ミスターホスピタリティ
専門学校に向かう途中、左手首に巻いている時計の針が一時過ぎを示していることに気がついた。乗っている電車は八時九分に東長崎駅を出発したばかりだ。彼女は終点に着いたら腕時計の時刻を合わせることにした。今は左手で吊り革に掴まり、同時に右手で鞄を持っているため、文字盤の横にあるダイヤルを回すことができない。堅苦しいリクルートスーツはまだ慣れないが、曇天の車窓を眺めて到着を待つ。
終点の池袋までは五分で到着した。駅前でスマートフォンを参考にして腕時計の時刻を合わせようとする。そこで彼女は初めて秒針が動いていないことを知った。電池が切れていたのだ。この銀色の腕時計は母親からのお下がりなので、電池切れもやむなしと考えられた。電池交換なら池袋駅近くに時計修理店がある。今日はアルバイトも休みなので、彼女は時刻合わせを中止して放課後にその店へ向かうことを決めた。
腕時計がなくても学校生活に大きな支障はなかった。放課後になって彼女は時計修理店へ向かった。その店は大きな商業施設の奥にある。入ってみると、様々な高級時計店が自慢の商品を丁寧に並べている。彼女の収入ではとても手が出ない額だ。場違いなところに来てしまったような感覚に襲われる。
カウンターの男性店員に腕時計を渡し、電池交換を申し込む。『申し訳ありませんが、こちらのメーカーさんはサポートの対象外です』と言われるかもしれないと思い、彼女は少し息を飲む。店員は無表情で文字盤の裏を見て、言った。
「五分か十分くらいで交換できると思います。そちらに掛けてお待ちください」
肩の緊張が解けると、彼女の五分は光の速さで過ぎ去った。店員が店の奥から戻ってきた。
「お待たせしました。千六百二十円になります」
黒いトレイに乗せられた腕時計を見て、彼女はあることに気がついた。時計が五時三十分を指している。
「千六百二十円ちょうど頂きます。ありがとうございました」
「ありがとうございます。……針まで合わせてもらって」
店員は無表情のまま言った。
「いえ」
この店員を自分は手本にするべきだ。彼女はそう感じた。




