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ピンポンと玄関のベルがなった。奥にいる母が叫ぶ。
「奈緒、きっと聡くんよ。早くしなさい」
「はあ~い」
わかっている。けど、帽子が見つからない。この夏に買ったばかりのお気に入りの白い帽子。後ろにひらひらの長いリボンがついていて、つばの広い布製のものだ。折りたためるし、なによりも首の後ろがすっぽり隠れるから。
母は今日は休みだから、家じゅうの掃除をすると息巻いていた。いつもは駅前の大手の薬局で薬剤師をしている。さっきまで掃除機をかけていたのに、もう今は昔ながらのほうきを手にして、床を丁寧に掃いていた。
「そうそう、玄関にいただき物のゼリーの詰め合わせを出しておいたから、あれをお友達に持って行って。うちじゃ、食べきれない」
「うん、わかった」
私はそう返事をして部屋を出た。
諦めた。他の帽子にする。
階段を下りて玄関のところにある風呂敷包みを見た。母の用意してくれたゼリーの箱詰め。
もう夏休みの半ば、まだまだ暑い。
先日やった肝だめしから、十年前に自殺した音楽教師の遺書が見つかり、それがおおやけになって、地元の新聞に載ったりした。それを発見したのは二人の高校生と書かれただけで、私達の名前は載ってはいなかったが、噂から友人たちの間では私と聡ということがばれていた。
でも、ただ、ピアノの鍵を見つけたということだけで、それらを誘導する不思議な声が聞こえたとか、母のところにその霊が現れたということは聡しか知らない。
それなのに、なんとなく周りから、私は難事件や不思議な話を解決できる探偵のような噂になっていた。
昨日もクラスの子から不思議な現象についての相談の電話があった。そんなんじゃないのに。
今日は夏期講習で知り合った塩崎美咲のところへ遊びにいく。高校は別だが、美咲とは気が合い、ずっと連絡をとっていた。
新学期が始まるとお互い忙しくなるから、その前に遊びにこないかと誘われ、早速お邪魔することになった。二人でガールズトークを楽しむつもりでいたが、なぜか美咲はあいつも誘っていた。
里中聡、小学校からの腐れ縁。美咲にも学校の友人たちにもボーイフレンドだと思われている。
私は玄関を開けた。
「よっ」
そこにはいつもの見慣れた笑顔があった。連日サッカーの練習をしているらしく、その笑顔が段々真っ黒に日焼けしていく。人間、どこまで黒くなれるのかっていう挑戦なんだと思う。
「ごめん、待たせて」
靴箱の上にのせられたゼリーの風呂敷包みを手にすると、その下に探していた帽子を見つけた。
お母さんたら何も気にしないで、私の帽子の上にこんなものを置くから見つからなかったのだ。かなり大雑把な母に苦笑した。私もこんなところに置きっぱなしにしてたからいけないのだが。
私はぺしゃんこになっている帽子の形を整えてそれをかぶった。
「じゃあ、行ってきます」
奥にいる母に叫ぶ。
「いってらっしゃい。聡くんに、今日ご飯食べていってって言ってね」
二階の方からそう声がした。
「はぁい」
私達は自転車で出発した。
「帽子が見つからなかったの」
言い訳のようにいう。
「そうか、最近、そればっかりだね」
「うん、気に入ってる。これって・・・・・・」
私はそこまで言いかけて口をつぐんだ。
ぼんのくぼという、後頭部の辺りをすっぽりと覆ってくれるからだ。肝だめし以来、後ろ、特に首筋が気になるようになった。これをかぶっていると、今まで無防備だった首や肩までが守られているような安心感がある。長くしている髪をおろしておけば問題ないが、今は暑いからポニーテールにしていた。
「首の後ろが陽に焼けないでしょ」
聡は私の霊感を知っているけど、すべて言う必要ないかなと思ったから、そう言って誤魔化した。
「おばさん、今日は家にいるんだね。珍しい」
「うん、夏の大掃除なんだって。今頃、家じゅうをほうきで掃いてるよ」
「今時ほうきか。古風」
「うちのお母さんなんだよ。普通の目的で掃除するわけないじゃない。掃除機かけてから、それからほうきで家の中にたまった念とか邪気を掃きだすんだって」
「ほうきで?」
「うん、ほうきが一番、そういうものを追い出しやすいって言ってる」
聡は、宙に得体のしれないモノを見るように目を丸くして、「うへぇ」と言った。
「そうそう、今夜はうちでご飯食べていけって言ってた」
「おお、サンキュ。おばさんの手料理はうまい」
聡の顔がほころんだ。
聡は私が持っている手土産を見て、自分が手ぶらなのに気づいた様子。そんなこと気にしなくていいのに、何も持たずに訪問することは非常識だと思ったのだろう。
「オレ、そこの店で三人分のフラッペチーノ、買ってく」
そう言って、美咲の家の近くのコーヒー店へ入っていった。
なるほど、そういう手土産もありなのだと感心した。聡は、それを箱に入れてもらったようで、小箱を手に出てきた。ゆだるような暑さだ、急がないとすぐに溶けてしまう。
美咲の家は、閑静な住宅街の奥にあり、様々な木の生い茂った広い庭を持つ古風なつくりの家だった。たぶん、随分昔からこの土地にある家。
「暑かったでしょ、さあどうぞ」
美咲は笑顔で迎えてくれた。確か夏期講習の時、肩までの茶髪だったけど、今は真っ黒なショートヘアになっている。それを指摘すると、暑いし、ついでにもうすぐ学校だから、遊んだ髪を元に戻したの、と笑った。
通された応接間はクーラーが効いていた。汗ばんでふやけそうだった肌がシャキッと引き締まっていくようだ。
よく手入れされた古い家だと思ったが、応接間はやけに新しい。後から増築されたとわかる。和室の畳の部屋と洋室の床張りの部屋が隣り合っていた。襖を開けるとその空間がつながって広く使える。
「広いんだね」
「うん、クーラーがちゃんと効く部屋ってここだけなの。ソファにどうぞ」
私達は勧められるまま、ソファに腰掛けた。美咲は和室の襖を閉める。
「こうするともっと冷房が効きやすいの。この家、古いでしょ。他の部屋は外からの熱が入ってきちゃって冷房、全然きかないの。だから、寝苦しい夜はこの部屋で寝ちゃうこともあるんだ」
美咲はキャラキャラと笑った。
「今夜は父と母は親戚の家に泊まりで出かけてるし、姉はいつも夜遅いのよ。だから、気兼ねなくゆっくりしていってね」
そう言ってくれた。
美咲は、あの時の肝だめしの話から、どうやってピアノの鍵を見つけたのか、遺書のことなどを聞いてきた。美咲もあの時に一緒にいたのだから、その疑問は当然だ。
「あの時、鍵なんて見つけるそんな余裕、全然なかったじゃない?」
そう、あの時、暗闇の中で「鍵」と言われた瞬間、あのピアノが音をたて、皆が悲鳴を上げて逃げ出していた。もし、私が鍵を見つけていたら、その前に騒ぐだろう。他の人は騙せても美咲は誤魔化せないと思った。それに美咲に嘘をつくのはいやだった。
「実は、私、ちょっと霊感があるの。だから、その遺書を見つけてほしかった音楽の先生の霊が私にアプローチしてきたわけ」
つい私は母の霊感のことまで話してしまった。美咲は別の学校だし、母とはたぶん顔を合わせないだろうから、言っちゃっても大丈夫かなと思った。
美咲は心底驚いているようだ。
「本当にそういう世界があるんだね。あの時、私が奈緒を誘わなかったら、お母さんもそんなことにならなかったのに・・・・」
申し訳なさそうな顔になる。
「あ、でもそれで一人の霊が浮かばれたんだ。それはそれで人助け・・・・じゃなくて、霊助けになったし、なあ」
聡が取り繕うようにそう言った。
「うん、お母さんは全然気にしていないから大丈夫」
本当はあの後もネチネチと嫌味を言われていたけどね。