9:ホソカワはこの国の記憶操作プロジェクトの最高権力者だ。
私が病にかかってから1週間程たっただろうか……
そもそもこれが病かどうか、分からないが……
ハチが私の看病をすると言って、私の身の回りの事を強行突破して、動き回った。
私が必要としていないことまでやり始め、楽になっていった。
理由は謎だが、彼女が寝ている間も私の事を見続けていた事には感謝するしかない。
楽になったと言うだけで完全には治った。というわけでは無いのだが、そんな私を見て彼女は成し遂げた。と言わんばかりの顔をして「治ったのなら私の治療をもう一度しよう」と強要する。
まだまだ子供らしい?所があるのか、自分のしたい事のために必死に動き回っていたと考えると、少し笑えてくる。
セイメイに知らせに行くと彼は少し困惑した顔で私の顔を見ていたが「まぁ、ナツキがそういうならそうなのかもしれない」と、私の症状については何も言うことなく、米粉で作ったというパンを袋に入れ渡された。
体の匂いを指摘された私は日の出ているうちから銭湯に行き、ほとんど人がいなかったので念入りに体を洗う。
ハチは一日中家にいると言って部屋に篭っているため、1人の時間をこうやって浪費するのも悪くはないと思って風呂場から上がり、牛乳の入った瓶を手に取る。
「私も1つもらっていいかな?」
聞き覚えのある声。私はもう1つ瓶をとり彼女に渡す。
「なんでこの時間帯にあなたがいるんですか?」
湯船から上がったばかりなのか、なぜドライヤーで髪を乾かさないのかタオルで拭き取っただけに見える濡れた黒い髪の毛の女性。
ハチがこの銭湯やパン屋であった黒髪の女性であり、ナツキの上司であり、この国の、この記憶操作をするシステムの最高権力者……
ホソカワがここにいた。
###
「なんで私が、ここにいちゃ行けないのか……ちょっとわかり兼ねるんだけどね」
ホソカワは少し嘆息を漏らして私に少しばかりの敵意を向けるような目でナツキを見ていた。
「仕事してくださいよ、ホソカワさん。”元”同僚の俺に構う必要はないでしょう」
元々は同じ時期にナツキとホソカワは同じ役職になっており、ある事件をきっかけにナツキとホソカワの差は歴然と開くことになった。
「それがそうでも無いんだよ……」
彼女は近くに机の上にあるクリアファイルに指を刺し、座ってと促した。
指示通り、私は上司の真向かいに座りクリアファイルの中身を確認する。
「病原性心象郡に関するレポート」と題された表紙紙に、ホチキスで10枚ほど止められているそれを目に通す。
###
──まず初めに知っていて欲しい事だが、この病気を治すことは不可能だ。
いかなるカウンセラーを出そうが、いかなる看護医を出そうがこの病気を治すことは不可能なのだ。
構造は違えども性質のようなものは癌に似ている。
それどころか癌よりも悪質だとも言えるのだ。
癌は元は同じ細胞であるため、キラー細胞は仲間と誤認識して駆除すること無く増えていく。
病原性心象郡も、主の体に侵入した後は主と同一化し、脳に近い位置で繁殖をする事が分かった。
その後、十分に繁殖した病原性心象郡は彼らの記憶に思い入れを作り上げる。
自分にとって過去最大のトラウマの記憶に尾ひれを付けて更新させる。
普通の人間であれば深い闇を持っているわけではないので、基本的にはかかることはない。
そして、この病気にかかった所で本来であれば死ぬことは無い。
もしかしたら鬱病よりも優しい病気だとも言える。
しかし、この病気は感染者が一定以上の精神的負担を与えると周囲に”心象風景”を見せることがある。
簡単に説明をすると、何らかの形で精神的に負荷を与え、耐えれなくなると感染者の脳にある「尾ひれの着いたトラウマ」がモヤとなって体から溢れ出る。
何故、体からそのようなモヤが出来るのか科学的に解明されていないが、そのモヤを見たものは感染者のトラウマ模した何かを見ることになる。
「……これは…」
ナツキは1度この体験をした覚えがある。
一週間前、ハチから見せられた絵のようなものの事だ。
「見覚えがあるようだね」
ホソカワは思い当たりのある私の顔を見てから変わらない様子で言う。
彼女の言葉も届かず、ナツキはただそのレポートに書かれていた内容に驚愕していた。
──そして、そのモヤを見たものは同じく病原性心象郡に感染する。
「……」
建物の外に出る。
深呼吸をして、頭を動かそうとする。
あまりにも大きな出来事だったので、理解が追いついていない。
絶叫や嘘と思うような事が無いのが唯一救われている事だろうか……
いや、この状態でそう抵抗する様なことをしていない方がよほどおかしな様に見える。
恐らく私は、その病気を無意識に受け入れていたのだろう……
確信とまでは言いきれないが納得がいくため、そう思うことにした。
「とりあえず最後まで読んで見たら?何をしたら死ぬスイッチが入るかってことまで書いてあるけど」
追いかけてきたホソカワはレポートをナツキに差し出す。
黙って受け取り、もう一度内容を見る。
………これだけか?
「もう死んでもいいと受け入れた時」だけで感染者は死ぬ。
こんなにも容易く殺されてしまうのか?
間違いを犯せばすぐにでも死んでしまいそうではないか……
「ある意味では優しいうつ病よりも優しい病気なのは確かだよね」
ホソカワはそのページで固まるナツキを見てから、独り言を言うように語る。
「うつ病ってのは『もう生きる事が耐えられない』って生きることを辞めるから、死ぬ最後まで彼らは幸福を見ることは無い。」
そのあと、私はうつ病になった事ないから分からないけど。と付け足す。
「でも、この病気は人生の最高潮で死ぬという、生きることへの終止符を打ってくれる。それまでの症状内容ではどうして?と思う内容だけど」
たしかに尾ひれをつけたトラウマを作って鬱状態の様なものにするにも関わらず、そのようなことをするのだろうか……
「よく理解できない……」
「急ではあったね。でも君は今すぐにでも理解を追いつかせなければ行けない。」
ホソカワは冷静に言葉を並べる。
「君が治療を始めないことによって、ハチは不満を感じてモヤを発生させている。目撃者もいるよ。」
「……感染者が増えた?」
「そう、感染者が1人の増えた。最も彼はうちの職員だったから処理は何とか出来るだろうね」
その後にホソカワは一呼吸してから小声で言う。
「遠くない未来、この国は誰も住まない土地になる。患者は避難されハチやさきの職員、そして君はこの国で本当の意味で隔離される事になるだろう。」
「どうして私にそんな事を言う。」
「決まっているじゃないか、そうなる前に彼女を治しなさい。これは上司の命令だ。」
顔色変えず声も変わらずそう告げた彼女を見て、ナツキは疑問に思う。
「なぁ、どうして俺を選んだ?」
彼女は答える
「適正があったからだよ」
再び俺は質問をする
「適正と言うのは私が元から病原性心象郡に感染していたからか?」
彼女は何も答えなかった。
顔色は変わらない。驚愕や怒り、悲しみと言ったものではなくそう聞かれる事が前から分かっていたように真顔だった。
──つまり、答えはyesという事だ。
この国から出れないのも、記憶を政府がたまに持っていくのも、病原性心象郡であるハチの看護医に選ばれたということも。
全て私があの病気にかかっていて、国は私のサンプルでレポートを作成していた。
ただ、それだけの事……だったのだが、何故だろう。涙が頬を伝う。
忘れていた記憶が思い出せそうで出てこない。
あの時の記憶が思い出せない
ホソカワは嘆息を漏らした後
「まだ、記憶改変技術は完成していないようだ……」
そう呟いた。
ナツキの引きずり出された記憶が、海流のように引きずり戻されていく……
次回は月曜日の午後2:00~火曜日の午後2:00の間に投稿する予定です