十、二年前の悪戯
バルドゥクが宿屋に現れたのは、私が部屋に落ち着いた四時間後だった。
私は夫を出迎えるべきだったのだろうが、実は完全にベッドの中で爆睡していた。
式を迎えるまで、私はそれなりに緊張してはいたのだ。
そして深い眠りの中、私は二年前の夢を見た。
二年前のある時、前線に近い街にある聖ダヤン修道院の修道女の一人が乱暴されて殺された。
そこで、修道院への保護を願う王宮への陳情が修道院長からあったのだ。
もちろん王宮は些末な事だと書簡を放ったが、私とエーデンは修道院長に会うべきだと勝手に強行した。
そこの前線基地にエーデンの想い人がいたのであり、私は彼女達を再会させようと、エーデンは彼に会いたいという、院長には申し訳のない浮ついた気持ちでしかなかったが。
しかし、修道院に着くや院長から実際を聞いて、私達は脅え、そして怒りに震えた。
修道女を乱暴したのは味方の兵だ。
彼らは敵を打ち倒すよりも、守るべき街で暴れていたのである。
修道院がコンスタンティス正教国の多神教の神を崇めるものでなく、大陸全土においてはポピュラーな一神教の宗教のものだという点が彼女達の不幸でもあった。
戦争相手のロンディス共和国こそ、その宗教の信者達が集まって興した国だという歴史を持っているのであれば、我が国の兵士達には修道院は鬱憤晴らしの良い的でしかない。
結婚式や公的な儀式では司法神に祈り誓いをしていなければ認められないという事で形式的に儀式が行われているが、我が国民の半分近くはその宗教の信奉者だ。
国を興した頃からの古い多神教を国教としているのは、王族の権威の為だけでしかないというのに、馬鹿者が。
私が王女として怒りに震える横で、同じぐらい怒りに震えていた女性が立ち上がった。
「私、イーオスに会ってきます。どのような状態なのか聞かなければ。」
「そうね。どうしたら街の人達の害にならないように軍隊を抑えられるのか、情報が必要ね。でも、一人で大丈夫なの?危険はない?」
「たぶん。故郷の村にいた時のイーオスなら、問題など無いはずだわ。それに、私を失望させる男になっていたのならば、私は彼への思いを断ち切れるってものです。」
あぁ、あの日のエーデンもとても強かった。
彼女は男ばかりの軍隊に年老いた修道女一人を味方に乗り込み、なんと、想い人のイーオスを携えて戻って来たのである。
彼女の想い人だというイーオスは、彼女が語っていた通りの物凄いハンサムでは無いが、人柄の良さそうな物腰と、知的で静かな雰囲気を持つ男性であった。
「えぇ、聞いています。軍紀の乱れは嘆くばかりです。上が率先して軍規を乱しているので尚更たちが悪い。戦果を上げれない鬱憤を守るべき人々に向けているのです。」
彼は私達以上に憤慨しており、そして、このままでは次の進軍で自分は死ぬとまで言い切った。
「どうして。」
「姫様。兵の使い方のわからない男が上官では、いくら命があっても足りません。」
「では、あなただけでも軍を抜けることはできないの?」
「領地を持たない男にはこれしか無いんですよ。食べていくために入隊したのです。それに、この少尉という階級は、無い金をかき集めて両親が手に入れてくれたものです。捨てる事など出来ません。」
買ったのであれば売ってしまう事も出来るのではないか、と考えた私はろくでなしであろう。
エーデンなどはイーオスの言葉に一々うなづいて、感動迄しているのである。
「では、上官を撃ち殺してしまうのはいかが。」
当たり前だがイーオスとエーデンはお茶を吹き出し、驚いた事にお目付け役として部屋の隅で私達を監視している修道院長は微動だにしなかった。
それどころか、彼女はお目付け役という役を放り投げ、私達の話題に加わり始めたのである。
「姫様。殺した所で新たな間抜けがやってくるというだけですよ。さて、少尉殿。今の話題の間抜けな上官は、あのポーツマス少佐でしょうか。」
「いいえ。少佐は前線基地の長ですが、彼は単なる置物です。社交界シーズンが始まれば王都に戻ってしまいます。」
「では、直接的な間抜けを追い払い、そこに真っ当な男を添えるのね。あなたのような。」
院長の言葉にイーオスはカっと両頬を赤らめ、それは違うと言い切った。
「私はそこまでの男ではありません。ですが、います。しかし、平民の彼は金があっても尉官を買えない。彼が隊を率いれば兵は死なず、町の誰も傷つかないでしょう。彼に大尉の階級を売ってくれる者がいれば、の話ですが。」
「今は何一つ階級が無いのですか?それなのに、大尉に?」
「ははは。僕も戦争など知らないで生きて来たのに、軍功を上げる前から少尉さんですよ。僕の指揮で死んだ兵士も多くいます。」
乾いた笑い声をあげたイーオスの表情は暗く、彼が軍を離れないのは少しでも平民出の兵士の命を守りたいと考えているからではないのかと思い至った。
特に、彼が大尉に据えたいと願っているような男の為に。
「では、間抜け大尉が階級を売れば問題は全て片付くのね。院長様、男性を夕餉に誘ってもいいかしら。わたくし、結婚相手のいない醜女でしょう。勇猛果敢な大尉様なら結婚してくれるような気がするのよ。」
イーオスとエーデンは真っ青になり、私にそんなことはさせられないと同時に叫んだが、私の計画を読んだかのように院長はきらりと両目を輝かせた。
「今夜、ですか?姫様。」
「いえ、準備があるので三日後ね。」
私は虫や蛇などで豪勢な食事を作り上げ、自らは数百年生きた様な老女に扮装し、美に固執するばかりに頭がおかしくなった女を演じたのだ。
男には醜女が妻だったら愛人を作って逃げる手もあるだろうが、後生大事に育てられた大尉様が、付き合いだろうが虫の丸焼きを口に入れられる訳はない。
彼は自分には婚約者がいると大声で叫んで私の前から逃げ去り、そしてイーオスの話では、近くにいた誰にでも、金さえ出せばと大尉の階級を安売りして、軍隊からも逃げたという。
軍隊では、下の者が上の人間を怒らせると、下の者は死地送りで処分されると聞く。
私は一応姫君という上の者だ。
奴は一生軍には戻らないであろう。