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今度は猛烈な怒りが、私の中に沸き起こっていた。
「お母さんっ、なんでよっ。あの時、気づいてたでしょ。私のスマホ、どうして持ってきてくれなかったの」
しかし、母は答えない。まるで聞こえていないかのように、無視されていた。
「ひどいよ。聡にも連絡できなかったし、どうしよう。きっと怒ってる。みんな、私のこと、怒ってる。それってお母さんのせいっ」
今まで母にそんなことを言ったことなかった。けれど、腹の底からこみ上げてくるような怒りをどうすることもできない。
私は思いつく悪口雑言を母にぶつけていた。
しかし、母はそれにまったく反応してこなかった。
今度は不意に悲しくなった。
スマホがない。私のベッドの下に転がっているはずだ。
あれがないと私は友人たちと繋がれないからだ。私だけ仲間外れ、みんなは今頃、共通の話題で盛り上がっているだろう。私だけ知らない、入れない世界になってしまう。
早くそれに追いつかなきゃ、みんなの輪に入ることができなくなる。
そんな焦りと次々と襲うネガティブな感情。私は今、この世で一番不幸な高校生となっていた。
涙が出てきた。自分でも驚くほどに涙が出てくる。
号泣していた。辺りかまわず、身をもむようにして大声をあげて泣いていた。そうせずにはいられなかった。小さな子供が、ああ~んと声をあげて泣く、そんな姿だった。
そんな私に、運転している父が驚いて、こっちをちらちら見ていた。
しかし、母は涼しい顔で私の肩をしっかり抱いてくれていた。それだけだ。慰めようともしない。
「おいおい、奈緒、大丈夫なのか」
父はかなり心配になったらしい。私の頭がおかしくなったのかと思ったのだろう。
喜怒哀楽が激しく現れていた。
「大丈夫。これは浄化しているの。自分の内に溜まっていた毒を吐きだしている。だから、気にしないで。出すだけ出してしまわないとね」
初めは、スマホのこと、そして友達のことを考え、不安になって怒り、泣いていた。けど段々、どうでもよくなっていた。それでも泣き続けていた。もうなぜ泣いているのかも思い出せないくらいに、子供のように恥もなく、泣いていた。
父の車が、海のすぐ近く、山を背にした古い旅館の駐車場へ入っていった。
今夜の宿だ。ここは小さい時からよく泊まりにきていた。母たちは常連だった。
もうその頃には、私の発作のような涙もおさまっていた。まだ、ヒックヒックとしゃくり上げていたが、ものすごく頭がはっきりしている。もう私は母に支えられれば、なんとか歩くこともできるように回復していた。
母が私の肩に毛布を巻き付ける。パジャマ姿のままだ。恥ずかしい。
車から出た私を潮風が包み込んでいた。その爽やかな風を肺一杯に吸い込む。
車の中の私は、一体なんだったんだろう。まるでなにかに憑りつかれていたような気分だった。
そこまで考えて、私はぎくりとした。
憑きモノ・・・・・・。まさか、まさか、なにかに憑りつかれていた?
旅館の部屋に入る。
母が、部屋担当の仲居に事情を説明して布団を敷いてもらった。
母たちはすぐに喪服に着替えて法事に出なければならない。
「いい? 夕方には戻る。それまでおとなしく寝てるのよ」
「わかってる。ってか、どこにも行かれないじゃん。それにパジャマだし。お母さん、帰りに私の着替えの服、買ってきてね」
「ああ、そうね。お母さんの好みでいい?」
「うん、任せる」
母がやっと安心したように笑った。
母たちが慌ただしく着替え、出て行った。私は旅館の一室に取り残された。けど全く不安はない。むしろ、その一人ということが楽しくもあった。
ふかふかの布団、ものすごく気持ちがいい。古風な旅館だから、天井の木目が様々な模様を描いている。それを見て、なにかの形を想像しながら遊んでいた。ここは不思議なほど落ち着けるところだった。母たちが好むのがわかる気がした。叔母もそういう系だったから、一年に一度くらい、この旅館に合流して楽しんでいる。だから、ここは癒される場所なんだろう。
時々、母と同じくらいの年齢のやさしそうな仲居が様子を見に来てくれた。
「ご気分はいかがでしょうか」
優しい笑顔。ほっとした。
おにぎりとすまし汁を持ってきてくれた。体を起こしてもらって、それらを平らげた。そう、ものすごくお腹が空いていた。
そして再び横になる。
私は、当たり前のことをいまさらながら、幸せだと実感していた。
ふかふかの暖かい布団に寝ること、お腹が空いたときに食べる米の味、出しのきいたおいしいすまし汁。そしてすべてに安心してウトウトするということ。私はいつのまにか、ぐっすりと眠っていた。
ふと、目が覚めた。部屋の中はもう暗くなっている。考えるより先に体を起こしていた。
いつものように起きてから、あ、私は朝、体を動かすことができなかったんだ、ということを思い出していた。
もう元通りになっていた。いや、それどころか、体調はもっと良くなっている気がする。
最近ずっとよく眠れていなかった。いつも頭のどこかが痛み、何かを心配し、イライラしていた。
テーブルの上に手紙がおいてあった。母からだ。
《隣の部屋にいるから》
母がそう書いたということは、私が目覚めればもう回復していると予想しているんだろう。
隣の部屋へ行くとすぐに母が出てきた。私を確かめるように、頭の先から足元までを眺めていた。そして破顔した。
「よかった、奈緒。じゃ、夕食前にお風呂へ行こうか」
「あ、うん。それ、ありがたいかも」
さんざん泣いて、汗をかいていた。顔がごわごわしている。さっぱりしたかった。
その後ろから叔母が顔を出した。
「奈緒っ、久しぶり」
「節子叔母さん」
その後ろには叔父の雄一郎が笑顔を向けてくれていた。
「奈緒ちゃん、大きくなったね」
叔父が目を細めている。
もう身長はずっと伸び悩んでいるが、大人びたという意味だろう。
節子も一緒にお風呂へ行くみたいだった。その用意をしている。
私はちらりとその部屋を見た。あれ、と思う。そこには父の姿がなかったから。
「お父さんは?」
「ちょっと車で出かけてる。もう戻ってくる。そしたらお父さんたちもお風呂でしょう。今夜は奮発して豪華な食事を頼んであるからね」
食事はうれしいが、父だけが出かけていることがどこか腑に落ちない。そう思いながらも、私は母と叔母に連れられて別館にある岩風呂に行った。
母が私の背中に湯を流してくれた。それらが私の内にあった老廃物を流し、消えていった。
母たちが好む湯、場所だと実感していた。癒される。
「奈緒、見違えるくらい大人びたね」
叔母がまたそう言った。
母がヒソっと叔母に言う。
「どう?」
叔母は、私を見た。いや、その視線は私を見ているようで私ではなく、別のものを見ている。
「う~ん、ここにいる間は大丈夫だと思う」
まだ、私には知らされていないことがある。
「ねえ、なんなの。知ってたら教えてよ」
「ん、夕食後に教えてあげる」
「そうね。私達女性軍、久しぶりに家事から解放され、一緒に寝られるわね」
叔母もうれしそうだ。
「女性軍?」
「そうよ。今夜は叔父さんたちと別、私達は女性だけで部屋分けしたの」
「へえ」
それもおもしろそうだ。まるで修学旅行っぽい。母と寝ることがひさしぶりだった。
後書き
奈緒が猛烈な怒りを感じて心の中をぶちまけ、その次は大声で泣きます。それは浄化だと母親が言いました。
実際には、いろいろな浄化作用があらわれます。声が出なくなった人もいます。
「ワイルド・ボイス」というセミナーでは、体を動かしながら声を出したり、笑ったり、みんなで歌を歌ったりするそうです。抑えつけていた自分の感情を歌によって解かし、本来の自分を問い戻すのだそうです。これこそが、「ありのままの自分になる講座」だと思います。
それに近い浄化を、奈緒は車の中で行ったのです。人は無意識にいろいろとため込んでしまいます。時々、大きな声で笑ったり、発散した方がいいようです。一人カラオケなんかもよさそう。




