マヨナカノショウジョ
そんなわけで、その日の深夜。とっくに消灯時間を過ぎているから、読書灯を頼りに、こっそり仕事の続きを進めていた優紀は、病室の扉が前触れもなく開かれ、件の女の子が飛び込んでくるのを見て、二重の意味で驚いた。よもや、平間の話が本当だったとは思いもよらなかったし、ぺたぺたと裸足で歩く彼女は、明らかに幽霊や妖怪の類には見えなかったからだ。年のころは、おそらくみのりと変わりない。いや、まてよと優紀は訂正する。みのりは見た目が小学生でも、実年齢は十三歳。つまり、この子はおそらく、十歳かそこら。
「君は――」
優紀が口を開きかけると、女の子は険しい表情を浮かべ、人差し指を唇に当てながら扉を閉めた。次いで、彼女は病室をぐるりと見回してから、出入口脇の洗面台に目を止める。そこには、優紀の同僚が見舞いの折に持ってきた、プリザーブドフラワーが飾られていたが、少女は花をゴミ箱に打ち捨てると、重たいガラスの花瓶だけを手に取り、洗面台と真向かいにあるクローゼットに身を隠した。
一連の様子をぽかんと眺めていた優紀だが、ふと我に返り、ナースコールを手に取った。看護師を呼んで、乱入してきた不審な女児を、さっさと連れて行ってもらわなければならない。しかし、ボタンを押す指は、動かなかった。少女の見せた表情が、どうにも気になったのだ。あれは、夜の病院を探検する無邪気な子供の顔ではなかった。何か、事情があるのではないか。それを聞かず、ただ煩わしいと言う理由だけで、追っ払うのはいかがなものか。
再び、病室の扉が開いた。そこに立つ人影を見て、優紀は凍り付いた。
入って来たのは看護師だった。
いや、看護師の服を着た、何かだった。
それは、よたよたと奇妙な足取りで病室に入って来るなり、言った。
「け、け、けけん、おん、の、じじじかん、でえええす」
若い女の声だった。しかし、彼女の体形はどうにも奇妙だ。ボディビルダーのような上半身の上には、小さな頭がぽつりと乗っている。両手両足の長さがちぐはぐで、右足のつま先が後ろを向いており、まるで小さな子供が、複数の人形をばらばらにして、適当につなぎ合わせたかのようだ。そして、優紀の印象を裏付けるように、顔には十文字の大きな傷があり、四つに分かたれた部品は、それぞれ他人の顔が黒い縫合糸で縫い合わされてあった。
「けん、け、けんおおおん」
看護師もどきは叫んだ。だが、その手にあるものは体温計などではなく、注射器だった。優紀は、ベッドの脇にあった松葉杖を手に取り、武器のように構えた。しかし怪物は、そんなことなど気にする様子もなく、よたよたと迫って来る。
不意に、クローゼットが開き、先ほどの少女が飛び出した。彼女は怪物の膝裏を蹴りつけ、怪物はバランスを崩して床に突っ伏す。そうして、少女は怪物の背中へ馬乗りになり、手に持った花瓶を、ためらいもなくその後頭部に振り下ろした。ぐしゃりと湿った音が病室に響き、怪物はしばらくびくびくと痙攣をおこしてから、ついには動かなくなった。
目の前で為された暴力に、優紀は、ただ唖然とするばかりだった。およそ、現実感と言うものがない。幼気な少女が、怪物を殴り殺すなど、優紀の知る現実には、到底、あり得るはずもなかったからだ。しかし、事実が頭へ染み渡るにつれ、吐き気にも似た恐怖がじわじわと湧き上がる。
「やった」女の子は言って、ふうと大きなため息を落とす。そうして、優紀に満面の笑顔を向けた。「やっと、一人守れた!」
それは、あまりにも晴れやかな笑顔だったから、この謎の少女に対する恐怖と、暴力に対する嫌悪感に、ひとまず蓋を出来るくらいの好奇心がわいてきた。
「守る?」優紀はたずねた。
少女は立ち上がり、手にした花瓶にちらりと目を落とす。明らかに、頭骨が砕けるほど強く殴打したにも関わらず、それに血液は付着していない。代わりに、黄色く透明な漿液が滴り落ちている。少女は鼻に皺を寄せ、花瓶を洗面台に置くと、手を洗ってから優紀のベッドの端へ腰を下ろした。
「こいつらは時々、こうやって入院している人を捕まえて、地下へ連れて行くの。何をやっているのか、よくわからないんだけど、きっと悪いことだと思うから、なんとか止めたくって」
少女の言うことは、どうにも要領がつかめない。だが、それこそが、優紀の病室へ現れた時に見せた、彼女の表情が示す、理由であることはわかる。つまり、この少女にとって、優紀は守られるべき存在で、この奇妙な事態においては、まったく頼りにならないとみなされていることになる。それは、大人としての矜持を大いに傷付けられる事実であるが、優紀はすぐに、彼女がそうしたわけを理解した。
「でも」少女は優紀のベッドの上にある、ナースコールに目を向けた。「みんなすぐに、私のことを追っ払おうとするんだもの」
「そりゃあ、夜中に知らない女の子が、部屋に入ってきたら、普通はそうするよ」
「だね」少女は、優紀の指摘をあっさり認めた。「でも、おじさんは、なんでそうしなかったの?」
優紀は説明しようと口を開きかけるが、「あ、わかった」と言って、少女はしかめっ面を見せた。「私に、エッチなことをしようと思った?」
「俺は、そう言う趣味ないから」優紀は、急いで言った。
「そうなの?」
「もちろん」
「じゃあ、なんで?」
「いや。部屋に入って来た時、なんだか思い詰めてる風だったから、事情くらいは聞いとかなきゃと思って」
少女は驚いた様子で目を見開き、束の間を置いて、にっと白い歯を見せた。「ありがとう、お兄さん」
不覚にも、可愛いと思った。ロリコン趣味はないと言った、舌の根も乾かぬうちに、だ。いや、そもそも、みのりを好ましく思った時点で、気付いてしかるべきだった。そうか、俺はロリコンだったのかと、少なからぬショックを受ける。
少女が、怪訝そうにこちらを見ていた。その眼差しを見て、優紀は思い直した。この感情は、単に「あー、俺にもこんな娘がいたらなあ」と言う、健全な父性愛の類に違いない。ともかく優紀は、良識ある成人男性を取り繕うことにした。
「こちらこそ、って言った方がいいのかな」床の上に突っ伏す怪物の死体に目を落とす。「こんな化け物が、現実にいるとは思わなかった」
「でも、いる」
優紀は頷く。目の前にある以上、認めざるを得ない。ふと、死体の顔の下から、何か白っぽいものが這い出して来るのが見えた。読書灯の明かりを向けると、それは大人の親指ほどの、芋虫のような生き物だった。怖気を覚えた優紀は、手にした松葉杖の先で、その奇妙な生き物を突き潰した。
「なんだ、これ」
優紀の問いに、少女は首を振るばかりだった。
「一つ、提案があるんだけど」と、優紀。
「なに?」少女は首を傾げる。
「病院の人に、これを見せれば、何か手を打ってくれるんじゃないかな?」
しかし、少女は首を振る。
「どうして?」
「無駄だから」
「試したことがあるってこと?」
少女は優紀の問いに答えず、自分の膝のあたりに視線を落とし、何やら考えこんだ。そうして、ずいぶん経ってから顔を上げ、口を開いた。「見たらわかるよ」
少女はベッドから飛び降り、優紀についてくるよう身振りで示した。優紀は松葉杖を手にして、少し迷ってから、裸足のままベッドを抜け出す。怪物の死体を踏まないよう、慎重に歩き、少女に続いて病室を出た途端、すぐに異常に気付いた。
そこは、優紀がよく知っている病院の廊下だったが、かすかな硫黄臭を含む空気は、ねばりつくように重く、生温かかった。少し離れた場所にあるナース・ステーションは、照明が落とされ人の気配がない。そして、薄暗い廊下のずっと向こうに見える、いくつかの人影は、優紀の部屋でこと切れた怪物と、そっくり同じ動きをしていた。
あの怪物の仲間が、こうして堂々と歩き回っているとするなら、病院に助けを求めても無駄だと言う、少女の言い分は、もっともだった。
危険を覚え、病室へ戻ろうと振り返ると、その扉には、紙片れがセロハンテープでぞんざいに張り付けられていた。はがきほどのその紙には、アルファベットと数字が、マーカーペンで書きつけられている。
「なんだ、これ?」
「目印」と、少女は言う。「あいつらが、地下へ連れて行く人の部屋には、必ずこれが貼ってあるの」
なんとはなしに、隣の平間の部屋を見て、優紀はぎょっとする。そこにも、『目印』があった。優紀は素早く少女を見た。「この部屋の人は?」
少女は床に視線を落とし、小さく首を振った。優紀は、ノックもせずに平間の病室の扉を開いた。中は空っぽだった。すでに、地下へ連れて行かれたと言うことか。
深夜に謎の少女を見たと言う、東と田中は、その翌日に急変している。談話室で、その話を聞いたとき、優紀は、この目の前の少女が、呪いや霊障のような、何か得体の知れない方法で、悪さを働いたためだと考えていた。しかし彼女は、むしろ彼らを怪異から救おうとしたのであり、彼らの不調を招いたのは、おそらくこの病院を跋扈し、入院患者を地下へ連れ去ると言う怪物たちの仕業なのだろう。
優紀の脳裏に、みのりの笑顔が浮かんだ。もし平間が、東や田中と同じように急変したとなれば、彼女はひどく悲しむに違いない。
「それは、困る」優紀は、ぽつりとつぶやいた。
「なにが?」少女が怪訝そうにたずねてくる。
「先生は――この部屋の人のことだけど、俺の友だちなんだ」得体の知れない怪物相手に、何が出来るかはわからないが、このまま捨て置けなかった。「なんとか助けられないか、やってみるよ」
「バカなの?」少女は眉を吊り上げた。「せっかく助けたのに」
「うん。それは、本当にありがとう。でも、友だちを見捨てるわけにはいかないから」
優紀は言って、階段へ向かった。足の具合を考えれば、エレベーターに乗りたいところだが、扉が開いて怪物と鉢合わせるのは、できれば避けたい。
少女が小走りでやってきて、優紀の前に回り込んだ。「案内する。きっと、一人じゃいけない」
そんな馬鹿なと思いながらも、彼女の真剣な様子を見て、優紀は頷いていた。