3龍さんと文さん
今から16年前、26歳の時、龍さんがまだ2浪して大阪大学の学生だったころ、馴染みの喫茶店で働いていた21歳の文さんと結婚した。
龍さんは開業医の父親、善一郎の期待とは裏腹に、子供の頃に読んだ「銀河の無責任伝説」という冴えない無責任な男が、やがて銀河を2分する宇宙戦争の提督となり、劣勢をひっくり返す痛快SFライトノベルにはまってしまって、親の期待を裏切り医学部ではなく文学部へ入った。
文学部に入った龍さんは、その時、講師を務めてる傍ら映画の脚本家もしていた「銀河の無籍任伝説」作者、田中平に運良く出会いその門を叩いた。
弟子入りした龍さんは、師匠の田中平の家へ通っては箱書き(プロット)のバラシの宿題を出されては、大学の書庫へ入り、歌舞伎の戯作者、近松門左衛門や4代目鶴屋南北、河竹黙阿弥やらの戯作に始まり、坪内逍遥やら岸田國士やらの日本戯曲全集などの日本の古今東西の芝居を勉強した。
龍さんは、元来のんびり屋で、まじめに師匠の宿題をこなしていたら、作家の実力は蓄えられてゆくのだが、ボンボン育ちで欲がないから、いつまでたっても自分の作品を描かずに、研究だけを極めてゆく描かず見る目ばかり肥えてゆく”描かない作家”になっていた。
そんなある日、ふらっと入った大阪梅田の地下街の老舗喫茶店 風月堂で妻となる文さんと出会ったのである。
龍さんの文さんの第一印象は清潔な女性だ。
風月堂は、高級感が売りの喫茶店だ。壁にはレンブラントの「マールテン・ソールマンスとオーペン・コーピット」の西欧貴族の肖像のレプリカや、ルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」のテラスに集まる群衆のレプリカなどの高級絵画が掛けられ、テーブル、イス、食器の調度品も品良くルネッサンス風の教会を思わせる落ち着いた拵えの物で統一されている。
その入り口からテーブルの合間、合間を縫って、真っ白のシャツと黒のカフェエプロンを颯爽と着こなした文さんが行く。
「ちょいとよろしいかなお嬢さん?」
と、こじゃれた精神の持ち主だった若い龍さんが、文さんを呼び止めた。
「はい、少々お待ちください。スグに伺います」
同じ作家の弟子と連れ立って創作論を語らいにやって来た龍さんは、まずは、味わい深いブレンドコーヒーと、これまた、他にはないしっとり口溶けのチーズケーキのセットを頼んだ。
そこから、400字詰め原稿用紙を開いて文字を書いたり、それを裏返して、人物構成図なんかを気取って2、3時間ばかり過ごした。
そろそろ、店をでようかと計らうタイミングで、小生意気にも龍さんが、アルバイトの時間も近づいてきた文さんへ手招きした。
「ちょいとお嬢さん、よろしいかな?」
ここは大阪である。「~でんがな、~まんがな」が通用する下町言葉が当たり前。龍さんは下手に学があるから小生意気に東京言葉を喋ってみせる。まあ、これも明治、大正の文豪の作品を読んで身に着けた作家かぶれの顛末であるのだが、
「はい、ただいま伺います」
龍さんはテーブルにやってきた文さんを見つめて、いや、この場合は文さんの美貌に見とれていたのかもしれない。
「もう一度注文をしてもよろしでしょか?」
と、龍さんは回りくどいことを尋ねた。
「どうぞ、なんでもお申し付けください」
と、文さんは丁寧な言葉で応えた。
「それでは、アイスコーヒーをお願いできますかな」
「かしこまりました」
しばらくすると、文さんが、厨房から渡されたアイスコーヒーを運んできた。
龍さんのテーブルへ、まずは、なめし革のコースターを置き、そこへ、グラスのアイスコーヒーを、つづいて、鉄の水瓶を模したシロップ、クリームを置いて、最後に、袋に入ったストローを添えた。
すべてを、揃え終えた文さんが立ち去ろうとすると、
「ちょいと、お嬢さん」
とまた呼び止めた。
「なにかしら?」
と文さんが振り返ると、
龍さんが、アイスコーヒーのグラスを掴んで、はにかんだ笑顔で、
「君をアイス(愛す)!」
とダジャレを言った。
突然、店内のエアコンが弱から強へ変更されたかと思うほど痛恨の一言だが、文さんは、愛らしくまぶしい笑顔で、
「面白い方、ありがとうございます」
と、答えた。
――茶川家リビング。
「龍さん、アイスコーヒー飲むでしょう?」
と、リビングでパソコンへ向かう龍さんに茉奈が尋ねた。
龍さんは、パソコンへ長い時間向き合ってるせいで目が乾いてシパシパするのか、メガネを外して目薬を差した。
「はい、龍さん。アイスコーヒー」
コーヒーを運んできた娘の茉奈の姿に、霞んでいた目に潤いが戻った龍さんは、自分の目を疑った。
「文……」
龍さんの目には、娘の茉奈が、出会った頃の妻、文の姿が重なった。
龍さんを見つめて、文さんが微笑んだかと思うと、
「龍さん、龍さん、大丈夫?疲れてるんじゃない?」
と、心配して気遣う茉奈の声がした。
「ああ、茉奈か」
「ああ、茉奈かってがっかりした返事ね龍さん」
「いや、ちょっと、昔を思い出してね」
「それはどんなこと?」
龍さんは、若いころのようにはにかんで、
「とても楽しい時代の思い出さ」
と、応えた。
すると、茉奈の足元をついて歩くワガハイが焼きもちでも焼いたように、「にゃ~ご、にゃ~ご」と甘えた声を出した。
「あらあら、ワガハイ、ちゅ~るが欲しいの?ちょっと待ってね」
茉奈とワガハイ、愛する家族との生活がこのままずっとつづけばいいのに……。と、龍さんは思った。
つづく