十五、野良犬は伯爵と会う
俺はセレニアが好意を持っているらしき緑ケ原伯爵に呼び出されるや、まるで餌をもらえると期待した野良犬のような勢いで彼のタウンハウスに駆け付けたのである。
セレニアの様子からみると、彼は彼女に対して影響力がかなりありそうな様子なのだ。
俺は彼にセレニアを奪われそうだと脅えているからこそ、恋敵となるだろう男に会いに来たのだ。
部下にも一切告げずに、隠れる様にして迎賓館を後にしてきたのである。
なんて情けない男だと呼び鈴を鳴らすと、驚いた事に玄関ドアを開けて出て来た男は執事などではなく、緑ケ原伯爵その人であった。
「すいませんね、お呼び立てして。」
「いいですよ。私もあなたに呼ばれた理由が知りたかったのですから。」
「では、応接間へどうぞ。」
「召使はいないのですか?」
「あなたの来訪に合わせて人払いをしました。下々の者は盗み聞きが大好きだ。」
正面玄関に入ってすぐのフロアには中央階段があった。
来訪者には一番目に付くだろう階段の踊り場の壁にはふつうあるはずの伯爵本人か始祖の肖像画は無かった。
代わりに、俺の愛馬によく似た白地に黒ぶちという牛の肖像画が掛かっていたのである。
牛は茶色の筈なのにと、別の不可解さも湧きだしたが、牛がこの柄だと可愛らしく見えると思ってしまった自分もいた。
「緑ケ原家にちなんだ想像上の牛ですか?」
緑ケ原伯爵は絵画をちらっと見上げると、単なる酔狂ですよ、と答えた。
「酔狂、ですか?」
「人と違うと持て囃される事こそ、貴族社会では重要なのですよ。」
「大変ですね。」
「えぇ、本当に大変です。」
彼は踵を返すと真っ直ぐに応接間らしき部屋の扉へと向かい、俺は彼を追いかけながらも豪奢なタウンハウスの内装に圧倒されてもいた。
牛の肖像画には首を傾げさせられたが、それ以外は歴史と金のある伯爵家らしく、芸術など何も知らない自分でも良いものだと思える品物が所狭しと華々しく飾られているのだ。
俺は玄関から応接間へと一歩一歩と足を進めるたびに、胃の腑がずっしりと重くなっていく感覚に陥っていくようであった。
このままの俺では、彼女に何一つ贈ることは出来ないだろう、と。
俺は彼女から彼女の持てる全てを失わせているのでは無いのだろうか、と。
セレニアとアレンに付き合いがあったのは聞いたが、その付き合いの深さについては何一つ俺は知らない。俺は彼らの関係を聞いてどうするというのか。身を引くとでも?
俺の内心など全く知らない伯爵は優美に笑い、金髪に青い眼を持つ美青年は美しきセレニアにふさわしい姿だと認めるしかなかった。
大きな鉛玉を無理矢理呑み込んだような、そんな重苦しさが胸にあるが。
応接間では彼は俺に一人掛けのソファーに座らせ、断る間もなくワイン入りのゴブレットを押し付ける様に手渡された。
彼は向かいのソファに座ったが、そのソファーは二人以上は座れそうなものである。
俺の案内されたひじ掛け付きの一人掛けソファは偉そうに見えるからこそ上座に思いがちだが、実はアレンが座ったソファーの方が上座である。
俺は俺よりも確実に上だと考えているらしき緑ケ原にむかっ腹が立ち、彼から手渡されたワインを一気に飲み干してしまった。
「あ、しまった。」
敵地での飲食は殺してくださいと言っているようなものだ。
「いいえ、ワインはまだありますから。それに、私がこれから口にする内容はあなたにはお酒が必要かもしれませんから。どうぞ。」
俺の杯は再び並々とワインで満たされ、俺は目線で彼に先を促した。
「――単刀直入に申し上げますが、セレニアの結婚を取りやめる様に、私が王に進言します。よろしいですね。」
「あなたが求婚するためにですか?」
「そうですね。私という駒がいれば、あなたを殺してもセレニアを妻にできないと踏めば、あの側用人は尻尾を出すのではないでしょうか。」
「あぁ、そういうことか。ですが、あなたはセレニアに思慕の念をお持ちでは?」
「まさか。虫を食べるという有名な姫では無いですか。美を取り戻すために蛇や虫を食されていると聞きましたよ。老婆のように醜く、肌は茶色の染みだらけだと言うでは無いですか。セレニア様はあなたに譲ります。はい、私は側用人政治を問題にしたいだけですよ。私が憂えているのはこの国の行く末そのものです。」
アレンは共犯者のような顔で砕けた笑顔を俺に向けた。
俺は彼ににこやかな顔を向けながら、目の前の人形のような男を叩き壊してしまいたい気持ちを必死に押さえつけていた。
「お手紙のやり取りをずっとしていた人なの。なんでも話せる、お父さんのような人よ。」
セレニアにアレンの真実はぜったいに伝えることはできない。
俺は胸の怒りを鎮めるため、継ぎ足されたワインを一気に飲み干した。