トラワレノヒトビト
松葉杖を少女に預け、手摺にすがりながら階段を降りる。優紀の病室は四階にあったから、骨折した足を抱えて降るのは、なかなかの苦行だ。どうにか一階にたどり着いたところで、少女は松葉杖を優紀に差し出した。
「地下へ行くんじゃないの?」優紀は怪訝に思って、地下へと下る階段を示す。直下に踊り場が見え、そこにある蛍光灯の表示板には「B1F」と書かれていた。
「行き止まりなの」
「だけど、階段は続いてるよ?」
少女は何か言い掛けたが、唇を引き結んで階段を降りた。優紀は後へ続き、踊り場を曲がったところで、彼女が「行き止まり」と言った意味を理解した。階段は続いていた。しかし、その先は、モルタルの壁が行く手を塞いでいたのだ。
建物の構造として、この壁は、あまりにも理不尽だった。とは言え、階段など滅多に使ったことはないから、単に存在を知らなかっただけかも知れない。ともかく、今は少女に案内を任せるべきなのだろう。
「戻ろう?」少女は言って、階段を上り始めた。
二人が一階へ戻ると、そこは待合ホールだった。照明は大半が落とされ、辺りは薄暗く、非常口を示す緑色の看板ばかりが輝いている。玄関は、格子のシャッターが下りて塞がれていた。
少女はたくさん並ぶ椅子の間を抜け、ホールから伸びる、比較的明るい廊下へと向かう。そこには院内売店としての役割を担うコンビニもあったが、今はすっかり照明が落とされ、無人のようだった。ナース・ステーションにせよ、コンビニにせよ、どちらも二十四時間、誰かしらがいるはずなのに、これは一体、どう言うことか。
少女は、ひたすら廊下を進む。松葉杖を突きながら追いかけるには、なかなか骨の折れる速さだが、泣き言を吐くつもりはない。しかし、二度、三度と少女が角を折れたところで、いささか不安になって来た。確かに大病院と言うのは迷路のように入り組んでおり、昼日中に訪れても迷うものである。床にカラフルなテープで案内も書かれているが、それは外来患者が歩き回る区画に限られる。今、優紀が歩いている場所は、おそらく病院のスタッフ以外は訪れることのない場所だった。窓もなく、左右に並ぶのは、素人には用途不明の名称が掲げられた部屋ばかり。もはや、どこへどう行けば、待合ホールへ戻れるのかさえ、すっかりわからなくなっていた。
ずいぶん長らく歩いたところで、降り階段の前にたどり着いた。少女は足を止め、優紀に目を向けてくる。本当に行くのかと、無言で問うているようだ。
ここへ来て、優紀はようやく、病院を徘徊する怪物に、一度も出会わなかったことに気付いた。この少女が、あれほど複雑な経路を選んで歩いたのは、おそらくそのためだったのだ。その彼女が、再び平間の救出に再考を求めている。
優紀は、頷いた。少女は手を差し出した。優紀はそれに松葉杖を預け、再び手摺にすがって階段を降り始めた。
またもや、長い廊下が待ち受けていた。右に左にと何度も折れ、いくつもの分かれ道を行く少女の背中を、はぐれないよう懸命に追いかける。「霊安室」と書かれた扉の前を、いささか緊張しながら通り過ぎたところで、正面にエレベータの扉が見えた。しかし、その階数表示板は、明らかに動いていた。少女は、近くにあったパイプスペースの陰に身を寄せ、優紀もそれにならう。はからずも密着した少女からは、明らかに風呂を必要とする子供の臭いがした。
エレベータの到着を知らせるベルが鳴る。陰から顔を覗かせ、様子を見ると、例の看護師もどきが二人、ストレッチャーを押して出てくる。ストレッチャーの上には人が載っていて、その身体はベルトで固定されていた。怪物たちは、優紀から見て右手に消える。どうやらエレベータ前で、廊下はL字に折れているようだ。
後を追おうと物陰から出る優紀を、少女は引き止めた。優紀は素直に従い、再びパイプスペースの陰に身体を引っ込めた。しばらく経って、手ぶらの怪物たちが戻って来る。彼女たちはエレベータに乗り込み、去って行った。
少女は頷き、小走りで先を行く。優紀は懸命に後を追う。エレベータの前で右手に折れ、突き当りに両開きの巨大な鉄扉が見えた。その上には「処置中」と光る赤い表示板が点灯していた。
少女は扉に取り付き、片方をわずかに開けて、中を覗き込んだ。束の間を置いて、彼女は優紀に頷いて見せた。優紀は扉をさらに開き、その隙間に身体を滑り込ませた。少女が後へ続き、扉を閉める。
だだっ広い室内には、何台ものストレッチャーが整然と並んでいた。その上には意識のない人たちが横たわっており、彼らは皆、モニターの付いた用途不明の機器に、チューブやコードで繋がれている。部屋の隅には似たような機械がぞんざいに押し込められており、おそらくそれは、もっと多くの人を収容することもできるのだと示していた。そこかしこにスタンド式の作業等が灯っているのは、天井に照明らしい照明が備わっていないためだった。そもそも天井自体が無く、パイプやダクトや配線がむき出しになっている。
「友だち、探そう?」少女は言った。
優紀は頷き、ストレッチャーの間を歩き回って平間を探した。老爺はすぐに見付かった。彼の見事な白髪が、目印となったのだ。ぴくりとも動かない平間を見て、よもや死んでいるのではと焦るが、その胸が微かに上下しているところを見て、安堵する。
「この人?」
たずねる少女に、優紀は頷き返した。しかし、意識のない彼を、どうやって運び出したものか。骨折した足では背負って行けるはずもなく、かと言って、ストレッチャーごと運び出すとすれば、エレベーターを使わざるを得ない。それに、他の患者たちはどうする?
しかし、悩んでる暇も許されなかった。扉の外から、声が聞こえてきたのだ。
「今日は八人だったな」年配の男の声だった。「どうにか、かき集めたと言うところか」
「いえ、それが」若い男の声。「E1409YMの回収に失敗したようです」
優紀と少女は目配せし、部屋の隅にある医療機器の後ろに身を隠した。直後に扉が開き、二人の医師が入ってくる。二人とも、緑色の手術着を着ており、一人は器具を乗せたワゴンを押していた。ほとんど顔全体を覆う大きなマスクのせいで、彼らの容貌はわからない。
「失敗した?」手ぶらの医師が足を止め、ワゴンを押す医師に目をやった。
「はい」と、若い声の医師は答える。「彼の病室で、担当看護師が殺されていました。患者も姿を消しています」
「偽装がバレたと言うことか」
「おそらく」
「例の娘の仕業か?」
「それも確認はできていませんが、間違いないと思います。もっと、あの少女が危険だと、はっきりわかるような噂を流した方がよくはありませんか?」
「馬鹿を言うな」年配の医師は、マスクの下で鼻を鳴らす。「そんなことをすれば、この病院が呪われているだのなんだのと、口さがない連中にあれこれ言われることになるぞ。今みたいに患者たちが、彼女を胡散臭いと思う程度で構わんよ」
「E1409YMは、どうしますか?」
「あれは、ただの数合わせだ。たいした培地にもならないだろうから、放っておいて構わん。それに、おっつけ自分で病室へ戻るだろう。記憶をいじるのは、その時でいい」
「戻りますかね。看護師の正体を知っても?」
「人間とは、そう言う生き物だ」年配の医師は短く笑った。「目の前の現実が受け入れ難いとなれば、自分の現実に引きこもる。彼らにとって、安穏とした病室の方が、何より確たる現実なのさ。それよりも、仕事に取り掛かろう」
医師たちはストレッチャーの間を歩き回り、時折、足を止めて機器のモニターをチェックした。彼らは、しばらくそうしてから、一人の患者の側に立ち、互いに頷き合う。
年配の医師は、おもむろに患者の顔に手を掛け、その口をこじ開けてから、もう一人の医師に手を差し出した。若手の医師は、ワゴンに乗っていた金属のボウルに鉗子を突っ込み、くねくねとうごめく白っぽい芋虫のようなものをつまみだしてから、それを鉗子ごと年配の医師に手渡した。あの看護師もどきから這い出してきた、芋虫とそっくり同じものに見えた。
「何をやってるんだ?」優紀は、こそこそとたずねた。しかし少女は、眉間に皺をよせて首を振る。
年配の医師は、慎重な手付きで、鉗子につままれた芋虫を、患者の口の中に押し込んだ。
「次だ」年配の医師は言って、患者の側を離れる。若い医師が、ワゴンを押しながら後へ続く。
見る限り、芋虫を口に突っ込まれた患者に、特段の異変はない。しかし、東や田中が同じ処置を受けたのだとすれば、これこそが急変の原因なのだろう。
年配の医師が、平間のストレッチャーの側で足を止めるのを見て、優紀はぎょっとした。彼にも、あの芋虫を移植しようと言うのか。優紀は松葉杖を一本、少女に押し付けた。何かあった時、武器になるものが手元にあった方が良いだろう。そして、きょとんとする少女を置いて、優紀は機材の陰から飛び出した。
「やめろ!」
医師たちが、そろって優紀に目を向けた。
「E1409YMですね」若い医師が、のんびりと言った。
「どうやって、ここへ入り込んだんだ?」年配の医師は言って、平間に目を戻す。「まあ、いい。あれの処置は後にしよう」
二人は、突然の乱入者に、まったく動揺しなかった。
「何をやっているかは知らないけど、その人に手を出すなら、ただじゃおかないぞ!」優紀は懸命に凄む。
年配の医師は、それをまったく無視して、平間の顔に手を掛けた。こうなれば、問答無用だった。優紀は、ほとんど片足で跳ねるようにして駆け、医師に体当たりした。医師はよろめき、小さく舌打ちをしてから優紀を突き飛ばした。そもそも片足でバランスの悪い優紀は、あっさりと床にひっくり返り、したたかに頭をぶつける。
「先生!」若い医師が叫んだ。
物陰から飛び出した少女が、松葉杖を構えて年配の医師に突進したのだ。しかし、警告は手遅れだった。少女は杖を横ざまに払い、頭を殴られた年配の医師は、卒倒してどうと床へ倒れ込んだ。
若い医師が少女に組み付いた。優紀は、少女に加勢しようと、めまいをこらえながら立ち上がる。大人と子供では勝負になるまい――と思いきや、少女は意外な抵抗を見せた。覆いかぶさる医師の身体の下からするりと抜け出し、逆に馬乗りになって、逆さまに持った松葉杖の柄で、彼の顔を殴り始めた。若い医師は悪態を吐きながら、巴投げの要領で少女を投げ飛ばし、少女は背中を床でしたたかに打ちながらも、素早く立ち上がって、再び医師に襲い掛かる。
優紀は作戦を変更した。ふらつきながら歩き出すと、足元で年配の医師が小さくうめいた。彼が正気付けば、厄介なことになる。急がなければ。
優紀は、ワゴンのそばで足を止めた。そこにある金属のボウルの中には、例の芋虫がうごめいている。これを全部叩き潰せば、もはやこの異常な『処置』は続けられないはずだ。しかし、ボウルに手を伸ばしたところで、優紀は戦慄した。芋虫の頭には、一様に目を閉じた赤ん坊にそっくりの顔があり、それを一斉に優紀へ向け、人間そっくりの歯をかちかちと鳴らし始めたのだ。
「後ろ!」少女が叫んだ。
ぎょっとして振り返ると、年配の医師が腕を伸ばして迫っていた。優紀はとっさにボウルをひっつかみ、それを医師の顔に叩きつけた。
絶叫が上がった。年配の医師は床に倒れ、悶絶する。マスクをはぎ取り、必死に掻きむしる顔には、芋虫たちがかじりついていた。医師は顔の皮膚がちぎれるのも構わず、掴んだ芋虫を引きはがそうとする。しかし、一匹をはぎ取る間に他の芋虫が、彼の耳や鼻や口の中へ、うぞうぞと入り込んでゆく。
あまりのおぞましさに、優紀は後ずさろうとしてバランスを崩し、尻もちを突いた。それに気付いたのか、医師の身体に入りそびれた数匹の芋虫が、優紀に向かって迫って来る。
「先生!」若い医師は少女に背を向け、年配の医師に駆け寄ろうとした。しかし、少女はその足元に向かって、松葉杖を投げ付ける。回転を加えられた杖に足を取られた医師は、前のめりに倒れワゴンに頭から突っ込んだ。けたたましい音を立ててワゴンは倒れ、その上にあった種々の器具が、辺りにまき散らされた。
若い医師は、床に倒れ伏したまま小さくうめいた。そして、彼が正気付いた時には、もう手遅れだった。医師は悲鳴を上げ、芋虫たちは新しい獲物に次々と取り付き、その体内へと身体を潜り込ませていく。
床の上で悶絶する二人の医師を、優紀はただ見守ることしかできなかった。そのうち、年配の医師の手術帽が、ぽろりと落ちた。彼の額には真一文字に傷があり、それは黒い縫合糸で縫い合わされている。すると、これも、あの看護師もどきと同類と言うことか。
ほどなく、芋虫はすっかり姿を消し、医師たちは動かなくなった。生死はわからないが、確かめるつもりもない。
少女が優紀に歩み寄り、松葉杖の片割れを差し出した。「役に立ったわ」
「そうみたいだね」どうにか立ち上がり、杖を受け取って優紀は言った。「これで、終わったのかな?」
「わからない」少女は首を振る。「早く、友だちさんを連れて逃げよう」
優紀は頷いた。他の患者も気掛かりだが、全員を連れ出すのは不可能だ。加えて、先ほど頭をぶつけたせいか、かすかに吐き気を感じる。脳震とうを起こしているのかもしれない。
優紀は平間のストレッチャーに松葉杖を置き、キャスターのロックを外してからそれを押して、出入口の扉へ向かった。少女が先回りして、それを開ける。しかし、部屋を出たところで、エレベーターが到着のベルを鳴らした。すぐに扉が開き、よたよたと看護師もどきが二人、カゴから降りてくる。
「突っ込め!」少女は言った。
優紀は頷き、ストレッチャーを力一杯押して看護師もどきに突進した。壁とストレッチャーに挟まれ、看護師もどきは、揃ってぎゃっと叫ぶ。ところが、衝突の反動で返されたストレッチャーに押され、優紀は尻もちを突いてしまう。
それを見た少女は、ストレッチャーの上に置いてあった優紀の松葉杖をひっ掴み、叫んだ。「立って、行って!」
優紀は必死で立ち上がり、エレベーターを背に駆けだす。しかし彼は、すぐにそれを後悔した。
看護師もどきたちは、患者を連れていなかった。それは、彼女たちが地下での異変を知り、それに対処するために駆け付けたと考えられはしないか。そうであれば、さらに増援が来る可能性もある。そんな状況に、子供を置いて逃げ出すのは、あまりにも情けなく、卑劣だ。
優紀は頭を振って、つまらないプライドを振り払った。ここまで、もう何度も彼女に助けられている。今さら、それを挽回できると考えるのは、あまりにもおこがましいではないか。そもそも、平間を助けたいと言い出したのは、自分なのだ。ここで、目的を履き違えるわけにはいかない。
右に左に。優紀はストレッチャーを押しながら、覚えている限りの道筋をたどる。しかし、いつまで経っても昇りの階段にたどり着かない。どこかで、道を間違えたのだろうか。
焦燥感に、胃が縮み上がる。吐き気がこみ上げる。めまいはますます酷くなり、頭痛も出始めた。ふと足がもつれ、優紀は床に突っ伏した。ストレッチャーは、かららからと先走り、突き当たりの壁に、こつんと当たって止まった。
優紀は、床を這いながら前に進む。こんなところで倒れるわけには行かない。なんとしても、平間を連れ帰らなければ、優紀たちを守って、怪物たちに立ち向った、あの少女に申し訳ないではないか。
そう言えば――と、今さらのように思い当たる。優紀はまだ、彼女の名前を聞いていなかった。次に会った時は、忘れずに聞き出さねば。そして、もう一度、礼を言おう。何か、彼女が好きなものを買ってあげるのも、悪くない。しかし、親御さんを通さずに、そう言うことをするのは、いささか体裁が悪くないか。場合によれば、事案として通報されかねない行為だ。とは言え、彼女が深夜にベッドを抜け出し、院内を探検して回ったことを告げ口するのは、もっと卑劣な行為に思えた。
何事にも誠実であることは、優紀にとって大切な信条だ。しかし、重要なのは、誰に対して誠実であるかだ。世間体、大人の良識? 答えは、はっきりしていた。
少女との再会を思いながら、優紀は意識が途切れるに任せた。