二十八、伯爵という名の暇人
アレンは俺の説明を聞くと、うきゃあと嬉しそうに声をあげ、着の身着のままの格好で彼のタウンハウスを飛び出した。
そして、呼びに来た俺を放って一人でどこぞへと去って行ってしまったのだ。
まあ、どこぞではなく、エーデンの実家である白鳩子爵家であろうが。
俺も急いで自分の馬に戻ったが、なんと、俺の馬の前には黒づくめの執事が大きなカバンとモコモコの兎の毛皮のコートを胸に抱いて俺を待っていた。
俺よりも年上で、銀に輝く灰色の髪色をした白っぽい男だ。
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俺は数十秒前にこの男に頭を下げられながらドアを閉められたはずだと、緑ヶ丘伯爵家の玄関を振り向き、それからゆっくりと馬の前の執事を見返した。
「どうやって一瞬でそこへ。」
「……あなたが伯爵様とお話しなさっている間に、です。はい、彼の仕事鞄です。これを忘れたら意味が無いですから。コートもお渡しください。今日は雪が降りそうな程に寒いですから。」
「ああそうだねって、いや、ちょっと待ってくれ。君は俺をついさっき送り出したばかりだろう!どうやって俺よりも早くここに来れたんだ。」
「ふふ、あれは従僕のエバンズです。」
俺は驚きながらも執事と言い張る男を見直し、確かに、俺を玄関で見送った男よりも着ている上着が仕立てがよくて裾が長めのものであった。
「兄弟なのか?」
「いいえ。似ているだけです。アレン様の好みがこの顔ってだけです。」
俺は男色という人がいることを知っており、アレンはそうだったのかと一人納得をしていたのだが、アレンの執事はアレンの執事でしかなかった。
「似たような顔つきを選び、同じ髪色のカツラと化粧を施せば同じ顔に見えるものです。ふふ、人にアリの社会を模倣させたらどうなるかの実験ですよ。仕事の能率は人の個性によって阻害されていたのか、それとも、人から個性を奪う事こそ仕事への熱意や能率を下げる事になるだろうか、というアレン様の哲学的ともいえる高尚な疑問による実験です。」
「そうか。凄いな。」
俺はキリアムが家に帰りたくないという気持ちを大いに理解して、たまには彼の言うことをもっと聞いてやろうと考えながら伯爵家を後にした。
「全く。それにしてもあのキリアムがどうしてあの伯爵だけは殺さないのかね。やっぱり、あのキリアムでも兄弟の情はあったのかな。」
「あの子は伯爵になりたく無いだけだよ。」
「うわあ!どうしたんだお前。そうか、これだな、忘れ物か。」
俺は突然現れた彼に彼の鞄とコートを掲げたが、彼はコートは受け取ったが鞄の方は受け取るどころか俺に早く進めという風に顎を動かした。
俺はその人を小馬鹿にするようなそぶりに少々イラつき、自分の鬱憤を晴らすべく頭の中でアレンの葬式を数回行った。
「いいから。早く動いてよ。僕が小鳩家を知るわけは無いでしょう。」
「知らないのか?お前のタウンハウスの二倍の広さはあるぞ。子爵でしかないが、大船主で有名な大金持ちの 白 鳩家だ。」
彼はうーんと腕組みをして、それからわざとらしくぽんと手を打った。
「ああ、小鳩子爵家。思い出した。長女が駆け落ちしたあの家か。相手は身分違いの兵隊だって噂の。」
「ええ。相手は俺の親友で、兵隊を死なせないと有名な少佐です。」
俺は思わず親友を庇うように言い返していた。
イーオスは俺に文字どころか古語まで教え、貴族社会の人間達が備えなければならない教養というものを知れと、次々に俺に本を与えてくれた恩人なのだ。
アレンはふふっと微笑むと、すまなかったと俺に謝った。
俺は彼が謝った事に驚きだ。
絶対に謝らない人間だろうと俺は考えていたのである。
「セレニアに頼まれてね。親友の為に一肌脱いでくれって。そうか、あの時の小鳩家か。ははは。思い出した、思い出した。」
「あなたは何を俺の親友夫婦の為にしてくれたのですか?」
「ああ、大したことは無いよ。求婚しただけ。僕も繁殖を考えなければいけないからね。あの長女は美人だったし、いいかなって。」
「え?求婚することが駆け落ちの後押し?」
「ねぇ。酷いよねぇ、セレニアは。僕に親友を救うために求婚してくれってね。いつもの僕のままって、注文も付けてさぁ。酷いと思わない?」
俺も確かにセレニアを酷いと思ったが、セレニアが伯爵に全く恋愛心どころか魅力も感じていなかったという事実に心が幸せに満たされていた。
アレンに対して好感を抱いてしまう程に。
「ええ、妻らしいがひどい話ですね。ところであなたはどんな風にエーデンに求婚をされたので?」
「え?エーデンじゃなく、紳士クラブにいる親父さんに、だよ。最初に親父に挨拶をして、お嬢さんへのお目通りを願うのがルールでしょう。それで、その時は僕は南方の大型の甲虫に魅了されていてね、その子を連れて伺ったんだよ。もう、僕に慣れていて僕の袖の中が大好きな子でね。ふふ、すごく可愛いでしょう。」
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「でもね、クラブはあの子には大きくて温かな良い家だったからか、あの子はそこで行方不明になってね。結局、あの子は小鳩さんのポケットに入り込んで小鳩家に行っちゃってさ、もう、大騒ぎだったらしい。」
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「ふふ、一家総出で家から逃げ出して気が付いたら長女が男の所に消えていました、求婚はお受けできませんて子爵が僕に謝りに来てね、そこで求婚話はお終い。セレニアには読み通りだって褒められたけどね、嬉しくないよねぇ。」
……俺は彼の不穏当な言葉に対して聞き返したくない気持ちの方が大きかったが、どんな戦況も生き抜いてきた俺の性の方が勝ってしまった。
「すいません。二年前に全て終わったお話でしょうが、どうしても確かめておきたい事があるのでいいですか?」
アレンはいいよと嬉しそうに答え、俺は彼の機嫌の良さそうな声に少しは期待しながら質問を重ねた。
機嫌が良いという事は、彼の言う可愛いあの子と永の別れになっていないはずだ、という俺の期待だ。
「その可愛いあなたの子は、ちゃんとあなたの元に帰ることができましたか?」
「ううん。戻って来なかった。子爵はあの子を潰したとも言わなかったし、僕はあの子がまだ小鳩家で頑張っている気がするんだ。」
「そうですか。一つだけお聞かせください。南方育ちのその子は、一体どのような虫ですか?あなたからしてカブトムシなんて可愛い虫では無い気がします。」
「はははは。君は本当に見どころがあるよ。セレニアなんて、いまだにバッタとイナゴの区別がつかない残念さだからね。虫の種を詳しく知りたいという君には、僕はもう感激だよ。」
「ありがとうございます。で、その虫とは?」
「ゴキブリ!六センチくらいに大きくて、縞瑪瑙のように黒と茶色が縞になっている綺麗な可愛い子だったんだよ!」
「ははは。想像通りでしたよ。で、その子はあなたの希望的観測で生きているようにお考えなだけで、生物的にはこちらの気候や寿命で確実に死んでますよね。」
「こっちの気候に合わせてハイブリットした三代目だったの。うん、もしかしたら生きているかな。あぁ、生きていたらいいね!増えていたりして!うわあ、素敵だ。僕は小鳩家に期待で胸がいっぱいになっちゃったよ。」
アレンは嬉しそうな声を上げると、自分の馬を駆り立てて俺の目の前から竜巻のようにして消えていった。
俺は遠ざかっていく馬影を眺めながら、エーデンが無事に子供を産んだ暁には、あの素っ頓狂な伯爵とやらを抹殺すべきだと決意を胸に抱いた。
キリアムが伯爵になりたくなくても仕方が無い。
妻と俺の帰還を待つ修繕されつつある我が新居、黒曜烏伯爵家の邸内を、奴によって大量の大型ゴキブリを放される未来から死守しなければいけないのだ。




