コーヒーを、あなたとともに
『独り』という言葉が嫌いだ。
『独り』という状態が嫌いだ。
だって、『君』と違って何もないから『独り』でいたら、自分が無くなってしまう。
だから、いつの間にか、こうなっていた。
◆◇◆◇
『よくある事なんじゃないか』と思うし、『こんなのお前くらいだよ』とも思う。
『すごく爛れてる』と思うし、『なんて清らなんだろう』とも思う。
痛む腰。特有の空気。ゴミ。ゆっくり進む時計の音。
そして、ベッドの隣。もぬけの殻。
なんでこうなったのかと問われても、答えられない。なるべくしてなったのか、誰かに堕とされたのか。そんなのわかりたくないし、どうでもいいとすら感じている自分がいるのだ。
温もりの消えたシーツを引っ掻く。その音すらまるで夢現。気持ちが悪くて、気持ちが良くて。思わず自分の喉に手を伸ばしたくなるような、そんな感覚。
果たして、昨日は誰と寝た。
思い出せない。それでいい。
捩れた髪を手櫛でなだめながら、立ち上がる。ふらつく足元に転んでしまったのは、もう、とうに昔のことだ。
そのまま、他人の気配の残る自室を出て、コップ一杯の水を飲む。味がしないし冷たさもない。
ああ自分はここまで壊れたか、と冷静に判断を下して、コップを置く。
服すら纏わずペタペタ歩き、テレビをつける。砂嵐だ。胎内の音に似るというそれを聞いていたら、先程まで部屋に響いていた音が消えたことに気がついた。
時計だ。時計が無くなった。
まいったな、と思いはするけれど、ならもういっそ、仕事の電話が来るまで砂嵐の音を聞いていようと思い直し、ソファに腰掛ける。地肌を撫でる革張りは、なんだか誰かの手の触り心地に似ている気がして、はて、いつ寝た誰の手だったか、突き止めるつもりもないくせに、思考だけは止まらない。悪癖だ。
ぼんやり考えたって、何も思い出せない。
面倒だ、と思考を投げたせいか、忘れていた寒さを思い出して、縮こまる。半身だけ凍えるような変な感覚に襲われながらも、自分の足は、毛布があるはずのベッドへは動かない。
縮こめた足先をもぞもぞ動かしながら思う。あそこには、戻りたくない。
だって、どうしようもなく独りだ、と思い知らされてしまうから。
・・・・
例えば、もしも好きを伝えたら。
例えば、もしもあの時出会わなかったら。
例えば――。
浮いては沈む『もしも』を数えつつ、部屋を眺める。時計がない以外は、普通の部屋だ。個性の一欠片もない、至って普通の。自分そのもののような部屋だ。
抱えた膝に頬をよせる。そして見つめるのは、スマートフォンの明るい液晶。
画面に指を滑らせて、無料トークアプリを立ち上げる。アプリが開かない。
ならば、と開いた無料電話アプリは、開いたけれど、連絡先がすべて消えていた。
ああ。ここでも見放されるのか。そんなふうに思いながら、名前とアイコンが黒で塗りつぶされた連絡先を見る。まるで葬式だ。
一夜限りを過ごした数多の人間が、指で撫でるたび、上に消えていく。一番下までスクロールして――息が止まりそうになった。
一つだけ残った連絡先。そこだけ、色のあるアイコン。それから、文字化けして読めない名前。その下の、夢にまで見た電話番号。あの時、かけられなかった電話番号。
自分の指がそこを押してしまう前に、アプリをアンインストール。全部全部見なかったことにして、今度は、スマートフォンにもともと入っていた電話帳アプリを開く。
最早崩れて読めない番号と、ぐちゃぐちゃに塗りたくられた黒が隠す、名前。その群れの一番下には、やっぱり、アプリの時と同じく……。
スマートフォンを投げる。硬質な音に耳を塞ぐ。
寒い。
寒い、寒い、寒い。
我慢できなくて、ベッドに逃げ込む。夜の匂いを思い出して、顔も思い出せない閨の相手を思い出して、さっきの名前と番号を忘れようとする。
寒い。体を胎児のように縮めても、どうにもならない。苦しい。息ができない。水の中にいるようだ。そのまま溶けていくようだ。
独りのまま。
・・・・
誰かと溶け合って一つになれたらいい、なんて思ったことはない。なれるはずもないことを知っているから。
でも、独り溶けていくのはダメだ。
――寒い。寒すぎる。
もがいて、シーツを蹴って皺を作って、金魚のように、空を求める。
――こんなに寒かったら、ダメだ。
それでも息はできなくて、でもなぜか、それは幸せで。
――寒さに凍えて死ぬくらいなら、一人溶けていなくなるくらいなら。
両手首が痛い。それがこの上なく幸福で。
シーツを、蹴って。
見上げるあなたは、だれ?
目がかすんで見えない。頭がぼんやりして見えない。酩酊に包まれて、顔が、あなたのその顔が、見えない。
――ああもうだめだ。とける。ひとりぼっちで。
身が震えるほどの衝撃。白が頭の中で爆ぜる。
自分が溶けてなくなる。でも、どうにもならなくて――。
そこで目が覚めた。
◇◆◇◆
握り締めたシーツの冷たさ。やはりもぬけの殻の隣。
部屋に香るのは、自分の吐き出すアルコールの匂いと、それからひどく特徴的な夜の匂い――ではなくて、朝を象徴する香り。
定期的に見る悪夢と、それから二日酔いと寝ぼけに犯された頭では、現実に追いつかない。
唯一わかったのは、夢の中であれだけ寒かった理由だ。素肌を晒して、足先にしか布団がかかっていない。
そりゃ寒いよ。
そう思うだけの頭しかない。宵を共にしたのが誰で、隣にいたのが誰で――このコーヒーの香りを作り出しているのが誰なのか、寝ぼけた頭は考えようともしない。
いつもの癖で、捻じれた髪を手櫛で梳かそうとして、そこでやっと目が覚めた。
両手首には力強く握られた跡が遠慮もなしにつけられている。見下ろした体には無数の紅が散っている。よく見れば赤の滲む歯形が――随分と、遠慮のない相手だったらしい。
いや、『だった』でいいのだろうか。
推察するに、このコーヒーの香りのもとを辿れば、昨晩の相手がいる。だからと言って、確認しに行くつもりはなかった。多少居座っても、コーヒーを飲んだら帰るだろう、と。そう思ったからである。
でも、昨日の相手が気にならないわけでもない。
スマートフォンを開き、使い慣れたアプリのアイコンを探して――見つけられなかった。うそでしょ、と思いながら思い出すのは、夢の内容だ。確か、このアプリは夢の中で消した。まさか寝ぼけて、と思っていたら、扉が開いて……入ってきたのは、会いたくて、会いたくなかった人だった。
怒ったような目が、自分を映している。その綺麗な瞳に映るのが、こんなに汚れた自分だという事実が嫌で嫌で、布団を手繰って身を隠す。
「やっと起きたか」
「う……な、なんで」
君が、という言葉は、掠れて消える。吐き気がする。どうしてここに、なんで。それだけが、頭の中を巡っている。
「自分が、何をして、何を言ったか、覚えてるか」
「お……ぼえてない……」
君の口から溜め息が零れる。続く言葉を聞きたくなくて、遮るように叫ぶ。
「何をしたかも何を言ったかもわからないけど、本当に、ごめんなさい! これだけ頭がぐらつくんだから、ひどく飲んだんだと思う。――そう、これは、酔ってたから。間違いで、だから、ほんとに、忘れて――」
「なんにもわかってないんだな」
「――え」
近づいた君の香り。昨晩がフラッシュバックする。
言った言葉も、したことも――言われたことも。
アプリを消したのは自分ではない。
――たまたま通知を見られて、スマートフォンを奪われて、怒られて、アプリを消された。
我慢できなかったのは自分ではない。
――そんなことやってるんだからもう我慢しない、と言われて、結果が手首の赤だった。
独り占めしたかったのは自分ではない。
――どうしてこんなことしてる、という問いに答えられなくて泣かせてしまった。
そうやって与えられたすべてが、死ぬほどうれしかった記憶が、体の奥からしみだしてくる。
「あ、う……」
「思い出したか」
「ま、まって、まって……なんでこんなことに」
好きだと言えなかった。ずっと好きだった。
心に空いた穴を、誰かの体で埋めていた。
それでも、夜を跨ぎながら、思い出すのは君の顔だった。
「だって、だって、どうして」
「同窓会で泥酔してた。だから拾って、住所聞きだして、送った」
「な、なんで」
「お前が、『好きだ』って、そう言ってたから」
「き、君を……?」
ぶすっとした顔が頷く。
体が熱くなってくる。
「嬉しかったのに」
すねた声音に、今や頬の赤が移ってしまった肩が跳ねる。
「想いに応えようと思ったのに、アプリの通知が来てるのが見えて……その時の気持ちが、わかるか?」
「……わかんないです……」
正直にそう言えば、君は観念したように鼻で笑った。
「……飯。用意したから。それ食ってから、説教させろ」
「あ、わ、ありが――せ、説教……?」
「それが終わったら……仕切り直し」
そう言った君の後ろ姿の、耳だけが真っ赤だ。
それに気が付いてしまえば――今までの爛れも、先ほど魘された悪夢も、全て彼方に吹っ飛んだ。
心に開いた穴をぴったりの形が埋めていて、独り凍えていた体が、与えられた熱で溶かされる。
香る、パンの焼ける匂い。コーヒーの匂い。それから、自分の体を隠すのに使っていた布団から香る、君の匂い。
――こんなにも素晴らしい目覚めは、もしかしたら、今後一切ないような、それでいて、毎日の習慣になりそうな、そんな気がする。
ベッドの周辺に散乱していた服を拾い上げ手早く身に着けて、それから、コーヒーの匂いを辿って歩く足は、昨日以前の己の足より随分と軽かった。