心地良い言葉の羅列ではあるが、父の死の遠因は彼にある。何せあの男こそが妹に婚約破棄を言い渡した張本人なのだ。
ざわざわと騒がしさが増していく、民衆の何人かは彼が何者なのか気付き始めた者もおり、「もしかしてミルフォリア王子じゃないか?」、「良くここに顔を出せたな」といった声がヨルニアの耳にも入るほどであった。
ただならぬ雰囲気であった。民衆達の目は据わっており、床に伏すミルフォリア王子を冷めた視線で見ている。何か一言言わなければただではすまない様子で、ねっとりとした嫌な緊張感があった。まるで火をくべる前の薪のように、いずれ何かが起こる可能性さえ感じ取った。
ここ何年か農作の不作が続き、生活のレベルを落としたくない王たちは貴族の反対を押し切り、民衆に重税をかけていたせいもある。王家に対する不満は徐々に高まっており、何かあれば爆発するであろうことは自明の理であった。
ヨルニアは父の仕事を手伝う傍ら、彼らの話を聞くたびに民衆の不満のかさむさまを嫌でも肌で感じとっていた。
くそ。どうして僕がこの男を庇わなければならないんだ。ヨルニアは内心毒づき、ミルフォリア王子に手を差し伸べた。
「王子、ここでは人目につきます。教会の一室をお借りしましょう」
「あ、ああ。すまないなヨルニア殿」
今の状況ではどの道、葬儀は続けられる訳がない。
後のことは神父と妹に頼み、ヨルニアは泣き綴る王子の肩を抱き、彼をつれて教会の一室を借りることにした。ヨルニアは妹の表情を極力見ないように努めた。
◇
「申し訳ありません、王子。このような場所しかお借りできず」
「いや、構わないよ。遠征でこういった場所には慣れている。ここなら落ち着いて話も出来るしな」
ヨルニアはシスターに断りを入れ、協会から離れたゲストハウスの一室を借りた。
部屋は簡素なもので、ベッドが1つ、十字架が壁に立てかけられ、人一人分が通れる程度の小さな小部屋だが、密談をするには都合が良かった。
特に人目がある食堂や広間などでは二人の話が外に漏れてしまうかもしれない。民衆はそういうスキャンダルに飢えている。
「まずは心からのお悔やみを申し上げたい」
先に言葉を紡いだのはミルフォリアだった。
「父も天寿を全うし、満足でしょう。王子からそのような言葉を賜り、あの人も本望だと思います」
「何を言う。貴殿たちが今の状況に陥ってしまったのは俺のせいだぞ。君達と王家に禍根を残してしまった。ペルティレス公のみならず君達兄妹に殴られるくらいは覚悟していた」
ヨルニアは面食らって、噴出してしまわないか不安になった。
ミルフォリア=フラデンドラ王子。
王家の長男にして、現在王位継承権一位の男だ。
顔立ちは王によく似て洗練されている。武勇も田舎暮らしのヨルニアの耳にも伝わるほどだった。その恰好から見れば、他国への遠征中にここに駆けつけたのかもしれない。やや性格に難はあるが、父譲りの情熱家で、女性からの人気も高い。というよりもグレーテルへのやっかみのほとんどはそれが原因であった。
なぜそのような格式の男と妹が婚約できたかと言うとミルフォリアがペルティレス公をまるで本物の父の様に慕っていたからだ。彼は剣術や座学の指南役として、息子である僕以上に幼い頃から王家に出向き、そばにいた。二人はどうしてか意気投合し、その顔立ちも少し似ていた。父と一緒にいた頃はそれはもう聞き分けのいい猟犬のような男であった。だが普段はもっと独善的で自信家で、しかし成果だけはしっかりあげる。まるで狂犬であった。あるいは父は調教師かなにかだったのだろうかと今にして思う。少なくともヨルニアは彼が人に謝罪する事なんて一度もお目にする機会はなかった。
「何を呆けている。事実を言ったまでだろうに」
「まさか貴方の口からそのような言葉が返ってくるとは思いもよらず」
「彼女と婚約破棄をしてから、俺はすぐに他国に遠征に行っていた。今の君達の状況を知るすべなんてなかったんだ。まさかこんな危うい立場だったとは。一時の感情に流されて彼女に婚約破棄を言い渡してしまったことを後悔している。本当に申し訳ない」と頭を下げて、「ペルティレス公がお亡くなりになり、俺自身目が覚めた。俺は子どもだった。たかが男女の喧嘩で婚約を破棄するなんて多くの人に迷惑をかけてしまった。彼女ともう一度話をしたい。彼女が許してくれるのであれば復縁したいとさえ思っている」と言った。
ヨルニアはため息をつき、どうしたものかと思案していた。
妹には幸せになってほしいというのはヨルニアの本心だ。
とはいえここ数日の公爵の仕事の引継ぎや貴族への挨拶、顔合わせに加え、グレーテルの結婚問題はヨルニアの頭痛の種であった。少なくとも今は妹の問題を先送りにして当面の仕事に集中したいと言うのがヨルニアの本音であり、結婚に対して良いイメージを持てなくなってしまっている今の妹は自分にとっても都合は良かった。
僕はなんて事を考えているのか。ヨルニア自身、自分の考えに嫌気がさしていたのも事実で、引け目を感じ、妹の結婚について良縁があれば藁にもすがる思いであった。そうでなくとも現状を打開する事が出来ればと淡い期待を持っていた。
「一度妹に聞いてみましょう。これ以上は僕にはどうしようもない。少し席をはずさせてください」
「いえ、その必要はないわお兄様」
キィと個室の扉が開いた。申し訳なさそうに妹が顔を出した。どうやら話は全てグレーテルに筒抜けであったらしい。
「グレーテル?どうしてここに?」
「葬儀を抜けてきたの。お二人の事が気になってね。お兄様申し訳ないけど、ミルフィと二人だけで話をさせていただけないかしら」
「グレーテル!俺は君に謝りたかった、いや、そうだな。まずは話をしよう」
そう言って懺悔するミルフォリアに対して、グレーテルは大きく息を吐き、肩を落とした。
「お兄様ちょっと席をはずしていただけますか?」
「あぁ出歯亀をする趣味はない。教会に戻ってるよ」
ヨルニアは選手交代とばかりにグレーテルの肩を叩き、ゲストハウスから離れて外に出た。
今頃、教会の中はどうなっているだろうか。ミルフォリアの出現に大騒ぎとなっているだろうか。気が重く、葬儀に戻るのが酷く億劫であった。
天を仰ぐと薄明かりさえ見えない曇り空で、雨こそ降っていないが雲が自重で地面に落ちてきてしまっても不思議でないほどだった。
こういう時は決まって喪失感が胸を締め付けて、涙も出ないのに無性に悲しい気持ちになった。
そういえば、前にもこんな思いをした事があったな。遠い過去の記憶だ。ヨルニア自身記憶の奥底にしまっていたものだ。
子どもの頃、グレーテルはいつもヨルニアの後ろを付いてまわり、まだあどけなくて、無垢で、今では考えられないほど明るい幼子だった。
ある日、ヨルニアの母方の親戚が亡くなり葬式に参列した。
棺の中の人物を見るなり、母は泣きじゃくり、まるで自分の片割れが死んでしまったかのように一心不乱に涙を流し、狂った様に棺を揺らした。その光景があまりに痛々しくて、父のミルフォリア公はその姿に蒼然となっていた。
周りの親族たちに母は制止されるも怒鳴りつけ、あまりの事態に驚いたヨルニアはグレーテルの手を引き、教会の外に出た。
あの日も確か曇天の空であった。グレーテルは先ほどとは打って変わり笑顔で辺りを散策し始め、茂みの中で何かを見つけ、靴が汚れるのも気にせず、脚を広げてしゃがんだ。
「グレーテル、はしたないよ」
「ねぇ、お兄様チョウチョだわ!」
それはただの蛾であった。薄黄色の羽にまだらな黒い斑点が特徴的で贔屓目に見ても愛らしい蝶々ではなかった。醜い蛾は雑草のつま先に留まり、グレーテルが近づいても逃げる様子はなかった。
「それは蝶じゃないよ。ただの蛾だ。でも珍しいねこんな所にいるなんて」
「きっとあの人のために来たんだわ!あの人を天国に連れていってくれるのよ」
ヨルニアは何気ないその言葉が末恐ろしかった。
グレーテルの言葉に反応する様に蛾はその翼を羽ばたかせて弱々しく天に舞った。まるで親戚だけでなく、先程おかしくなってしまった母の魂まで連れて行ってしまうのではないだろうかとさえ思えるほどの儚い飛翔であった。思えば大好きな母親が自分達に無関心になり、父が妹に厳しくなってしまったのはこれが契機だった。
ヨルニアはあれから人の死が怖くなり、敏感になった。人の死には心を変えてしまうほどの魔力がある。
父亡き後、自分も父のように変心してしまうのではないだろうかとここ数日不安を感じていた。
自分にはあの男と同じ血が通っている。いつか妹を傷つけてしまうかもしれない。それだけが怖かった。だからこそ、ヨルニアは妹を誰よりも守ったし、優しくした。
そして心のどこかで今の幸せが永遠に続けば良いとさえ思っていた。ぬるま湯の現状維持がヨルニアにとって一番の解決策なのだ。変わらないものなんて何もないのに、ヨルニアは現実から目を背けた。
「王子はどうしたんだ?」
「復縁を迫られたけど拒否したらお帰りになられたのよ」
席に戻った開口一番のグレーテルの返事に、ヨルニアはポカンと口を開き、不思議と安堵感を覚えた。
「あんなに反省していたじゃないか」
何か煮詰まったような物言いに、自分自身どんな言葉を投げかけていいのか分からなかった。皮肉屋のヨルニアらしからぬ言動だった。グレーテルは彼の隣の椅子に座り、彼の肩に身体を預けてもたれかかる。左肩に顔をこすりつけ、たけの長い礼服を涙で汚した。そんなに泣いてしまうなら断らなければ良いのにとヨルニアは思った。
「ええ、断りを入れたときにミルフィも泣いてもいたわ。でも彼は元々異性に人気があるし、今は正義感でああは言ったけど、きっといつか私への気持ちも移ろいでしまうに決まってる。少なくとも私は彼を信じることはもう出来ない。これでよかったのよ」
「…そんなこと分からないだろう」
「ううん。私には分かるの。これが私たちにとって一番良い終わり方なのよ。ただ私達兄妹の立場が回復するように努めてくれるって。これからも良いお友達でいましょうっていっておいたわ。それで終わり」
グレーテルの表情は苦悶に満ちていた。今何を考えているのだろうか。悔しがっているのだろうか。心のどこかでまだ彼を思う気持ちは残っているのかもしれない。
「…つらかったねグレーテル」
「彼の事、好きになろうと努力はしたの。本当よ?普通の人間になろうと努力したの。実際そうなりかけてた。でも最後の最後で彼に裏切られた。もう誰かを信じることなんて出来ない」
「あんなことにもなれば誰だってそうなるだろう。けどなぁ…いや、なんでもないよグレーテル」
しかし、ヨルニアはグレーテルの表情を見て、これ以上何か言葉を紡ぐのは止めた。今、何か励ましの言葉を投げかけても何か嘘のようになってしまうような気さえして、口を閉ざした。
◇
「グレーテル様、ミルフォリア王子からお手紙がまた届いております…」
「そう。後で目を通すから、部屋に置いて頂戴。そんなことよりも兄はどこかしら?」
「それなら温室に――」
父の葬儀から数日後。
ミルフォリアからの手紙は一月に一回くらいのペースで送られてきているものの、その内容はいつも同じものだ。謝罪と後悔の言葉。そしてやり直したいと一筆したためられている。どうせいつ読んでも、返事をしても変わらない。
グレーテルはさっさとメイドとの会話を切り上げ、鼻歌交じりに一直線に兄の元に向かった。
温室はヨルニアとグレーテルの住む屋敷の隣にぽつんと立てられたワンフロア程度のこぢんまりとしたものだ。
だが控えめな外観とは打って変わり実際にはかなりの金額がかけられている。薔薇の世話が趣味だった前公爵、つまりペンティシア公が王家御用達の設計士に特注で作らせたものだったからだ。
最新鋭のガラス加工による壁面とそれを支える支柱などの鍛造技術により完成した我が家が所有する中で最も立派な建造物でもある。
ただ現在は、その優美とも言える最先端技術の全てを持て余し、兄であり、読書家のヨルニア現公爵の憩いの場になっている。
書庫から持って来た本は床に無造作に平積みされ、優美さのかけらも見られない。温室の湿気で本が駄目になることを気にしないのが、グレーテルの兄への小さな、そして唯一の不満であった。
グレーテルが温室に入るとまるで気にした素振りもなく、ヨルニアは読書に明け暮れていた。グレーテルもそんな兄を気にもせず、手に持っていた園芸用のハサミを取り出し、薔薇の世話をし始めた。
日は暮れて、もうすぐ夕食間近だというのに、二人はその場を離れる様子はなかった。
「薔薇の世話なんて庭師にやらせれば良いって思っているんでしょ」
静寂をやぶったのは彼女の方だった。
グレーテルは後ろで読書に明け暮れるヨルニアに振り向きもしない。
園芸用のハサミで薔薇の間引きを行い、細くて不出来な枝、育つ見込みの無いもの、育てたい芽の周りに生えた芽を切っては床に落としていく。その単純な作業がグレーテルにとって癒しの時間となっていた。
「人の心を見通すのはやめてくれ。心臓に悪い」とヨルニアはギョッとして「もののついでに聞くけど何故そんな手間を?生前の父にも聞いてやりたかったんだがね」と言った。
「無心でバラの手入れをしていると何となく普段の視野では見えないものも見えてくるような気がするの。心の調子を整える効果があるのではないかしら。人間にはきっとこういう必要のない時間が必要なのよ」
「ずいぶん哲学的な見解だな。羊飼いの説法よりはためになったよ」
パタンと本が閉じる音が聞こえる。きっと後ろではヨルニアが欠伸でもしているのだろうとグレーテルは当たりをつけた。
「あなたが言うほど大層なものではないわ。ただ私はこの時間がたまらなく好きというだけ。もちろんお兄様がそばにいるからだけど」
「…そういう言葉は結婚相手に言うまで取っておきなさいグレーテル」
「つまらないことを言わないでヨルニア」
グレーテルは振り向いて、恐ろしく冷めた声で告げた。薔薇の茎は強く握りしめられ、歪み、透き通った白い指と指の隙間からグロテスクな程鮮やかな赤い血がプツリプツリと溢れた。
やがてグレーテルの左手の薬指をつたい、ポタポタと床に血の染みを作った。グレーテルは無表情でそれを見つめていた。
「痛い、酷く痛いよ」
「馬鹿な子だなグレーテル。化膿する前に消毒液をかけないといけないよ。さぁ手の中を見せて」
グレーテルはヨルニアに近づき、左手の薬指を差し出した。その間も血は床に滴り落ちたが、構う様子さえ無かった。
傷ついた自分を見て、兄は今何を思うのだろうか。あの繊細な兄は平気なフリをしてまた心を痛めるだろうか。そんなことを想像するのがグレーテルはたまらなく楽しかった。もう自分には兄しか残っていないのだから。
その夜のグレーテルは、とてもぐっすりと眠ることができた。
最近同じ夢ばかり見て辟易としていたが、今日ばかりはそれも心地よかった。
夢の中で彼女は霧の濃い森の中を歩いていた。
ただ森というにはやや語弊があった。確かに見た目は森なのだが、生えているのは全て茨だった。
末葉すらなく、茨はびっしりと歪な方向に伸びていた。奥に行くほど棘はどんどん鋭利で長細くなっている。進むものを傷つけて最後には死に至らしめるに違いない。
茨の大海の奥。その先は薄明かりがピンぼけしたような深遠だった。薄明のような柔らかい闇が広がっていて、その闇の先に何があるのかグレーテルには見当がついていた。
進めば進むほど茨が華奢な身体に食い込んでいく。血が垂れている擦り傷が妙に痛む。毒でも入っていたのかもしれない。よく見ると森の動物達も茨の棘に刺さって息絶えていた。自分もいずれはそうなるのだろうか。
その串刺しの群れの中で一際目立つ大きな塊があった。よく見ると死んだはずの父、ペルティレス公だった。
茨に貫かれ死に体であるはずのペルティレス公は何かを呻きながら、もぞもぞと茨の棘から逃れようと緩慢な動作でグレーテルとは反対側の方向に進もうとしていた。
ただ既に瀕死であるせいかすぐ近くにいる彼女にさえ気付く気配はない。
「グレーテル、お前は本当に私の娘なのか?お前の髪、お前の顔、お前の表情。何から何まであの男にそっくりだ。見ていると怒りだけが湧いてくる。私の娘ではない。そうに違いない。なぜだ。なぜ私を裏切ったのだ我が妻よ…」
隣を通った時、父の口元から呪詛の言葉が聞こえた。
グレーテルは苦笑して、歩みを止めることはしなかった。思えば酷い父だった。以前はこんなに酷い人間ではなかったと兄は言っていた。だが、私はそのクズな父親しかしらない。自分に英才教育という名の虐待を繰り返し、母は見て見ぬふり、指導として鉄拳制裁を喰らったこともあった。家では自分の味方は兄だけだった。亡くなる直前、暴力はさらに酷くなった。その頃には現実と妄想の違いさえ分からなくなっていた。
痛ましくなる父を見ても何ら感慨は湧かなかった。むしろ自分があの人を慕っていることに感づいて王子と婚約させた張本人だ。恨む道理こそあれ、哀れむ理由は無い。
そんな事よりも、兄からもらったお気に入りの牛皮のシューズが土垢と真っ赤な斑点ばかりになってしまったことだけが気がかりだった。
「人生なんて死ぬまでの束の間の夢でしかないのによくやるよ」
さらに森を進んでいくと、茨の棘の上で休んでいた一匹のキシタエダシャクが言った。
「うるさい、どこかにいって」
「蝶ならまだしも蛾の言うことくらいは耳を傾けた方がいいと思うがね」
「私は好きでこうしているの。ほっといて頂戴」
「ならせめて1つくらいは祈らせてくれ。哀れな旅人に主のご加護がありますように。この愚かな兄妹にさえ祝福を」
「くそくらえ」
グレーテルの言葉にキシタエダシャクはため息をつき羽ばたいていった。針の穴のような小さな小さな茨の隙間をかいくぐり、抜けるような青空に飛んでいく。
自分もあんな風に空を飛べたら、どれだけ楽になれただろうか。
そう笑って、自分もキシダエダシャクのように天に祈った。