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父に横抱きにされ、母もその後をついて階段を下りている様子。
お父さん、ごめんね。私、最近、二キロも太った。重いでしょ。
たぶん、思考の方も鈍くなっているんだろう。不思議と、このままどうにかなってしまうんじゃないかという恐怖は全くなかった。ちょっと不便だなって思うくらい。それでも父のことは心配していた。
お父さん、腰、気をつけてね、って心の中で思った。
外へ出たみたいだった。
爽やかな風を感じる。そういうことを感じるのって、ものすごく久しぶりな感じがした。いつも時間に追われ、風を感じる余裕なんてなかったからだ。もったいないな。
車に乗せられたみたいだ。
その時、母も言った。
「お父さん、腰、気をつけて」
「わかってる」
よいしょとつぶやきながら、私は後部座席に寝かされた。母が私の頭の方へ座った。私は母に膝枕をしてもらう格好になった。
病院へ行くんだろう。
父はすぐに車を発進させる。
その時、ふと聡の顔が頭をよぎった。
聡とは十時から始まる映画の前に、何か食べようって、九時にモールの中で待ち合わせをしていた。
今、何時だろう。アラームで起きるつもりはなかったから、あれはたしか八時になっていたはず。さっさと支度しないと遅れるよ的なアラームだった。
早く聡に電話しないと家を出てしまう。けれどそんな私の焦りは空しく、なにもできなかった。ただ、車に寝かされて、その振動に揺られているだけ。
不気味なのは、父も母も無言だということ。車は何度か信号で止まり、その後、ぐんとスピードをだしていた。高速道路へ入ったらしい。
意外だった。病院へ行くんだとばかり思っていたからだ。
そのまましばらく車を走らせていた。母の膝が少し動いた。
「ふう、もういいわよ。話しても」
母の緊張が取れたらしい。もぞもぞと動いた。私の髪を撫でてくる。
「いったい、なんだったんだ」
父はまるでずっと息を止めていたかのように、深呼吸をした。
「病院へ行かなくていいのか、奈緒、動けないんだろう」
「いいの。たぶん、大丈夫。このまま伊豆へ行く。向こうに着くころには動けると思う」
父は半信半疑らしく、ふぅんと鼻をならす。
けど、それは私が実感していた。もうすでに少し頭がすっきりしてきたからだ。耳もよく聞こえていた。
「お父さん、奈緒が好きなCDかけて」
「おっ、ほいきた」
父が車のCDをガチャガチャと音をさせ、選んでいた。
すぐに車のステレオから、懐かしいアイドルの歌声が聞こえてくる。これって私が中学の時に夢中になっていた歌手だ。今はもう別のグループが好きなのに。
驚いたのは、父がその歌を一緒に歌いだしたこと。少し調子っぱずれで、おかしいが、歌詞をちゃんと覚えているらしい。母がくすくす笑っていた。膝が揺れている。
次の曲も父が歌う。誰かが聞いているということは、すごく嬉しいらしく、ますます熱唱していた。この様子だと父はいつもこれをかけて歌っているらしい。
「もうやだ。お父さんたら、おかしい」
母が笑っている。
「なんだよ。これでもずっと練習してたんだ。奈緒が高校生になってから急に大人びて、もうあまりオレ達と一緒に出掛けなくなっただろう。今回の伊豆には一緒に来るだろうって、これをずっと練習してたんだぞ。一緒に歌えるかと思って」
お父さん・・・・。そんなこと、考えてたんだ。
「でもさ、今回、一緒に行かないって言われた時、正直、寂しかったよ」
気づかなかった。確かに伊豆へ行かないと言った時、父は少し怒っているようだった。そういうことがあったんだ。
「お父さんも子離れ、できないのね」
「うん」
「でも、実現できちゃってる」
「確かにな。でもこんな形では望んでいなかったぞ」
トンネルを何度も抜けていく。目が開かなくても明暗は感じられるし、音の圧迫感が違う。車はスムーズに飛ばしていってるらしい。
父の熱唱は続いていた。
なんだか私も歌いたい気分になっていた。歌えたら楽しいと思う。
あ、ここ、大好きなサビの部分。
その歌のぐんと盛り上がるサビの高音のところで、父の声が裏返った。
私はそれが可笑しくて、吹き出していた。それと同時に目を開いた。ぐ~んと体温が上昇していくのが感じられた。
母が私の変化に気づいた。
「奈緒っ、良かった。少しづつ感覚が戻ってきてるのね」
「うん」
声も出た。すごいと思う。歌なのか、それともお父さんの熱唱のおかげなのか。
「やっぱりお父さんならやってくれるって思ったの。奈緒の波動、すべてが落ち込んでいたのを引っ張り上げてくれた」
「え~、オレの歌声って、そんなに素晴らしかったか」
まんざらじゃない言い方に、私と母はまた笑った。
まだ、体は麻痺していて、動かそうにもいうことは利かないが、回復していることがわかって安心した。
やがて、車の外の景色が変わっていった。山ばかりだったのが、空が高くなり、視界が広がった。海沿いを走っているらしかった。
私は父と一緒に、歌を口ずさみながら、伊豆が近いことを感じていた。
その頃にはもう私の首も動き、手足も動かせるくらいになっていた。母に支えられて、シートベルトと毛布でがっちり固定されると座ることもできた。
よかった。あのまま寝たきりになるのかと思った。あの時は、それほどそういう恐怖を感じなかったが、頭がすっきりしている今、いろんなことを考えてしまう。あの時、あのまま父と母が出かけてしまっていたら、とか、あの動けないままに原因不明の病気として一生を過ごすことになったら、とか。
「あっ」
思わず叫んでいた。
聡のことを忘れていた。
「私、聡と待ち合わせしてた。映画、どうしよう」
スマホもない。きっとものすごく怒っているだろう。
映画なんてもう終わるくらいの時間になっていた。
しかし、母は涼しい顔をしている。
「大丈夫。聡くんのお母さんに電話しておいた。奈緒は急に行かれなくなったからって」
「えっ、でも・・・・」
「私が連絡した時はもう聡くん、家を出た後だったの。けど、ちゃんと伝わっているから大丈夫」
そんな他人事のような言い方だった。私はその言い方に腹をたてていた。
聡は時間になっても来ない私を怒っているだろう。せっかく聡が買ってくれた映画だ。
「ねえ、なんで私のスマホ、持ってきてくれなかったのっ」
少し抗議めいた声を出した。
父がその声に驚いて、運転席から思わずこっちを振り返っていた。
聡にも謝りたかった。他の友達とも会う約束をしていて、映画の後、一緒に遊ぶつもりだったのだ。
きっと私が気まぐれにドタキャンしたって思われてる。だって、昨日まで、いや、夕べまで平気でラインやヘッド・ページに参加していたのだ。それが朝になって動けなくなっていたなんて、誰が信じるんだろう。私でさえ信じられないことをだ。
きっと今頃、ラインでもいろいろ言われているかもしれない。それを確かめて、ちゃんと説明したい。
「ねえ、なんで、私のスマホ、持ってきてくれなかったのっ」
再度、抗議していた。しかし、母は答えなかった。それどころか、私の言っていることが聞こえないかのように知らん顔をしている。それがさらに私の神経を逆なでしていた。




