三十二、白鳩子爵家
白鳩子爵家は現在の子爵様、エーデンの父上であるマーシュだが、彼が新し物好きの為か自宅内の設備は王都でも最新のものとなっている。
蛇口をひねれば温かい湯が出てくる風呂場やスイッチを入れれば点くという電灯、そしてガスを利用した台所だ。
これらの最新設備によって白鳩家は働きに行きたい屋敷の上位となっており、キリアムはそこを上手にアピールして若い女中を二名雇って来た。
そしてそれだけでなく、アレンの執事までも連れて帰って来たのである。
「あの男をここに置いておくのならば、ジュードは絶対に必要です。快適が第一のジュードは、自分が嫌になると兄を上手に操作しますから。では。」
キリアムはそう言い残すと私に深々と礼をして去って行った。
アレンと同じぐらいの年齢で、銀髪のカツラを被った人形のような整った外見の男性は、キリアムの後ろ姿に素晴らしいと感嘆の声を上げた。
「素晴らしいの?」
「素晴らしいですよ。彼は邪魔な兄と私をこの家に放り込んで、豪勢な伯爵家で過ごすおつもりです。ああ、なんて悪知恵の働く素晴らしいお方なんだろう。」
私はキリアムが彼等を捨てたくなった気持ちを一瞬で理解すると、とりあえず、食事の支度と女中達の監督をジュードに任せた。
「かしこまりました。」
「ええ、かしこまって。あなたが命令を聞く相手は私よ。よろしくて。食事のオーダーを取る時は、アレンではなく絶対に私にして頂けるかしら。」
アレンの悪趣味に付き合う気力は今の私には無く、また、新婚である夫をこれ以上悩ませたくないという思いである。
「最高です。かしこまりました。願っても無い事です。」
「ありがとう。」
私は再びエーデンの部屋にと踵を返した。
廊下を歩きながら、エーデンと彼女の娘達のこれからの事を考えた。
彼女達は早く生まれ過ぎたがために小さすぎて体力も無く、部屋を暖めて出来る限り母親の胎内に近い状態を保つようにしているが、彼女達が生き延びられるのかはここ数日が勝負なのだという。
それなのに、白鳩家の愛情深すぎる家族に次々と抱かれて騒がれては、彼女達はすぐに弱って死んでしまうだろう。
白鳩家におけるゴキブリの大量発生は、過去にアレンがなした事の結果でもあるのだが、アレンが煽ってのこのすさまじい状態でもある。
あの鞄の中に虫を引き寄せる薬が入っているとは思わなかった。
虫達はその薬に引き寄せられて集まり、床に敷かれた接着剤が塗られたシートに貼り付けられて絨毯のようになっている。
何も知らない家人はその状態を目にするや、悲鳴を上げて全員が逃げ出してしまったという程の気味の悪い状態でもある。
私だって逃げたいし、歩く度に足の下でクシュグジュと虫を踏み潰す感触で背中に何度も悪寒が走っているという気持ち悪さなのだ。
サクサクと虫絨毯をこともなげに歩き回り、全部は駆除できないが半数以上はこれで処分できるだろう、と言ってのけたあの魔人には怖気しか湧かない。
これで、半数しか、なの?
一枚目は片付けられて暖炉で燃やしたが、二枚目のシートにもまたごっそりと虫が貼り付いていっているのである。
もう最悪ったらない。
あんな男に惚れているとしつこく思い違いをしているバルドゥクは、やはり男性を見る目が女性と違い、万能そうで実用性の高い男にこそ魅力があると考えるのであろうか。
「うーん。」
「どうした?セレニア。君も疲れたでしょう。部屋に戻ってあのバッタ君と仲良くしてきなさいよ。新婚なんでしょう。」
「――バッタ君はあなたでしょう。」
「僕は有益なイナゴ様。彼こそ木枯らしで死んでしまうバッタ君。僕が彼と出会った時、彼は君に庭に追い出されて落ち込んでいた可哀想なバッタ君だった。君は酷いね。バッタどころか虫のいないこの季節に、バッタを持ってくるまで帰って来るなって会場から追い払ったのでしょう。意地悪だね。」
私はぎゅうと両目を閉じた。
思い返せばその通りだ。
私はアレンに馴染み過ぎていた。
真冬だろうと砂漠だろうと、アレンだったら虫を簡単に捕まえられる。
それが私には当たり前の感覚で、そして、きっと、そういった私のアレンへの慣れがバルドゥクを不安にさせていたのに違いない。
胸がときめいて抱きしめたいと初めて思った男性は、バルドゥク、あなただけなのに。
私は自分の行いを反省すると、アレンの申し出を受けることにした。
それも、かなりの感謝をしながら。
「ありがとう。アレン。あなたの言う通りよ。私は部屋に戻ります。新婚ですもの。バルドゥクとの時間も大切だわ。」
アレンは緑色なのに金色の輝きも持つ不思議な瞳をきらりとさせると、私に軽く手を振った。
「行ってらっしゃい。初夜という面倒はさっさと済ませておいで。」
私は頭の中で虫の代りにアレンを強く強く踏んづけた。




