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聡が先に自転車で走る。私は安心してその後を追った。
嘘みたいだった。聡も私のことを好きだって言ってくれたことがすごくうれしかった。
家へ帰ると母が泣きじゃくっていた。もうこれで安心したからって、聡はそのまま帰っていった。
「よかった。奈緒がいないってわかった時、すぐにあの山のところへ行ったってわかったの。急いで行こうとしたんだけど、私には近づけなかった。ハンドバッグが見つからなかったり、急に目の前で道路が通行止めになったり、車まで突っ込んできそうになって、いろいろなものが私を近づけないようにしていた」
母もあの凄いモノたちが黄昏の入口を求めていたのを感じたらしい。
「だから、聡くんに頼んだの。聡くんに奈緒が嘆いていたこと、全部打ち明けちゃった」
「え、全部って・・・・・・」
私は、かぁと赤くなった。
たぶん母は、私が涙ながらに言ったこと、聡に言っちゃったんだ。
「奈緒、あなたってものすごく波動が落ちてた。特に心の平常を保つところがね。だから、あの子が見えたんじゃないかな。おそらく、あの子があそこにいることに気づいたのって奈緒が初めてだったんだと思う。亡くなってからずっと一人でいて、久しぶりに人に見られ、話ができてうれしかったのね。だからあなたを守ってくれたのよ。感謝してね」
ああ、そうだったのか。それで翼はいつも私の行く手を阻んでいた。その先へ行ったら、私のような霊感のある人は戻れない道に引きずり込まれるとわかったから。
「え、でもお母さん、なんで翼くんを知ってるの。お母さんはあの橋に行ったこともないし、翼くんにも会っていないでしょ」
母はちょっと得意げに言う。
「あの子が私に直接会いに来てくれた。もうすぐ、あなたたちが帰ってくるって報告してくれたの。いい子ね。もう大丈夫だからって」
私は翼のことを思った。そしてあの橋の上から川を見下ろしている女性を思い出していた。
その晩、翼が夢枕に立った。
「お姉ちゃんにはもう会えないよ。でもその方がいい、よかったね。今のお姉ちゃんなら、あの橋を渡っても大丈夫だよ。ぼくみたいな存在にも憑りつかれない」
翼が笑顔でそう言った。
そうか、波動が落ちていたから見えなかったものが鮮明に見えたり、それに惑わされていたのか。
「あのね、一つだけ頼んでいいかな。ぼくのお母さんに・・・・・・」
伝えて欲しいことがあると、翼は言った。
翌日の土曜日。
私は聡に一緒にきてもらい、あの大橋の上へ行った。いつも翼が現れたところに花束を手向ける。
「そこなのか、その・・・・奈緒を引き留めてくれたって子がいたのは」
そうだ、昨日、聡には翼が見えなかった。私がその橋の上に一人で佇んでいたように見えたという。じゃあ、他の人もそう思っていたのか。
「そう、あの吉沢君のことで聡にひどいこと、言っちゃって、あの後、気づいたらここまで来てた。翼くんが急に目の前に現れたの。もし、あの時、翼くんが私を止めてくれなかったら、私、もっと波動が落ちて、見えなかったモノがどんどん見えて、気が狂っていたかもしれない」
聡が息を飲んでいた。
「そんなに・・・・・・、怖いモンなのか」
「そうね、あの時の私って自暴自棄だった。波動が落ちているとそういう低い念に気づかれる。憑りつかれたらなかなかそこから逃れられないと思う」
またあの時の感情が蘇って、私の胸がチクリと痛くなる。聡に嫌われてしまい、ものすごく悲しかった時のことを。
いけない、こんなことを思っていたら、また波動が落ちてくる。過去を振り返らないこと。起こってしまったことはもうどうしょうもないのだ。それをいつまでもくよくよしていては前に進めない。教訓にしてさっさと忘れることだ。
私はその負の感情を振り落すように、にっこりと笑った。聡も笑顔になる。
思い切って橋を渡った。
翼が夢の中で言った。あのお兄ちゃんと一緒なら、絶対に大丈夫だ、って。
そして橋のすぐ近くのアパートに入った。部屋もわかっていた。そして今日、土曜日なら翼の母親は家にいるということもだ。
翼の母親は驚いていた。私が、翼の友達だと言ったから。こんなに年の離れた友達、と思ったことだろう。
でも、翼にお線香を、というと、すぐに家に上げてくれた。
仏壇にはきれいな花と棒つきキャンディーが添えられている。翼が好きだったんだろう。そしてあの、知った顔がにこやかに笑っていた。その写真に手を合わせる。
『お母さんがぼくの死を悲しんでくれている。もう何年も立つのに、三日に一度くらいにあそこへきてくれるんだ。それはうれしいけど、ぼくにとっては少し苦しい。お母さんが橋の上で泣くと、ぼくも涙が出る。苦しかっただろうねって言われると、あの時の苦しみが蘇ってくるんだ』
翼の心を伝えにきていた。
「私、あの橋の上で翼くんに会ったんです。私、少し霊感があって」
翼の母親は目を丸くしていた。でも何も言わなかった。
「翼くん、ずっとお母さんのことを心配して見守っていたそうです。でももうすぐ三回忌だから、あっちの世界へ行くねと言っていました。それをお母さんに伝えて欲しいって。だから、もうお母さんがあの橋の上に行っても翼くんはそこにいないよって、もし、翼くんとお話がしたかったら、仏壇に向かって話しかけてくれれば聞こえるということです。そして、もう全然苦しくないし、お母さんが笑っている顔が好きだとも言ってました」
母親はうつむいていた。いろいろ考えているらしい。
「たぶん、翼くんはあっちの世界へ行ったら、次に生まれ変わる準備をするのかもしれません。別の姿で、記憶もないかもしれませんが、翼くん、お母さんに会いに来る可能性、ありますね」
「あの子が、生まれ変わる。別の姿で・・・・」
母親の顔が少し明るくなったような気がする。
私達はそれだけ言うと出て行った。後は少しづつ母親自身が自分の心を整理していくだろう。供養とは、死者のためでもあり、そして後に残された人達の心の整理のためでもあるのだ。
聡と一緒に、あの山へ上ることにした。
「自分の霊感試しと聡に守られているかどうかの実験」
というと、聡が笑う。
「オレは護符か」
自転車を置き、遊歩道を上がっていった。帰りは長い階段を降りることにしていた。
その山は、森のような深い木々たちに守られている。鎮守の森とでもいうべきか。その中腹に古びた神社があった。私達はお賽銭に百円づつ入れた。やっとここに来られた挨拶だ。そしてすぐに急な石段を下りていく。
「なんでもなかったな」
私より一歩先を降りる聡が言った。
「うん、そうだね」
気が軽くなった。
途中から、聡が手を差し出した。
「ほら、奈緒ってうっかりだろっ。転げ落ちても困る」
少し恥ずかしそうに聡が言った。
「ありがと」
私はその手を握る。
温かくて大きな手だった。それにリードしてくれるたくましい腕。心の中まで満たされるような気がした。小学校の頃は私と同じくらいの背だったのに、いつの間にか私を追い越していた聡。
もうすぐ石段が終わる、そんな頃だ。私の靴が石段に張り付いたようになり、バランスを崩した。ふいによろけて、私は頭から転がり落ちそうになった。あと三段ほどある。このまま落ちれば怪我をするだろうなんて、冷静に思ったりしていた。
「キャッ」
「奈緒」
私の体は聡が受け止めてくれた。安心したが、それでもまだドキドキしている。
何かが私の靴を引っ張った。いたずらをしようとしたらしい。
そうだ、母が言っていたことを思い出していた。古い神社には人々が落とした念がいっぱい落ちていることがあると。そういうものに敏感な人はそれをもらってしまうのだそうだ。私の場合は足をすくわれた。
「やっぱり、人の念が・・・・」
私は少し怯えていた。聡は平気そうな顔でいる。
「でもさ、落ちなかっただろっ。実験は成功だった。終わりよければすべてよし」
そうか、本当にそうだと思った。私に何か起こっても聡が守ってくれるんだ。
私は嬉しくなって、聡の腕にしがみついていた。私達はそのまま石段を下りた。
入口のところにとめた自転車に乗るとき、聡が空を見上げて言った。
「奈緒って、見かけによらず、胸、あるんだなっ」
「えっ」
慌てて私は胸を隠す仕草をする。しがみついた時に触れていたみたいだった。
もうっ、聡ったらどさくさに紛れて・・・・・・。でも、許しちゃう。
私達は自転車に乗って、来た道を帰っていった。一緒にいるだけで満ち足りた気分になっていた。
翼くんが生まれ変わり、記憶がすべて消えていても、本能的にわかると思います。
そういう歌、あったな。この歌から私のA狂いが始まったっけ。
「彷徨い歩く」はこれで終わりです。次はもう少し長編を企画しています。時間がかかりそうですが、前世とスピリチュアルがもっと入り込んでくることでしょう。
ここまで読んでいただけたこと、感謝いたします。




