アヤシイウワサ
優紀は、個室を選ぶという英断を下した自分を、胸の内でほめたたえた。ネット完備、テレビは見放題、冷蔵庫も使い放題、シャワー、トイレ、洗面台付き。彼にあてがわれた病室は、少々古びてはいるものの、ビジネスホテルと遜色のない設備が整えられている。もちろん、それなりの出費になるが、他の患者のいびきなどに悩まされる心配がないだけで、じゅうぶんお釣りが来た。
退院まで、二週間。これで、じっくり療養に専念できる――と、なればよかったのだが、生憎と零細企業勤めの悲しい身分。見舞いに来た上司が病室にネット環境があることを知り、それならテレワーク勤務ができるでしょうと、ノートパソコンを置いて行ったのは、手術の翌日。かくして病室はオフィスとなり、優紀は病床にあってなお、労働に勤しむ羽目になった。
まあ、入院の手続きやら保証人やらで、あれこれ手を尽くしてくれた会社への恩返しだと思えば、それほど腹も立たない。とは言え、こんな仕打ちを許容してしまう社畜っぷりが災いし、二十七歳になる今まで仕事漬けの毎日で、ろくな出会いもなく恋人いない歴を積み重ねているのも事実。せめて自宅でも会社でもない、この特別な環境で、美人看護師などと、お近付きになれればめっけものである。それが、浅薄な期待であることは、重々承知の上だとしても。
優紀は、キーボードを叩く手を止め、ベッドの上で大きく伸びをした。時計を見れば、とっくに午後五時半を回っている。担当医師と会社で取り交わした約束は、午後から四時間のみの勤務となっていた。コーヒーで一服しようと、松葉杖を手に食堂兼談話室へと向かう。
「やあ、優紀君。お疲れさま」
窓際のカウンター席で一人、禁煙パイプを咥える老爺が、にこやかに手を振ってくる。隣室の平間氏だ。長い白髪を垂らし、仙人のような見た目だが、元市議会議員と聞いている。優紀は「こんにちは、先生」と挨拶を返し、自販機でブラックコーヒーを買ってから、氏の隣に腰を降ろす。窓の外は、まだ明るい。眼下には、広葉樹が植えられて、ちょっとした林のようになっている中庭があり、そこからセミの合唱が、分厚いガラス越しに響いてくる。
「外は暑いんでしょうね」
優紀がつぶやくと、平間は天井にあるエアコンの吹き出し口に、ちらりと目をやった。「中もじゅうぶん暑いがね」
確かに、病院内の空調はゆるい。特に気温が高い昼間などは、多少、汗ばむほどだ。
「もっとこう、キンキンに冷やして欲しいもんだ」と、平間は続ける。
「さすがに、それは身体に悪いんじゃないですか。俺たち、一応は病人なわけだし?」
「君は病人じゃなくて怪我人だろう。単車の事故だっけ?」
優紀は頷く。通勤途中、交差点を直進していたところへ、右折車に突っ込まれたのだ。おかげで、車のボンネットを転がると言う、アクションスターのような体験を得ることが出来た。ただし、その代償は右足首の骨折である。
「すると昨日、見舞いに来てた姉ちゃんが、優紀君をはねた相手ってことか」
「はい……って、なんで知ってるんですか」
「たまたまだよ」平間はにやりと歯を見せた。「一階のコンビニで買い物した後、エレベータに乗り合わせてね。菓子折り持って、なにやら神妙な顔で君の病室に入っていくから、気になってたのさ」
「てっきり、ストーキングされてるのかと思いました」
「恋人もいないアラサー男を眺めて、何が楽しいってんだ」平間は鼻で笑った。
優紀はぎょっとした。「恋人がいるとかいないとか、話した覚えがないんですけど?」
「そりゃあ君、簡単な推理だよ。君が入院して、真っ先に見舞いに来たのが会社の連中だったからね。もし恋人がいるなら、せめて手術の日くらいには顔を出してるだろ。違うかね?」
ぐうの音も出ない。
「で?」と、平間は続ける。「もちろん、口説いたんだろうね」
優紀は、飲みかけたコーヒーを吹き出しそうになった。軽くむせながら、急いで言う。「まさか」
平間は首を振って、小さくため息をついた。「きれいな姉ちゃんだったのに、もったいない。大体、あっちは君に申し訳ないって気持ちがあるんだから、多少の無理だって聞き入れてくれただろうに」
「相手の負い目に、つけ込むようなマネはできませんよ」
「負い目でもアタリメでも、チャンスはチャンスだろ。そんなだから、恋人の一人もできないんだ」
「いちいち正論すぎて、ごもっともとしか言えません」
平間は短く笑った。「だったら、うちの姪っ子でも紹介してやろうか」
「え、いいんですか?」
老爺は入院着のポケットからスマートフォンを取り出し、一枚の写真を開いて見せた。
「あの……」写真を見て、優紀は戸惑った。
「どうだ、可愛いだろ?」平間は自慢げに言う。
「はい。それは、そうですけど」優紀は、まったくの世辞抜きで同意した。しかし、写真に写っているのは、セーラー服を着たおかっぱ頭の少女だ。「ちょっと若すぎませんか?」
優紀は、もっともな疑問を投げ掛けた。平間の年齢は知らないが、少なくとも六十は超えているだろう。その姪と言うから、てっきり自分と同じくらいの年代かと思っていたのだが。
「正確に言えば、大姪でね。今年で十四になる」
つまり、まだ十三歳。
「犯罪です」
平間は大笑いした。「いや、すまんすまん。ちょっと自慢したかっただけだから、本気にしないでくれ」
もちろん、本気になどしていない。してはいないが、些か残念に思う気持ちも否めなかった。
「もうすぐ、見舞いに来ると連絡があってね」と、平間。「晩御飯を一緒に食べたいと言うんだ。君も一緒にどうだい?」
「お邪魔にならないなら、是非」優紀は快諾した。
病室で一人、テレビやらパソコンの画面を眺めながら病院食をつつくのは、なかなかにわびしいものがある。断る理由はない。
ほどなく、廊下から夕食の香りが漂い始め、次いでコンビニのレジ袋を手にした件の大姪が、談話室に入って来た。カレンダー的には夏休み後半なので、当然のことながらセーラー服ではない。代わりに淡いピンク色のワンピースを着ているせいで、彼女はどうにも小学生にしか見えなかった。
もう一人、背の高い女性が彼女に続く。長い髪をぞんざいに頭の後ろでくくり、平間と同じように、禁煙パイプを口の端に加えている。
「やあ、伯父さん」と、背の高い女性が言った。おかっぱの少女も、ぺこりと頭を下げ、訝しげな目を優紀に向けてくる。
「でかい方は、本当の姪の淑子だ。可愛い方は、その娘のみのり」と、平間。
「はいはい。どうせ、アラフォーのおばちゃんは、可愛くありませんよーだ」淑子は、わざわざ禁煙パイプを外し、べっと舌を見せた。「で、そっちのお兄さんは?」
「院友の優紀君だ」平間は紹介した。
「なんですか、その院友って」と、優紀。
「病院友だちの略さ。病友だと、なんだか嫌な感じだろう?」
どっちもどっちのように思えるが、ひとまず無視して淑子に挨拶する。「松原優紀です」
「どもども、間ノ瀬淑子です。よろしく」淑子は、にっと白い歯を見せて応じてから、肘で娘の肩のあたりを突いた。
「みのりです。おじいちゃんがお世話になってます」少女は顔を赤くして、ぺこりと頭を下げた。
いえ、こちらこそなどと恐縮して返すと、みのりは再び、ぺこぺこ頭を下げる。
「さあて」と、平間。「あとは若いのに任せて、年寄りは退散しますかな」
「ええ、そうですね。ホント、よさそうな方で安心しましたわ」おほほと笑って淑子が返す。
「いや、お見合いじゃないんですから」優紀は思わずツッコんだ。
「おみ……!」みのりは絶句する。その顔はもう、本当に火を噴きそうなくらいに赤い。
なるほど、可愛い――と、優紀は納得する。母親と大伯父が、この少女をからかう理由が、よくわかった。
「松原さーん」談話室の入口から、若い女性の看護師が顔を覗かせる。「あ、いたいた。今日は、こっちで食べるんですか?」
「あ、はい。お願いします」
「私が取りに行って来るよ。伯父さんの分もね」淑子はひらひらと手を振って、看護師に続き談話室を出て行く。
「それじゃあ、僕たちもテーブルの方へ移ろうか」平間が言った。
みのりはレジ袋をテーブルに置いて、大伯父が立ち上がるのを手伝う。優紀も、松葉杖にすがって立ち上がろうとすると、少女は少し迷うような表情を見せた。病身の大伯父と、足の不自由な優紀の、どちらがより介助を必要としているか、考えてしまったのだろう。優紀は笑みを一つくれてから、声に出さず口の形で「だいじょうぶ」と伝える。生真面目な顔でみのりはうなずき、平間をテーブル席の椅子に座らせた。
優紀が、平間の斜隣に腰を落ち着けると、器用に二つのトレーを持った淑子が戻って来る。彼女は慣れた手付きで、それを大伯父と優紀の前に置いた。
「レストランで働いてるんですか?」優紀はたずねる。
「そんな、大したもんじゃないよ」淑子は優紀の真向かいに座り、にっと歯を見せる。「おふくろと一緒に定食屋をやってるんだ。退院したら、食べに来てよ。サービスするからさ?」
テーブルは四人掛けだったので、必然的にみのりは優紀の斜隣になった。少女はレジ袋から弁当のパックとお茶のペットボトルを取り出し、それぞれ母親と自分の前に置く。
食事が始まると、平間と淑子はあれやこれやと会話を始めた。内容はもっぱら、平間の妹――つまり、淑子の母親のことだった。皿を突きながら、なんとはなしに聞いていると、彼女は淑子の店で留守番をしているらしい。
「献立、違うんですね」ふと、みのりが声を掛けてくる。
一瞬、なんのことかと思った優紀だが、すぐに自分と平間の食事の内容だと気付く。「病気の種類やアレルギーで、食べなきゃいけないものや、食べてはいけないものが患者ごとに違うからね」
「あ、そっか」みのりは頷く。「前に来たときは、田中さんと東さんがいて、どっちもおじいちゃんと同じのを食べてたんです」
この談話室で、平間とよくおしゃべりをしていた入院患者の名前だった。平間の言を借りるなら、院友と言うやつだ。
「俺のがアジフライなのは、骨折が治るようにカルシウムをしっかりとれってことなんだろうけど」優紀は平間の皿をちらりと見て、小さくため息をついた。なんと、サイコロステーキだった。病院食とは思えない豪華さである。「いいなあ、肉」
みのりはくすくす笑った。「私のから揚げ、一個あげましょうか?」
「え、悪いよ」
「遠慮しないでください」みのりは箸をひっくり返し、から揚げを一個つまむと、優紀の皿に置いた。
なんて優しい子だろう。「ありがとう、みのりちゃん」
「どういたしまして」みのりは、照れ照れと笑った。
「餌付けか」淑子が言った。
「うむ」平間が頷く。「猫にまたたび、泣く子に乳房、若い男にゃから揚げをって昔から言うからね」
そんなことわざ、聞いたこともない。
みのりは、野暮な母親と大伯父を、じろりと睨みつけてから自分の食事に戻った。
「そう言や、今日は田中さんと東さん、いないんだね?」淑子は辺りを見回して言う。「てか、私らしかいないし」
「東は、一昨日から集中治療室だ。田中も調子を崩して、昨日から別の病棟へ移された」
「なにそれ」淑子は眉をひそめた。「この病院、呪われてるんじゃないの?」
「この病棟は、建てられてから半世紀になるんだ。怪異の一つや二つ、あっても不思議じゃないさ」平間は平然と言った。年を取ると、この手のことに耐性が付くのだろうか。
「まさか、他の入院患者が少ないのも?」
「いや」平間は首を振る。「さっきも言ったように、これは古びた病棟だから、近々に建て替えの計画があってね。残ってるのが、僕や優紀君みたいな、入院期間が短い患者ばかりなんだ」
「なんだか、普通の理由が出てきたぞ」淑子は不満げだ。
「ふむ」平間はサイコロステーキを一つ頬張り、しばらくもぐもぐやってから口を開いた。「看護師たちから、妙な話を仕入れているんだが、聞くかね?」
「聞かない理由はないね」
平間は一つ頷き、話し出した。「東の容態が変わる前日の夜中、ナースコールがあって駆けつけると、彼は見知らぬ女の子が、病室に入ってきたと言う。しかし、この病棟に子供の入院患者はいないし、そもそも夜中に病室から子供が消えれば、普通は騒ぎになるものだ。ところが、どこに問い合わせても、そんな報せない。看護師がそのことを説明すると、東は夢でも見たのかも知れんと言って、騒ぎを謝ったそうだ」
「まさかの夢オチ?」淑子はあからさまに失望して見せた。
「いや、まだ続きがある」平間は言う。「僕が、その話を田中にすると、彼はひどく驚いてね。聞けば、やはり見知らぬ女の子が、夜中に病室へ入って来たと言うんだ。そうして彼は、その日の夕方にすっかり調子を崩して、長期の入院患者が集められてる病棟へ移されたと言うわけさ」
「ねえ」淑子は、眉間に皺を寄せて言った。「それ、本当に患者だったの?」
「田中が言うには、入院着を着ていたらしいが、あるいは――」
「あるいは?」淑子は、たずねた。
すると平間は、ひどく無表情に答えた。「人間じゃあないのかも知れんな」
みのりの手から、割りばしがころりと落ちた。少しばかり青ざめているところを見ると、どうやら怪談の類は苦手な口らしい。
「俄然、面白くなってきたね」淑子は、わくわくした様子で言った。「それで――」
「もう、それくらいでいいじゃないですか」先を促そうとする淑子を、優紀はやんわりと遮った。そして、平間に目を向ける。「みのりちゃんが怖がって、お見舞いに来てくれなくなったら困るでしょう?」
「困る」平間はしかめっ面で頷き、苦笑いを大姪に向けた。「怖がらせてすまなかったな」
みのりは首を振り、落とした箸を手に取って食事を再開した。少女は、ちらりと優紀に目を向けてくる。感謝してくれているのだろうか。そうだといいな――と、思いながらも、彼女の口元についた、ごはん粒が気になってしようがない。
ふと、淑子が手を伸ばし、それをつまみとってから優紀を見て、にやりと笑う。「食べる?」
みのりが顔を真っ赤にして、ごはん粒を奪い返し、口の中に放り込んだ。謎の女の子の話は、すっかり優紀の頭の中から、消え去っていた。