十二、野良犬は叱られる
俺はこの年になって母親に叱られる子供を体験していた。
勿論、俺自身生まれてこのかた母親の存在自体知らないので、母親として俺を叱っているのはエーデンだ。
親友イーオスの妻であり、俺の栄達の手助けをしてくれた恩義のある女性でもある。
つまり、俺は絶対に彼女に頭が上がらないのだ。
しかし、開口一番にこの馬鹿者と叱られては、俺は子供のように言い返すしかなかった。
「俺が何をしましたか?」
「胸に手を当てて考えてみなさい。」
言われた通りに胸に手を当て、特段叱られるような思い当たることなどないので、俺は親友に助けを求めることにした。
親友は怒れるエーデンの隣に座っているが、自分に助けを求めるなと目で言い返して来た。
彼は身重の妻を必死で追いかけてきていたらしく、妻の出奔を引き起こしたのは俺だと決めつけている。
侍女をお払い箱にしたのはそんなに罪が重いのか。
「侍女は仕方が無いとしても、すぐに小間使いぐらい手配できたでしょう。」
そうだ。
昨夜はエーデンに再会した途端に、開口一番にこの言葉で叱られたのだと思い出した。
宿に着くまでの数刻ぐらい、俺と彼女との間の垣根を取っ払えたらと考えていたのだ。
そして俺は、彼女が願うならば、いくらでも自分で世話をする。
歩けない彼女の足にもなろう。
ダカ、ダカダカ、ダカ、ダカ、ダカ、ダカ、ダカ。
床を重たい槌で打ち鳴らしているかのようなおどろおどろしい音が響き、俺はその音の方へと顔を向けると、なんと、歩けない筈の妻が食堂の戸口で息を切らせていた。
息を切らせて白い肌を仄かに染めている姿は可憐そのものであり、俺は美しい妻の元へ行こうと勝手に体が動いた。
だが、彼女は俺に座れと手でジェスチャーをすると、そのままぎこちない歩みで俺達のテーブルに向かって来たでは無いか。
「あ、歩けたのですか。」
「義足は着けているもの。」
「ですが!呼んで頂開ければ、私めがお部屋まで参上いたしましたものを!」
エーデンが、わたくしめ、さんじょう、と、俺の言葉を繰り返しながら腹を抱えて笑い出したが、いいだろう。
俺は俺の姫様の一挙一動の方が大事なのである。
やはり俺は立ち上がったが、裏切り者のイーオスの方が早く、彼は当たり前のように姫に椅子を引いていた。彼女はイーオスにありがとうと可愛らしく言って座り、俺は俺の仕事と姫様とのふれあいを奪った親友を睨みつけた。
彼はやっぱり俺への嫌がらせだったようで、得意そうな笑顔を俺に返した。
「お前は意外と性格が悪いよな。」
「でも、あなた。イーオス中尉は怪しげなお店で花を摘んでこないわよ。えっと、今は少佐でいらしたのですよね。ご栄達に赤ちゃんって、とてもおめでたが重なりましたね。」
「ありがとうございます。姫様。この幸せはあなたのお陰ですよ。」
「まぁ!」
「え、ちょっと待って。今、なんて?ねぇ、エーデン!」
俺は純粋な筈の姫の口から飛び出した言葉に驚き、当たり前のようになんでも知っている母親に助けを求めた。
エーデンの両目をぎらつかせた表情は俺にまさにそのことだと言い、俺は今朝のエーデンが怒っていた訳をようやく理解した。
そうだ。
ジャスミンの香りに釣られて訪れた店で、銀貨一枚で一つかみのジャスミンを手に入れたが、よくよく考えてみればその店は売春宿であった。
俺の頭はダヤン修道院の庭にいたセレニアの姿だけだったのだ。
それも情けない思い出だ。
自分の存在に気が付いたら声をかけようと毎日のように彼女を眺めていた癖に、いざ彼女が俺に気付いたら、俺は一目散に彼女から逃げたのだ。
下民出身の何も持たない男が、一国のお姫様に何を語れたというのだろう。
「すいません。お花があったと、とにかくそこに飛び込んで銀貨一枚で手に入れましたが、ごめんなさい、僕はそこがどんなお店かも知らなかったの。」
進退窮まる俺を助けたのは、俺を暗殺に来たまま従僕に納まっているキリアムだった。
足音も無く後ろから現れた事にはぞっとするが、彼には金貨一枚をあとで渡そう。
ほら、キリアムの助勢によって目に見えてエーデンの怒りが消え、イーオスもいつもの好漢に戻っているではないか。
しかし、俺の妻はなぜかしゅんとしぼんでしまった。
「まぁ、そうだったの。では、あの花は旦那様からのものでは無いのね。」
え、落ち込んだのか?姫は俺からの贈り物が欲しかったのか。
畜生、キリアム。勝手なことをしやがって。
「いいえ。どうして花を探していたのかって言えば、団長様が贈る花が見つからないと嘆いていたからです。彼は僕から金貨五枚で花を取り上げたんですよ。ひどいでしょう。」
「まぁ!」
姫は嬉しそうに笑い、俺はキリアムに渡す金貨五枚を思って心の中で少し泣いた。
今の俺にはそれほど金はない。
伯爵位にしても、大佐の階級だって、それは俺をすっからかんにするほどの金をむしり取られての、それ、なのだ。