蛇足 野苺子爵様の帰還 その3
緑ケ原伯爵家のタウンハウスは、緑ケ原という歴史のある伯爵家の名前とその財力にしてはこじんまりとした佇まいのものである。
キリアムは厩に自分の馬を繋ぐと、久しぶりだと考えながらその家の玄関をくぐった。
彼がこの屋敷に連れ込まれたのは、十歳になったばかりの幼い頃である。
貧民街の裏路地で言葉通りに捕獲された。
しかし、彼を捕まえた捕獲者の立ち居振る舞いによって自分への今すぐの害はなく、また、相手が着ている服や持ち物から自分に仕事を依頼する男達よりも数段以上上の人間だと見て取っていた。
彼はそこでその状態から逃げ出すどころか、状況を見極めようと抵抗をあっさりと収めた。
「あら、ふふ。君はまだまだ子供だね。こういう場合はもう少し抵抗して暴れるものだよ。」
金と緑に輝くという、猫そのもののような瞳を煌かせた捕獲者は、くすくす笑いながらキリアムの足首に隠してあった小型ナイフを素早く抜き去り、そして、はい、となぜか再び返してきた。
「いいかな。こういう場合は少しだけでも反発して見せるものだよ。武器を持っていないから最後の試みって思わせる。それからね、押さえつけられたら子供らしくがっくりと落ち込んで見せよう。それだけで相手は君に油断をする。」
「で、俺にナイフを返した。模範演技のやり直しって事か?」
「いいや。君は怖くなったでしょう。僕が。逃げたい君にナイフを返したんだ。君は僕にそのナイフを使って抵抗する、という手段が消えたと考えているでしょう。これを使ったら、いや、これを使ってもいいよと僕が君に言えるその余裕はどこから来るんだろうって、君は今考えているのじゃないかな?」
「いいや。あんたは俺の依頼人連中よりも上等そうだ。あいつらの手先でいるよりもあんたに鞍替えした方が旨味がありそうだなって、それだけだよ。いいぜ、お望みの人間を消してやる。ただし、あんたの上等な知り合いに近づくには、それなりの衣服や動き回れる金が必要だ。用意できるか?」
「うん。出来る。でもね、服装を整えても言葉遣いでその場にそぐわないものと簡単に見なされてしまう。少し、教育をしてあげるよ。僕は伯爵だ。君が使える人間なら、子爵の暮らしも与えてあげよう。」
キリアムはそこまで回想して舌打ちをした。
緑ヶ丘伯爵は、一年後ぐらいにキリアムに合格と紋章付きの指輪を手渡してきたのである。
喜ぶよりも暗殺用道具なのかとキリアムは指輪を慎重に見分し、指輪には緑ケ原伯爵家で見覚えがありすぎるモチーフが刻まれている事を確認しただけだった。
向かい合わせで羽を開く小型フィンチの間にある大きな苺と苺の白い花。
緑ケ原伯爵家に子供が出来たら与えられる野苺子爵の紋章だ。
「え、これって普通の紋章指輪ですよね。サインの後にこれで印を押すっていう、大事な紋章印、では。確かに社交界に紛れ込んでターゲットを殺すには小物一つ大事でしょうけれど、こんなのをつけていたらあなたが黒幕って一目で。」
「うん。殺したい奴は社交界に溢れんばかりにいるけど、君が殺さなくていいからそこは心配しないで。君は普通に僕の弟で子爵様だからってこと。」
「はい?」
「約束したでしょう。貴族としての振る舞いが出来る様になったら、子爵にしてあげるって。君は今日から野苺子爵様だ!次代の緑ケ原伯爵だ!僕はもう親族から繁殖を薦められる事も無く、自由に生きることが出来るのだ!」
アレン・ビリード伯爵は本気でキリアムを子爵にしてしまったのだ。
キリアムはそれまでアレンに暗殺者に育てられていると思っていたが、アレンは普通に弟の教育をしていただけと笑顔で答えた。
「君は大事な弟だもの。見つけ出して家に戻すのは当たり前でしょう。」
「僕の母は売春婦です。あなたのお父上がそんな場末の娼婦の客になるとは考え難いのですが。」
「でも君と僕は顔がそっくり。僕が弟だって決めたのだから君は弟だよ。」
「では、僕を暗殺者に仕立てようなどと少しもお考えで無かった。」
「当り前でしょう。お考えの訳ないよ。」
キリアムはハハハと貴族の子弟風な笑い声をあげると、アレンと自分の間にあったティーテーブルをアレンに向かって蹴り倒した。
「暗殺者の精神的教育だからと思って虫入りの飯でも上品に口にしてやっていましたが、弟?弟だと?僕は虫が大嫌いなんだあああああ!」
キリアムは叫んだその足で王立自然博物館へ逃げ込んでいた。
キリアム十一歳、初めての家出である。
過去にあった大貴族の大邸宅を博物館にしただけあり、彼はそこに三週間隠れ住むことに成功した。
再びキリアムは舌打ちをした。
「くっそ、あの野郎は僕が隠れている事を知ったうえで博物館で昆虫博覧会を催しやがったんだよな。」
次々と搬入される異国の毒々しい虫。
時々甲高い癇に障るアレンの声が、逃がしちゃった、と楽しそうに何度も館内で響いたことで、キリアムは博物館という隠れ家を捨てることを決意した。
そうして、彼は博物館から出たところで再びの捕獲をされたのだ。
執事のジュードによって。
「ぼっちゃま。わたくしめが坊ちゃまの食事だけは虫抜きに作りますから、ですから、屋敷に戻っていただけますでしょうか?」
キリアムは頭を上下するしかなかった。
実際、緑ケ原伯爵家の食事のすべてが虫料理だったわけでもなく、温かい食事と温かい部屋、そして、毎日の風呂、という環境に加えて、実はキリアムが本当の意味で欲していたもの、図書館にひしめく蔵書という知識を得る事が逃げた一週間で恋しく思ってしまった自分を否定できないのである。
博物館の蔵書も素晴らしいものでもあったのだが、彼は伯爵家の図書館で猫のように転がって本を読みたいと切望しているのでもある。
「まだ読んでいない本があったから、……帰ります。」
「お帰りなさいませ。野苺子爵様。」
あの日のジュードは彼にそういって微笑んだが、彼は白鳩家にアレンと一緒に放り込んでいたのでいるはずは無い。
キリアムは次に会ったらジュードを労わろうと珍しくも優しい気持ちになりながらも玄関ドアを開けた。
そして、ジュードにしか見えない十数人がずらりと並んで彼を待ち受ける光景を目にする事となった。
「お帰りなさいませ、野苺子爵様!」
彼は大きく溜息をつくと、召使全員に子爵として命を下した。
「そのくだらない扮装を今すぐに止めなさい!僕がこの家にいる限り、僕がルールで王様です!」
キリアムは自分の帰還を狂喜乱舞して受け入れる召使達に笑顔を見せると、このタウンハウスに立った十歳に気持ちが戻っていた。
本当は不安であった。
ここに連れ込まれるまで自分に色々と話しかけてきた朗らかすぎる男に安心迄感じていた彼は、豪華すぎる館の内部に圧倒されてしまった、いや、男との完全なる差を知ることで、これからも男と自分が完全なる主人と使用人でしか無いのだと落ち込んだのだ。
初めて使い捨てにされる自分という立場に対して、彼は心細さを感じてしまったのだと言ってもよい。
彼は生まれて初めて足が竦んで動けなくなっていたのだ。
しかし、自分本位な伯爵様は動けないキリアムなど気付いてもいないのか、館にひょいっと入り込むや猫のように階段を数段駆け上がった。
そして、階段の真ん中で足を止めてキリアムに振り向いて来たのである。
「お帰り、キリアム。早くおいで。君の部屋に案内する。」
「僕は兄の部屋を使います。」
ジュードにしか見えない一人がキリアムの前を塞いだ。
「では、虫を片付けますので、しばしお待ちを。」
「生きているのでしょう。いいよ、そのままで。あいつは虫の習性を知っているから、実はあいつの部屋こそ害虫がいないって知っていた、かな?」
「さすが子爵様です。ですが、伯爵の最近の好みは大ムカデですよ。」
「ふふ。ムカデですか。あの野郎。いつもの僕の部屋を使います。」
「伯爵様のご指示でいつでもお使いできるように準備しておりますから、どうぞ。」




