問題編
大学のサークルの夏合宿用に書いた作品です。犯人当てクイズといっていいのか、まあそんな感じのお話です。手がかりはかなりわかりずらく、それでいて解答とは関係の無い要素の味が強く、正解に至る人はサークル内ではいませんでした。ですがあえて手を加えずに載せたいと思います。
巻島高校元弓道部員(登場人物)
藤生恒太朗・・・語り手
林田数希 ・・・ラーメン屋「龍章」アルバイト
大橋諌男 ・・・元弓道部長・三別印刷勤務
大橋英里子・・・専業主婦・諌男の妻
三田良 ・・・三別印刷勤務
西田奈深 ・・・綱前商事OL
<問題編>
<犯行>
「ブスリ」とか「グサリ」とか大抵はそういった擬音で刃物が何かしら物体に突き刺さるとき表現されるものだから、ついそんな感触を期待していたけれども実際は違った。例のように擬音を用いるならば今の瞬間は「サクッ」とでも形容された。たいした抵抗もなく、右手に握った包丁は彼女の背中に深々と侵入していった。それとも自分のかけていた力が相当なものだったのか、包丁の刃が良く研がれていたせいか。どっちにせよ苦労はしなかった。
瞬間、彼女は一瞬体を強くのけぞらせたが蒲団の上で直に動かなくなった。あまり苦しめたくはなかったのですぐに死んでくれたのは大変良いことである。
薄汚れた煎餅蒲団に赤い血が広がっていくのを目にしながら今自分が成したことの割には冷静であるのに少し驚いた。努めて冷静でいようとは意識していたけれども、自分がここまで何も感じないのかと思うと、目の前でその面積を増しつつある赤色の液体が自分にも本当に流れているのかという気持ちになる。
仄暗い客室はあの頃と変わらない。所々に継ぎ当ての目立つ障子も、外から絶え間なく流れてくる波の音も。高校二年のあの時からもう七年も前になるのか。壁も薄汚れ、客室と呼ぶには少々みすぼらしいこの部屋でこのまま追憶にふけるのも悪くない。むしろそうしていたい。だがそんな風にセンチメンタルな風を装うような年では、もうないのだ。あの頃はあまりに若すぎた。
それにしてもあっけないものだ。人が死ぬのなんて。声も出せずに、惨めなもんだ。
死体を上から見下ろす。するとこれまで味わったことないような征服感に満たされた。
行為の声を抑えるための猿ぐつわだと言ったら自分から喜んで噛んでいた。猿ぐつわついでにせっかくだから、手も後ろで縛ってもいいかいと訊くと、
「あんたも好き者ね」
と何を勘違いしたのか、そんなことを抜かした。
だが、できればそんな征服感で心を満たしたくなどなかった。もっと他の感情が良かった。出来ることならば――。
私は人を殺した。それと同時に過去の自分を否定したようなものだった。彼女に夢見ていた頃の自分。私が包丁を突き立てたのはあるいは、そんな七年前の自分に向けてだったのかもしれない。
「はぁ。お誘いねえ」
一般的に朝はすがすがしいものだと言われている。俺自身もどちらかというとそうだと認識しているが、悪いニュースを聞かされて小鳥のさえずる「ピチュピチュ」という声に耳を傾ける気分ではなくなる日もまま多い。今の時期はそんな上品な鳥の鳴き声よりも、残念ながらアブラゼミの「ジージー」という飾りっ気のない濁声がはばをきかせている。まあ、一日のうち外から情報を得る機会なんて、朝起きてトースターで焼いた超芳醇をかじりながら見る朝のニュース番組やら、どこぞの新聞やらぐらいのものだから悪いニュースが入ってくるとしたら朝に多いというのは極めて当然のことかもしれない。
だが今日の朝一番の悪いニュースは、中古で買った24インチの少々控えめなテレビからもたらされたものでも、朝と言うより夜だろうという時間帯に発行されるのに朝刊という名の付いたおかしな紙束からでもなかった。普段滅多に鳴ることはない家の電話からであった。
「グァグァ グァグァ」と電話の鳴る音で目が覚めた。なぜかうちの電話の音はアヒルの鳴き声なのである。この前うちに遊びに来た父上が設定していってそれっきりなのを忘れていた。家の電話が鳴ることなんて滅多にないから、はてうちは川沿いだったかなどとまどろんでいた。だがよく考えたら仕事の依頼ということもありうるか、と思い飛びついた電話はあろうことか、高校の部活の同窓会のお誘いであった。
なにもこんな時間にかけなくても良いではないか。くどくどと「すがすがしい朝」というものについて小言、もとい講釈をしてしまったのもひとえに期待が裏切られて腹いせである。電話の鳴る音で不愉快にも惰眠をむさぼり損ねたのもあるのだろうが。
顔を洗って髭を剃り軽く身支度を済ませてから独身男の哀愁をまとわせた1LDKの部屋を出る。一人暮らしには少し広いと感じているが、そもそも地価があまり高くない。アパートから少し歩いたところにある月極で借りている砂利の駐車場から事務所までマツダのデミオを走らせる。二年前に大学卒業祝いに祖父から買ってもらった車だが、小回りがきくので結構気に入っている。
バイパスの道路を走らせる。田舎の道路は広くて空いているのだが、通勤の時間帯ということもあり比較的道路は混み合っている。
とある理由から大学卒業と同時に就職した企業を辞めて探偵事務所を開いて三ヶ月になるが全然依頼がやってこない。これまでに処理した案件といえば、犬探しが二件に夫の浮気調査が一件のみ。ここ三ヶ月たいした収入もなく社会人二年で貯めた貯金も尽きかけていた。こんな北関東の人口15万人の地方都市では殺人事件も強盗事件も起きやしない。そんな事件起きないに越したことはないが、毎日交通事故者数ばかり積み上げるばかりの小都市にいささか退屈してきたところでもある。
先ほどの電話に「考えておく」と返事をしたのもただ断り切れない性格だったからではなく、毎日暇をもてあそんでいたのも理由の一つだ。だが先ほどの電話がどうして悪いニュースだったかというと、単純に高校時代はあまり充実した日々だとは言えなかったからだ。卒業から六年、集まって咲く話の花もないだろうとは思っている。今更ながら断れば良かったと思い直しながら信号を曲がり路地に入る。しばらく駅前の込み入った狭い道を走らせていくと「藤生探偵事務所」の黒地に白抜きしただけの、お世辞にも洒落ているとはいえない看板が目に飛び込んでくる。
今日こそは何かしら依頼がやってこないものか。
「結局来たんじゃねえかおめえ。電話したときは全然乗り気じゃなかったくせによ」
元弓道部六人を乗せたライトバンは海沿いの国道を走っていた。今はもう新潟市に入っただろうか。国道402号線を南から北に向かっていた。日はまだ南中こそしていないが高く昇り、晩夏だというのに強い日差しは十分に海が似合う。左手には日本海の比較的穏やかな波。すぐ右手には角田山のなだらかな緑の斜面が広がる。ここから少し南に行くと霊山である弥彦山が聳えている。
「なんというか、その。暇だったからな」
「そんな打算的な理由を臆面も無く並べるところとか、相変わらず変わってねえなぁお前。まあどうせ来ると思ってたさ。お前は断れない性格だからな」
そんなこと言いながらも大橋だって高校卒業したときとあんまり変わってないじゃないか。そう思ったが口には出さなかった。
大橋は身長も高く体つきもがっしりとしていて元弓道部では部長を務めていた。派手ではないが単色ライトブルーのこぎれいなポロシャツを着て、良く日に焼けた太い腕でハンドルを繰っている。この旅行の誘いの電話をかけてきたのもこいつだ。
「まあなぁ。矢道の草むしりとかなんだとか、無駄に雑用を押しつけられたのを良く覚えているよ」
少し皮肉を混じらせてはみたもののそれには誰も応じなかった。気づいてはいたけれどもあえて触れなかったのだろう。
海沿いの道は道なりに続いていて、信号も少なかった。誰も大の大人六人が余裕を持って座れる車を持っていなかったのも有り、せっかくだからと言うことで大橋が広い車をレンタカーで借りてきたらしい。それがこのライトバンだ。傍目から見れば日頃の仕事の疲れを慰労する楽しい男女六人旅行といった風にうつるのかもしれないが、全員の内心はそうではないのかもしれない。
「何をいまさら」
というのが僕の率直な感想だ。別段仲が良かったわけでもなく、卒業後も交流があったわけではない。なのに突然持ち上がったこの旅行。誰が言い出した旅行なのだろう。言い出しっぺの企画者が誰かは俺には知らされていない。少し気になったが訊く気が起きなかった。元々僕はこのコミュニティではあまり大きな発言権を持ってはいない。
「それにしても、まさか吉岡が大橋とそのままくっついちまうとはなぁ」
後ろからそう囃すような林田の声がした。林田数希。彼という人間はぼくにはこの六人の中では一番良くわからない。背はそんなに高くなく、短く切りそろえたウルフカットで首元にはキリスト様のネックレスを光らせている。いつも口許に笑みを浮かべて軽佻浮薄というような言葉がよく似合いそうなやつだったが、そんな四字熟語も知らなそうな人間である。悪いやつではないのだが行動に感情が伴っていないのだ。いつも何を思っているのかよくわからなかった。
「英里子は高校の頃から部長と結婚するって言ってたのよ。あんたも知ってたじゃないの」
そう返したのは西田ナミであった。何だったか、名前の漢字がうまく思い出せない。西田と林田はあの頃から仲は良かったというのはおぼろげながらも思い出せる。
「いや、知ってたけどよ。アレはアレだろ? 幼稚園生の幼なじみが『おっきくなったら誰々と結婚するんだぁ』ていうのと同じやつだと思ってたからさぁ。てっきりどうせ違う大学行って、それぞれが飽きちまって別れるお約束のコースだと」
「ところがあんたの目論見通りにはいかなかったみたいねぇ。てかあんたは今彼女いんの? 卒業してからできた? てか、あんたいま何やってんのよ」
「同時に何個も訊くんじゃねぇよ。ラーメン屋のバイトだよ、それとたまに工事」
「えっ、それってフリーターってやつ? でもなんだろうね、うん、納得」
「ちなみに彼女はいません。募集中でございます」
「それも納得」
「それが先週までいたんだなぁ、それが」
「どうせフラレたんでしょ? 何、図星?」
「やっぱお見通しかぁ」
そう林田が言うと西田が得意げに続けた。
「振った男は大抵、自慢話のように別れた話をしたがるものだかんねぇ。なんなら聞いたげるよ、どして別れたんか。話したいんならね。ま、『人の不幸は蜜の味』って言うし、他人の痴話ばなしほど面白がって聞ける話もないからねえ。当人たちはそれどころじゃないんだろうけど」
「全く同感だな」
と二人の会話にさっきから黙って外の風景を眺めていた三田が割り込んだ。三田は下の名前は確か、良だったか。他の部員とは卒業からも何回かばったり会ったりすることはあったが、三田とはまさに六年ぶりだ。あのころは髪の毛をベリーショートのソフトモヒカンにしていたのが、今では営業マンのように清潔感あふれるいでたちであった。こういうところに時代の経過を感じる。
「三田はそういえば大橋と同じ会社なんだっけ?」
林田が訊いた。
「ああ。俺としては恥ずかしい話だが、三田は入社二年でうちの営業ナンバーワンになっちまった。それどころか、つぶれかけのうちの会社を三田が建て直したようなものなのさ」
大橋が三田をやや無理に持ち上げるようにして答えた。同期入社としての悔しさや不甲斐なさ、高校時代の部長としての矜持がそこにはあったのかどうかは深く考えたくなかった。大橋と三田は同じ大学に進学したと言うことは知っていたが、まさか同じ会社に就職していたとは知らなかった。
大橋が続けた。
「うちは三別コピーっていう売れないコピー機販売の小会社だったんだが、三田が六段下商事の部長となぜだか知り合いでさあ。そこから六段下の注文は全部うちにまわってくるようになったのさ」
「ほぉ、あの六段下のねえ」
期せずして「ほぉ」なんて声を上げてしまった。六段下と言ったら日本でも指折りの総合商社だ。
三田がさもたいしたこと無いといった風に続けた。
「あの部長は茨城の大洗で知り合った釣り仲間でね。大学時代から知り合いだったのさ。まあ、たまたまだよ」
「そこからうちの会社の業績はみるみる上がっていったんだが、三田はうちの会社の顔みたいになっちまってよ。今はすっかり社長の寵児でさぁ」
「あんまり持ち上げないでくれよ」
「もしお前が消えたらうちの会社は骨抜きさ、多分もうやっていけないんじゃないか。それにおかげで俺の給料も上がってんだ。感謝してるよ。英里子もな。英里子の家は元々そんな裕福じゃなかったから、今の生活が夢のようだと言っているさ。それも三田のおかげだから、家の中じゃ俺の立場がないんだよ」
「そりゃあ言い過ぎだろ。ん、そういや英里子はまだ寝てんのか?」
「寝てっからこんな話してんだろが。起きてたら今頃『何を喋ってんのよ』ってキャーキャーうるせぇよ」
「起きてるわよ」
「はっ」
そういうと吉岡はむっくりと体を起こしながら、前の運転席の大橋の頭をはたいた。よく考えたらもう彼女は吉岡ではなく大橋だったか。まあ、面倒くさいしややこしいからこれからも吉岡と呼ぶが。
「高速降りたあたりから起きてたもんで。まあこっちも寝たふりして聞き耳たててたのも悪かったから。うん、今回は夕飯抜きはなしでいいわよ」
「すっかり尻に敷かれてんなあ」
と三田が大橋を煽る。高校時代の部長も今はすっかり一児の父で奥さんにいびられてるんだと思うと時の流れをつくづく感じる。
「いつもそんな罰なんてないだろ。嘘をつくな」
「いやー。久々にみんなと会ったらテンション上がっちゃってさあ。子供の世話も焼かなくていいし、割と気分いいのよ。いま私」
「なら寝ねんべな、普通」
大橋、方言でてるぞ。
「実は最初からずっと寝たふりだったりして」
こんな風に夫婦の掛け合いを聞きながら、この二人も相変わらずだなと少し高校時代の日々を思い出しそうになった。だがすんでの所で踏みとどまった。高校時代の思い出などたいしたものは俺にはなかった。
「そういやお前、会社辞めたって聞いたけど、本当か。今何やってんだ?」
と出し抜けに林田に訊かれた。少しの間逡巡したが、隠しても仕方が無い。馬鹿にされそうだったから自分からは言わないでおいたのだが。
「事務所を開いたんだ。探偵の」
無駄な倒置法で答えてしまったのは、今の時代に探偵を名乗る気恥ずかしさからか。もしくは海なし県民が海に来て浮かれているからなのだろうか。
駐車場が乗用車二台しかおけない小さな民宿に着いた。
玄関を入ると左側に客室が三部屋あった。手前から101号室で、つきあたり一番奥が103号室。玄関正面には二階に続く階段が。二階には一階と同じように部屋が三つあるだけとのこと。玄関入って右が食堂で奥が厨房。そして階段右の廊下を進むと、階段の下にトイレがありさらに廊下を進むと浴室があった。外の看板には「民宿山下」の文字。
荷物を置くと近くの海水浴場にでも泳ぎに行こうかという話になった。玄関を抜けるとき民宿の台帳に三田がメンバーの名前を書いていたのが目に入った。
目に入った西田奈深の文字。そうか。西田のナミの漢字は奈深と書くのであった。今思い返すとつけた親の趣味が悪い名前である。奈落のように深い穴。そんな連想をさせる陰気な名前をどうして忘れていたのだろうか。あの頃は他人の名前なんかに興味が無かったからかもしれない。
ライトバンに再び乗り込み、さきほど来た海岸沿いの道を少し引き返す。十数分前に通り過ぎたところの海岸で車は止まった。民宿に着いたときから感じていたが、海岸に着くとずっと感じていた既視感が何も不自然なものではないことを確信した。
ここには来たことがある。
「そりゃあそうだんべな。高二の時の部活の合宿場所だったからわざわざここに来たんじゃないか。電話で言ったがな」
ライトバンの荷台の前、浮き輪に空気を入れている大橋に、ここに来たことがあるような気がすると話しかけてみると当然のように言いかえされた。他の連中はさっさと浜辺の方に行ってしまった。僕と大橋がじゃんけんに負けて浮き輪やらシャチやらの空気を入れる羽目になった。
「そうだっけか。良く覚えてないな。寝起きだったからな」
「まあ懐かしいんべ。あのときは合宿最終日の夜にこっそり抜け出して、先輩方に連れてきてもらっただけだからあんまり覚えてないかもしれないが、この浜は。そういやあの時お前、確か海に入らなかったけれど今日も入らねぇのか」
「いや、水着があれば入るんだけど。お生憎様で、今日もパスしとくわ」
「そっかい」
大橋は一度息を吐き、浜辺の方を見やった。つられて俺もそちらの方を向いてしまった。浜辺では西田と林田がパラソルを立てていた。
「それにしてもさ、変わってねえよな」
腰に当てていた手を下ろし大橋がこちらに向き直りながら話しかけて来た。
「六年くらいじゃこんな浜辺、変わらないだろうね」
僕の返しが的外れだったのだろう。少し笑いながら大橋は、
「いやいやお前がだよ。自分は使いもしない浮き輪に空気入れているところとかさ」
夏の終わりと言うこともありクラゲがかなりの数いたらしいが、誰もさされずにひとときの海水浴はお開きとなった。僕はというと磯で蟹を探していたがいるのはフナムシくらいのものでたいした収穫はなかった。どうやって獲ったのかは知らんが、林田がタコを捕まえたらしい。キャッチアンドリリースしてやったらしいが、どうせ夕飯は民宿の厨房を借りて作るのだからその食材にすれば良かったのにと思う。
皆は今、交代でシャワーを浴びている。海で体にまとわりついた砂を落としているのだ。僕は海に入っていないからその必要も無く、割り当てられた民宿の101号室、玄関のすぐ横の部屋でつれづれとしていた。
窓の外にはもう沈んでしまった夕日の残り香のような朱が、藍色に染まりつつある西の空の端をかすかに汚している。夕日を見るのはわりかし好きだ。だが真っ赤な夕日の反対側の東の空、地平線から天頂にかけて広がる控えめな薄赤紫色から紺碧のグラデーションをぼんやりしながら眺めるのが一番良い。生憎西向きのこの部屋からは派手な夕日のパフォーマンスしか拝めなかったが。それでも水平線に沈む夕日は飽きずにずっと見ていられた。
「そろそろご飯作るよ。藤生君も出ておいで」
廊下を歩く足音がしたかと思うと、西田のわざと作っているような高い声が聞こえてきた。西田はたしか隣の隣、廊下の突き当たりの103号室だったか。俺と西田だけが一階の部屋で残りの四人は二階の部屋を使っているようだ。
「あーい。今行くよ」
そう言って立ち上がりドアを開ける。廊下には海に入っているときとさほど変わらない露出度のブラトップにショートパンツの西田がいた。足にはビーサンをつっかけている。
「もうみんないるよ」
「そういったってどうせ大橋夫妻がほとんど料理作るって話だろ」
「まあいーじゃん。高校時代から部長、弁当いつも自分で作ってたらしいよ」
それは知らなかった。自分からそんなことを言うようなやつだとも思えないから納得ではあるが。
食堂に入ると林田と三田が席について談笑していた。椅子は錆がところどころ目立つパイプ椅子だった。一応ブラウン管の狭いテレビ画面がついてはいたが誰も見ていない。民宿のおばちゃんは、「今日は好きに使ってくれ」といって近くの友達のうちに泊まりに行ってしまったらしい。三田が浜辺からの帰りの車中にそんなことを話していた。
男どもはみな短パンにTシャツというラフな格好だった。厨房の中の吉岡はエプロンをすっかりきこなし、まるで違和感がない。
林田と三田に混じって席に着く前に、夕食はどんなものかと厨房にお邪魔した。すっかり今では奥さんの吉岡が、お玉片手に鍋の様子をみている。その隣では大橋が、腕時計の日焼け跡の残るその太い腕で大型の料理ばさみを繰りながら鶏のむね肉をさばいていた。
「吉岡。家でも大橋はいつも料理作るのか」
小皿にスープをとって色の薄い鍋の味見をしている吉岡にそう訊ねると、
「諌男が休みの日は割と凝ったの作ってくれるのよ。先週は豚の角煮でその前はキッシュだったかな。晩ご飯にキッシュは違うと思うんだけどね」
「これでもこいつ、夫してるんだなぁ。んで今日の夕飯は?」
「鶏の唐揚げだ。ありきたりで定番だが、定番だからこそ外したりしない。嫌いなやつもいないだろ」
「そりゃ楽しみで」
厨房を出るときに吉岡のちらっと鍋の中を見たがどうやらポトフらしい。
正直に言うとメインの料理は吉岡が作ったのが食べたかった。
食後、またじゃんけんで負けた俺は同じく負けた林田と皿洗いをしていた。林田が、洗剤をつけたスポンジで食器をこする度に「界面活性。界面活性」と念じながら洗っていたのが気になった。彼なりの冗談だったのかギャグなのか。少し俺には難易度が高かったようだ。どうやって反応すれば良いのか困ってしまった俺はひたすらに食器を水ですすぎ続けた。ひととおり洗い終わると林田が「あぁ終わったー」と伸びをして、食堂の方に歩いて行った。俺も最後に包丁についた泡をすすぎ終わると食器かごに入れ、厨房の暖簾をくぐって食堂にでた。
食後から席には三田と大橋が着いていて小さなテレビで民放のバラエティを見ていた。
「あれ? 女性陣は?」
林田が椅子を引き、腰を掛けながら訊いた。
「西田は部屋で休むと言って戻ったよ。英里子はその辺を散歩してくるらしい」
「そりゃなんとも。華がないね」
「じゃあ。俺も部屋で休むわ」
そう言って俺も早々に退散しようと思ったが、案の定大橋に引き留められた。
「まだ九時じゃないか。話そうぜ」
「今度のプレゼンの資料がまだできあがってないんだよ」
別にどうしてもここにいたくなかったわけではないが、軽く冗談を言って流した。
「探偵が何をプレゼンするんだ」と大橋は笑いながら言って、それ以上は引き留めずに離してくれた。
部屋に戻る前に階段脇にあるトイレで用を済ませた。民宿の宿自体はきれいではないがトイレのペーパーがダブルであった。こういったところにおもてなしの気概が感じられ、なかなか好感がもてる。ただ便座に座ったときに膝頭がドアに接するというのは少し狭過ぎはしないか。それに芳香剤もいささか効き過ぎだ。
トイレから出ると西田が待っていた。俺と入れ替わりで彼女はトイレに入った。
101号室の前まで来ると隣の102号室の入り口がベニヤの板で封印されているのが目に入った。はて、七年前はこうだったかな。ドアノブも付いていない。中でなにか曰くでも付くようなことがあったのであろうか。地元のカラオケボックスではこういった開かずの部屋を見たことはあるが、宿泊施設となると初めてであった。幽霊などいないと信じてはいるがやはりいい気持ちはしない。
するとトイレを済ませた西田が横を通りかかった。
「前からこんななってたっけ?」
と102号室のベニヤ板について訊いてみた。
「覚えてない」
素っ気なく返されるばかりで西田はすぐに部屋に戻ってしまった。
自分の部屋に入ると早速蒲団を敷いた。今すぐ寝ようと思っていたわけではなかったが。あまりに無骨な部屋に少しでも色を足したかった。壁には何故か知らないが『笛を吹く少年』の複製画が掛けてあった。たしかこれを描いたのはモネだったかマネだったか。
すると民宿の玄関から、三田と大橋が出て行くのが見えた。たしか吉岡は散歩に行ったと言っていたから大方二人も散歩にでも行くのだろう。それと同時に食堂を出て階段を上がる足音が一人分、聞こえた。
部屋にいてもやることがない。俺も部屋に戻らないで散歩にでも行けば良かったなと思った。だが道ばたで吉岡や大橋に出会ったら何を話せばいいというのだ。できることなら高校時代の記憶などずっと思い出したくなかったのだ。 やはり来なければ良かった。
「寝よ」
そう誰にでもなくつぶやいて、電気を消して着替えもしないで蒲団にくるまった。
床についてから一時間くらい経っただろうか。寝れるわけがなかった。クーラーのない部屋は暑かった。だがそれだけではない。ずっと目をつむっていたが悪い思考は歯止めがきかず火の車のように頭の中でぐるぐると回り続けていた。端的に熟語で表わすならば、どうしようもない劣等感。
高校三年、弓道部最後の大会の団体戦。別に強豪校でもなかったうちの部活は最後の大会は最上級生が出場するのが慣習となっていた。最上級生の弓道部員は六人。団体戦の枠は五人。その五人のメンバーから唯一、漏れたのが俺だった。傍目から見ればそれだけのこと。それだけのことでずっと苦しめられてきた。せっかく忘れかけていたというのに、やはり五人の俺に対する扱いは六年前卒業したときから大して変わっていなかった。あまりこいつらとは一緒に居たくなかった。居ても劣等感や疎外感を感じるだけなのだ。そういった感情は勝手に俺が思い込んでいるだけかもしれない。だがそんなことが問題なのではなかった。
少し頭を冷やそうか。
一度蒲団からでて洗面所でコップ一杯水を汲んできた。最初は飲もうと思ったが、中の水を自分の頭からかぶった。文字通り頭を水で冷やしたのだ。そしてコップは「笛を吹く少年」の複製画に目一杯の力で投げつけた。だが額縁の枠を外れて灰色の壁に当たって虚しい音を立てて割れた。はぁ、また物に当たってしまったか。俺の悪い癖だ。
乾いた「ガシャン」という音で少しは俺も冷静になった。
二分くらいぼーっとしていた。ガラスの破片を片付ける気は起きなかった。
散歩に出ていた三人は蒲団にくるまっている間にそれぞればらばらに帰ってきていた。外から人がやってきて階段を上がる音が間を置いて三回聞こえたから間違いない。
一人目が帰ってくる前に、二階から一度林田が降りて来て風呂にでも入ったのか食堂でテレビでも見ていたのか知らないが直にまた階段を上がっていった。そして三人戻ってきてから一度だけ、誰だかわからないが二階から降りてきてまっすぐに西田の部屋に向かった人間が居た。五分位してまた部屋を出て階段を上がっていった。だれだろうか、西田に用があるとすれば女どうしの吉岡だろうか。まあそんなことはどうでもいいか。
すると唐突に階段を降りる音がして足音が食堂の方に向かった。かと思うとすぐ俺の部屋の前に来た。ノックもなしにドアを開けると、
「どうしたの? なんか割れる音がしたけど」
吉岡だった。夕飯の時に食堂で会ったときと同じシャツを着ていたが、暑いのか下は短パンになっていた。
「ああたいしたことはないんだ」
といいながら顔からたれてくる生ぬるい水を拭った。
「何で濡れてるわけ」
「暑いから、水を浴びたんだ」
「だからってどうしてグラスが粉々になってるのよ?」
「説明すると長いんだ」
なかばふざけるようにしながら応対していると。吉岡は怪訝そうな顔をした。
「ん? それよりもあんた、何かおかしいと思わない?」
何のことだ。口調からすると俺におかしい部分があるわけではないらしい。いや、どう考えても他人から見れば俺はいまおかしい状況にあるのだが。
「奈深は? 普通となりから『ガッシャーン』ってあんな大きな音がしたら様子を見に来てもおかしくない? てっきり、いると思ってきたんだけど」
「寝てるんだろ」
そういうと吉岡は心底あきれたというような顔つきになり、
「まだ10時すぎよ。あんたはともかくあの子がこんな時間に寝る子に見える?」
と。ついさっきまで俺だって寝ようとしていたさ。そう答えようとした。するとだが何かを思い出したかのように吉岡は眉間にしわを寄せて左下を睨むようにした。がすぐに、ずかずかと俺を押しのけ部屋に入ってくるなり窓を開けて右を向いた。
「電気付いてる」
吉岡はそうつぶやき、「ついてきて」と俺の手首を掴み西田の部屋103号室の前まで行った。右手首を掴む吉岡の腕は妙にこわばっていた。
「開けて」
そう言う声は震えていた。さすがの俺も吉岡の、このただならぬ雰囲気には少し気圧された。だが吉岡は何か知っているのではないか、心当たりでもあるのではないか。そう思った。
「開けるぞ」
俺は覚悟を決めて西田の部屋のドアノブを回して中に押した。
西田の部屋も俺の部屋と同じく蒲団が敷いてあった。だが違ったのは蒲団が赤い血に染まっていたこと、そしてその上にうつぶせになり、両手を後ろ手で縛られた状態の西田が倒れていたことだった。背中には包丁が刺さっていた。
「キャーー」という吉岡の声が響く。
かと思ったら吉岡は案外冷静だった。いっぱしの専業主婦が友人の死体をみても驚かないはずはない。叫ぶ段階を通り越しているのかと思ったらそうでもないらしい。この部屋の中がこうなっていることが途中からわかっていたかのようだ。
そして何よりも吉岡の冷静さもさることながら、自分の冷静さにも驚いた。いや俺のは吉岡のとは違う、言うなれば絶句に近い状態か。だが体は動いた。一応、探偵と言うこともあってか感情的にならないように努めた。
包丁は西田の背中の左寄りに西田から見て右斜め後ろから深々と刺さっていた。おそらく右手で刺したものと思われる。心臓を裏から捉えたのだろう、苦しんだ形跡がない。そして口には猿ぐつわがされていた。だがその手ぬぐいもいまは口から吐いた血で染まっている。加えて血はまだ完全には固まっていなかった。それもそうだ、1時間半前にはみんなと一緒にから揚げをつついていたのだ。それに一時間前にさっきトイレですれ違った。
吉岡の方を見ると両手で肩を抱いて床にへたり込んでいた。さっきまではそうでもなかったのに今はなんだか怖がっているようにも見える。
脇を抜け少し歩き厨房に入ると食器かごの中を確認した。やはりさっき洗った包丁が消えている。西田に突き立てられた包丁は、元々民宿にあったものでさっき俺がすすいでやったやつに間違いないだろう。
部屋に戻ると吉岡が頭を抱えていた。明らかに様子がおかしい。
「吉岡。お前何か知ってるのか?」
「し、知らない。誰も」
「誰も? ってお前。もしかして犯人知ってるんじゃないか」
「知らない! 知るか! 知らないって言ってんでしょ! 何回も言わせないで」
珍しく感情的になったこの吉岡の反応をどう捕らえるべきか。明らかに初めて死体を目にした女の反応とは言えない。それに犯人に何らかの心当たりなりがありそうだが。
おそらく犯人は俺がふとんにくるまっている間に西田の部屋を訪れた人間だろう。足音からして西田の部屋に行くには俺の部屋の前を通らなくては行けない。俺の部屋の前を通った人間は一人しか居なかったはずだが。俺は今までの一時間の外の様子を思い出した。
――――なるほど、そういうことか。それは吉岡が言いたくないのもうなずける。
俺は吉岡から離れると血に染まった蒲団には触れないようにしながら、カッと見開かれていた西田の目を閉じてやった。本当は警察が来るまでこんなことはしない方が良いのだろうが。
俺は努めて柔らかく吉岡に言った。だがそれでもその言葉は吉岡にとっては深く突き刺さってしまうのだろう。
「それはしつこくて済まなかった。ところで、俺には犯人がわかったんだが」
了
Q.西田を殺した犯人を一名指名してください。
条件
・共犯ではありません。犯行は単独、一人によるものです。
・冒頭の「犯行」の章は犯人の一人称視点、西田を殺した際のものです。
・語り手の藤生は犯人ではありません。
・大橋英里子(旧姓吉岡)には犯人が誰であるか心当たりがありますが、その人物は正しい犯人です。
問題編は以上です。
探偵は語り部の藤生です。したがって藤生の感知した情報、要するに書いてあることだけで犯人にはたどり着けるはずです。最後まで読んで頂いた方で、なお暇な方は犯人が誰か考えてみると面白いかもしれません。解答編も連載形式で載せますので、そちらもどうぞ。