オワカレノトキ
優紀が全てを語り終えると、間ノ瀬母子は互いに顔を見合わせた。やはり、頭がおかしくなったと思われてしまったようだ。
「実は、ね」と、淑子。「君が行方知れずになった日に、伯父さんが高熱を出して倒れたんだ」
優紀はぎょっとして、ベッドから身を起こした。「大丈夫なんですか?」
「うん、今は回復してるよ」
優紀は、ほっとため息をついた。
「けどね」淑子は、困惑した様子で言った。「彼が意識を取り戻した時、妙なことをいってたんだ。優紀くんと、見知らぬ女の子が、一緒に僕を助けてくれたんだよって。正直、君が話してくれたことが、本当にあったことだとはどうしても思えないんだけど、それを聞くと、私らが思いもよらない何かが、あったのかも知れないね」
「なんでもいいよ」みのりが言った。「おじいちゃんも、松原さんも元気になってくれたんだもの」
「ああ、そうだね」淑子は頷き、娘の頭をくしゃりと撫でた。
それから二人は、平間の様子を見に行くと言って、優紀の病室を立ち去った。いささか、置き去りにされたような孤独を感じながら、ベッドのかたわらを見ると、松葉杖が一本だけ置いてあった。もう一本は、あの少女が持って行ってしまった。病院からのレンタル品だから、紛失したとなれば、弁償をしなければならない。いささか頭の痛いことだが、彼女の身を守るために使われたのだとすれば、それくらいの犠牲は受け入れて然るべきだ。
こつこつと、病室の扉がノックされた。
「どうぞ」
優紀が応じると、あの少女が松葉杖を携えて部屋に入ってくる。
「よかった。君も無事だったんだね」
少女は頷き、松葉杖を、もう一本の松葉杖と並べて置いた。「役に立ったわ」
「そうみたいだね」
二人は顔を見合わせ、くすりと笑った。
「ねえ、君」と、優紀。「助けてくれて、本当にありがとう。もしよかったら、何かお礼がしたいんだけど?」
「お礼?」少女は戸惑った様子で言った。
「うん。と言っても、下のコンビニで買えるものだけど」
少女は考え、ぱっと笑みを浮かべて言った。「チョコ!」
「いいよ、チョコだね」
「うん。あのね、ソフトクリームみたいに三角形で――」
熱心に説明する少女に、優紀はいちいち頷いて応じる。しかし、少女はふと笑みを消す。「でも、そんなの無理」
「どうして?」
少女は唇を引き結んで、小さく首を振った。
「それじゃあ、他には何かある?」優紀はたずねた。
「えっと」少女は、少し躊躇した様子で言ってから、いきなり優紀に抱きついた。優紀は驚き戸惑うが、少女の身体に腕を回し、その小さな身体を抱きしめた。彼女は、やはり風呂を必要としているようだった。
「ありがとう」少女は言って身を離し、優紀は奇妙な喪失感を覚えた。
「大丈夫?」優紀はたずねた。少女は頷き、手を振って病室を後にした。
夢か、幻か。おそらく事情を知らない誰もが、そう言うだろう。優紀自身も、これがもう、本当のことではないような気がしていたのだ。しかし松葉杖は、きちんと二本揃っていた。
優紀はベッドを降り、松葉杖を突いて病室を出た。自分が少しだけ、あの硫黄臭がする濃密な空気を望んでいることに気付く。そう言えば、また名前を聞きそびれてしまった。
「松原さん?」
声が上がり、そちらへ目を向けると、みのりの顔があった。
「みのりちゃん、どうしたの?」
「あの」と、少女は顔を赤らめて言う。「そろそろお昼ご飯だから、一緒にどうかっておじいちゃんが」
「うん、行くよ」優紀は即答した。
ぱっと笑みを浮かべ、少しばかりはしゃいだ様子で、みのりは先に立って歩き出す。優紀は彼女に続いて一歩踏み出すが、ふと思い付いて少女に声を掛けた。
「その前に、ちょっと寄りたいところがあるんだけど、いいかな?」
みのりは、きょとんとしながら頷いた。
二人はエレベータに乗り、一階で降りる。待合ロビーには大勢の人がいて、コンビニでは店員が忙しく働いていた。店内に入り、「ソフトクリームのような三角形のチョコ」とやらを探す。いちごと、クッキー&クランチの二種類。いろいろ迷って、両方買う。それから優紀は、待合ロビーに面した階段へ向かった。踊り場には「B1F」の表示板が光っている。
みのりに松葉杖を預け、優紀はそこを降りた。踊り場を曲がっても壁はなく、その先には薄暗い廊下が見える。
「どうしたの?」ついて来たみのりが、心配そうに声を掛けて来た。
優紀は、「ちょっと、ね」と言って、先ほど買ったチョコ菓子を、レジ袋ごと階段の手摺に、ゆるく結びつける。
「それは?」みのりは、怪訝そうにたずねる。
「お供え――に、なるのかな」優紀は言って、階段を昇り始めた。
並んで階段を昇りながら、みのりは「あっ」と声を上げる。「もしかして、さっき言ってた女の子の?」
「うん」優紀は答え、少しばかり息を切らし、足を止める。よく考えれば、丸一日寝ていたと言うのなら、食事も丸一日摂っていないと言うことになる。スタミナが切れるのも、当然だった。
不意に、みのりは松葉杖の柄で、優紀の背中を小突いた。痛くはなかったが、少女の理不尽な仕打ちに、優紀は驚く。「え、なに?」
「なんでもありません」みのりはふくれっ面で答えると、優紀を置いて階段を駆け上がった。それから振り返り、にこりと笑って手を差し出す。「急ぎましょう。みんな、待ってますよ?」
優紀は頷き、再び階段を昇り始めた。一段、一段。差し出された、少女の小さな手を目指して。




