三十四 明日は死んでしまうのかもしれない
俺はバスルームの鏡に映した自分の全身を見回した。
戦士という、下級民特有の筋肉質の体。
兵士としての勲章どころか、農奴時代の鞭の痕ばかりが残るという惨めな体。
「はあ、あんなに美しい姫君に対して、俺はこんな、か。」
大きく溜息を吐いてから、バスルームのタオルの脇に置いてあったガウンを手に取った。
姫君に着せずに自分だけが羽織るとは卑怯者だと考えながらも、俺は自分の過去を完全に知られたくないという思いなのである。
口で過去を語るぐらいはいつでもできる。
だが、実情を知られて同情を寄せられたら、俺はそこで終わりだ。
俺は妻には惨めな男と哀れまれたくはないという、くだらないプライドだけの男なのである。
それでも、彼女に哀れまれて慰められたい自分も自分の中にいる。
そうだ。
俺は完全に彼女に心を捧げてしまっているからこそ、彼女に愛されるどころか同情だけしか返してもらえない状態になることに脅えているのだ。
そうだ。
セレニアは俺を愛していなくても一生を捧げてくれるであろう。
幸せでなくとも俺に笑ってくれるだろう。
俺だけが幸せかもしれないが、彼女が不幸でしかない人生だったとしたら、俺はこの世に生きている価値などあるのだろうか。
「くしゅん!」
セレニアのくしゃみで俺ははっとした。
すぐに戻ると言って、俺はどれだけバスルームに籠っていた?
「くしゅん!」
「いけない!」
俺は今までの思考など放り投げ、とにかく妻の元へと駆けだした。
駆け出して、ベッドの前に立ち、俺は彼女の悪辣な表情を初めて目にした。
くしゃみは大嘘だと一目でわかる、俺を呼び出すのに成功したという、とっても嬉しそうな笑顔だ。
俺はその笑顔だけが嬉しくて、その笑顔の彼女を抱きしめたくて、けれど、俺の足は床に貼り付けられたかのように一歩も動かず、俺はベッドの中で毛布にくるまって微笑んでいる妻を眺めるだけだった。
「あなた、ここに来て。寒いの。」
俺はガウンを床に落とした。
さあ、見てくれ。
俺の足は怖くて動かないんだ。
お願いだから俺を動かしてくれ。
彼女は大きく目を見開き、俺の傷だらけの身体をぐるりと見回して、大きく息を吸い込むと両手で口元を覆った。
なんて、かわいそう、かな。
「まあ。想像通り。神様みたいな素敵な体。なんてあなたは美しいの。」
俺は自然に笑い出していて、そして、俺の足は俺の女神の方へと自然に動き出していた。
一歩、二歩、三歩、四歩。
いつもの俺にしては歩幅が狭い。
ようやく妻の元に辿り着き、俺は彼女を引き寄せた。
「まあ。あなたはこんなに冷たくなってしまって。」
「俺は臆病者なんだ。いや、臆病者になってしまった。君に嫌われたくないとそればかりだ。臆病になったのは君のせいだ。」
「私もよ。私はあなたに守られたくて甘やかされたくて、ずっとあなたの腕の中にいたいって思うようになってしまった。あなたのせいね。」
彼女は言葉通りに俺の腕の中に入って、そして俺の裸の胸に頬ずりをしてきた。
そこだけ温かく、いや、彼女の行為で全身に血が巡り始め、俺は両手で彼女の顔を包むようにして彼女の顔を自分に向けた。
「愛しているわ。」
「先に言わないでくれ。愛している。一生愛している。」
俺は彼女のふっくらとした唇に自分の唇を重ねた。
ああ、明日は幸せで俺は死んでしまっているかもしれない。




