誰かが家の中を歩く
けど、私は二時ごろに目が覚めた。
しんと静まり返った家の中で、足音を聞いたからだ。誰かが玄関から入ってきていた。廊下を歩く足音がする。迷いもなく、階段を上がる。とんとんという時計の秒針のようなゆっくりとした足取りで上がってきていた。
誰? こんな夜中に誰が・・・・・・。母がお手洗いに行ったのだろうか。トイレは二階にもある。ならば、父が水を飲みに下へ行き、上がってきている足音なのかもしれない。
そうであってほしい、そう思った。
けど、その足音は二階の私の部屋に向かっていた。その足音が近づくにつれ、私はふたたび、あの音楽教室で味わった恐怖にまとわりつかれていた。冷たい汗が吹き出る。身動きできないでいた。起き上がって、その足音の主は誰なのか確かめることもできない。体を動かせたとしても、そんなことできない私なのだが。
怖いという恐怖の念に手足が憑りつかれて動けないでいるようだった。
ソレは、私の部屋の前で一度足を止めた。ドアの向こうにいる誰かの息づかいが聞こえるかのようだ。あっちも私の様子を探っているかのよう。
私の鼓動までが聞こえてしまうと思うほどに胸がどきどきしていた。
しかし、その足音は再び歩き出した。そして隣の寝室、父と母の部屋の方へ向かった。やがて、その前で足音は消えた。
やはり、父か母が水を飲みにいったんだ。きっとそうに違いない。
そう思い込むが、私はその誰かが戸を開けていないことに気づいていた。
そのまま寝入ったのだろう。いつのまにか日が昇っていた。朝だ。
夕べの足音はなんだったのか、考えながら下へ降りていった。あれは絶対に夢じゃない。それだけしっかりした足音だったのだ。
台所へ入る。もう食卓には出勤する父が朝食をとっていた。
「おはよう」
父は、「おお」とも「ああ」ともつかないような曖昧な返事をしていた。
「おはよう」
母が私に顔を向けた。その顔を見て、私は驚いた。
母は、四十ちょっとだが、六十歳くらいの老婆のような顔をしていた。目の下に隈があり、顔色も悪い。最近気になり始めた皺が濃くなっている。
「夕べ、ちょっと眠れなかったの」
さらに私は母の首のスカーフをみた。それは暑い日の朝には異様に見える風景だ。
「ああ、これ」
母はちらりと父を見た。父も淡々と口を動かしているが、チラチラとこちらを見ていた。
「出たんだってさ、ゆんべ。俺が隣で寝ていたっていうのに、幽霊が」
「えっ」
苦笑いをする母。
「夕べね、三十歳くらいの女性が私の胸の上に座り込んで、私の首、絞めてたの」
ものすごい話を淡々という母にも驚いた。
「え、だって、夕べ、家の中を歩き回っていたのって、お父さんかお母さんじゃなかったの」
二人は顔を見合わせ、首を振る。
「足音がしてたんだ。知らなかった。苦しいから目を開けたら、ものすごい形相の女の人が私の首、絞めていたの。そして鍵っていうんだけど・・・・」
「あっ」
私は玄関のところに置いたピアノの鍵を手にし、母に見せた。
「たぶん、これのことだと思う」
私は夕べの肝だめしの話を全部、母に話した。それで母も納得したらしい。
玄関の真上に母たちの寝室がある。それも関係していたらしいが、彼女は私よりも母の方を選んだらしかった。
「誰かにわかってもらいたかったのね。その鍵の意味を伝えたかったんでしょ。私の方が敏感だし、きっと奈緒だったら、怖がってばかりで何も聞いてもらえないと思ったのかも。だって、もし、その幽霊が奈緒の首を絞めたら、絶対にその教室へは足を踏み入れないでしょ」
それはそうだ。冗談じゃない。幽霊は伝えやすい母の方を選んでくれた。何かしてほしいらしい。
「じゃ、どうすればいいの」
「とりあえず、そのピアノの鍵を使って開けてみたら? もしかするとそれだけで気がすむのかもしれない。死ぬときにピアノに鍵を掛けたせいで、誰にも弾いてもらえないと心配しているのかもね。その後、その鍵はお寺さんに持って行って供養してもらった方がいいと思う」
私はまたあそこへ行くのかと、胃が縮む思いだったが、聡に来てもらおうと決意した。それに母がブツブツと文句を言うからだ。
「また私のとこに出られでも困るのよ。お父さんは全然気づかないで寝てるし、なんか私だけが損してる気分」
「ごめん、お母さん」
「まあいいわ。私でよかった。あんな思い、久しぶりだったから」
そんなことに慣れている母。それも頼もしい。
私は早速、聡に連絡をした。夕べのことを説明して、昼間またあの音楽室に一緒に行ってほしいと言った。聡は部活のサッカーの練習があったが、その昼過ぎに抜け出せると言った。それだけ私の声に、必死な感情が含まれていたのを感じ取ってくれたのかもしれない。