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翌日、また学校を休んだ。母も勤めを休んでいた。どうせ体は何ともないのに、私の何かが心配だったらしい。
母がいつもよりずっとやさしくて、私の好物を作ってくれた。私は昨日から何も食べていなかった。
「本当に具合が悪いの。何も食べたくない」
そう言ったが、実は母の存在が眩しくて、うらやましくて、妬ましくて、嫌だったのだ。今までそんなこと、感じたこともなかったのに。自分の中に別人がいるようだった。私は母の近くにいることがたまらなく嫌だった。なぜ、そんなことを思うのか、自分でもわからない。
だから、私は言った。
「あ・・・・駅前の沢田屋のケーキなら、食べたいかも。あそこの苺のショートケーキなら食べる」
母がすぐにカバンを持って立ち上がった。
「じゃ、買ってくる」
母は自転車で出かけていった。
私はなんてひどい娘なんだろう。食欲のない私が、そう言えば絶対に母がすぐさま出掛け、買ってきてくれると思って言った言葉。それは母から逃れるためだった。家と沢田屋の道のりは往復四十分はかかる。私は早速監視役がいなくなったから外へ出た。それは真逆の方向へだ。
そう、昨日も一昨日も通った鈴ヶ森町へ。
もう慣れた道だった。片道四十五分くらいかかる。母は家へ戻ってどう思うだろう。部屋にいない私に、心配しているだろう。でも、私は心が痛むよりもいい気味だなんて思っていた。
あの山が見えてきた。なぜ夕べは怖いなんて思ったんだろう。不思議だった。あの山は私を待っている。あの山だけが私を喜んで迎えてくれる、そんな気がした。
母が変なことを言ったから、母のせいだ。
私は今日こそ、あの山に入るつもりでいた。長い石段がある。車で登れる舗装された道もあり、徒歩でも歩ける遊歩道もある。その山の中腹には神社があった。さらに、その上には・・・・・・。たぶん、私を待ってくれている存在がいる。私は一度も訪れたことのない山のことを知っていた。
山が近づいてくる。心が逸る。自転車を飛ばしていた。
しかし、いつもの大橋を渡ろうとした。また中央に差し掛かると急に自転車の前に、誰かが飛び出してきた。翼だった。急ブレーキをかけた。翼のすぐ目の前で私の自転車は止った。
「危ないじゃないっ」
私はそう叫んだ。全く見ず知らずの子供ではない。そう、ある程度、顔見知りの子だったから、そんな剣幕で言えた。翼もいつもより険しい顔でいた。
「お姉ちゃん、急いでいるんだね。危ないよ、どこへ行くの?」
「あ・・・・」
なぜか、この子に言うのが憚られた。知られたくない、そんな気分だ。
私の心は焦っていた。その先へ進みたい。そんな衝動。山が私を呼んでいた。私には山しか見えなかった。けれど、私の前には翼がいて、先に進めない。
そうだ。翼はもう何度も私の行く手を阻んでいた。翼が私を、この橋から向こうへ行かせないようにしていた。邪魔だ。翼さえ、ここに現れなかったら、私はとっくにあの山へたどり着けていたのだ。
昨日まであんなに可愛い子供だと思っていたのが嘘のようだ。今は鬱陶しかった。
「そこ、どいて」
声を荒げる。
しかし、翼はそんなことに全く動じなかった。
「お姉ちゃん、だめだよ。ここを渡ったらいけない」
私は翼を睨みつけた。翼など小さな男の子だった。その先を行きたければ、振り切って前に進めるはず。けれど私にはなぜかそれができなかった。
私達は橋の真ん中でじっと睨みあっていた。その横をどんどん人が行き交った。やがて中学生や小学生も下校してきた。ここで何をしているのかという目を向ける人もいた。
日が傾きはじめていた。山から、私への誘いがつよくなっていた。陽が陰った部分は邪悪なものを含み、私へ味方しようとしていた。
翼もそれを感じたのだろう。チラチラと後ろの山を気にしていた。もう私にはいろいろなものが見えていた。
霊的存在は、今までチラリとしか見えていなかったのに、今はわりとはっきり見える。周りにうようよといた。山からの黒い影が伸び、その触手の先に見え隠れする物。川からも這い上がってくる。建物の影からも地を這いずり回るナニカが、山へ向かっていた。
今までなら、そんなものに出くわした時、ゾクリとして気分が悪くなったりした。けど、今は全く感じない。気味悪いとも思わないし、怖いとも感じなかった。むしろ、居心地がいいとさえ思った。
翼が私の目の前にいるから、橋の向こうへ行かれないのだ。しかし、皆が私達の横を通り過ぎていく。
日が暮れる前、黄昏の時間。
その昼間でもなく、夜でもない、そんなわずかな時にだけ、その入り口が開かれるとなぜかわかった。いわゆる、トワイライト。私のような中途半端な者にはその時間に、そこへたどり着くことが必要だ。暗くなったら、私にはそこへ入れないのだ。そんな焦りがあった。
「ねっ、どいて」
イライラして言った。
翼は口をつぐんだまま仁王立ちしていた。
「どいてってばっ。私、行かなきゃ、今、行かないともう・・・・」
翼が両手を広げた。通せんぼしていた。
「ねえ、ふざけないで。ちょっとそこをどいてくれるだけでいいの。翼くんには迷惑かけないから」
翼は首を振る。
「だめだよ。お姉ちゃん。あそこへ行っちゃいけないんだ。もし、行ったら・・・・」
ごくりと唾を飲み込んだ。行ったらどうなるって言うんだろう。
ああ、もう日が暮れる。私はもう半泣きになっていた。
「ねえ、どいてよ」
しかし、翼は怯みもせず、立ちはだかっていた。
「他のモノは勝手に僕たちの横を通り過ぎていく。お姉ちゃんがぼくを押しのけて行けないのは、生きているからなんだ。あっちへ今、渡ってしまったらもう戻れなくなる」
私もそれは感じていた。でも無性にあっちへ行きたかった。あっちにはもうこんなに煩わしいことから解放されるのだろう。誰が好きだったとか、誰とつきあっているなんてこと、本当にちっぽけなことになる。もうつらい思いをしなくていいんだ。そういう世界を望んでいた。
「お姉ちゃんには大切な人がいるんでしょっ」
翼がそう叫ぶ。
私はそう言われてはっとした。
大事な人、父と母の顔が浮かんだ。叔母、叔父たちの顔も。そして・・・・・・なぜか聡の顔もだ。
「もういいの。私なんか許してもらえない。いなくなったほうがいいのよ」
もう一刻の猶予もない。私は翼を突き飛ばしても橋を渡ろうと思った、その時。
「奈緒っ」
誰かが私を呼んだ。足がとまる。
その声が誰なのか、私にはわかっていた。ずっと腐れ縁の聡。いつもからかわれていた、気の許せる存在。でも、今はその顔を見ると胸が痛む。
「奈緒」
聡の声が、背後から近付いてきた。
嫌だ。近づかないで。私は聡の顔、もう見たくないなんて言ったんだ。私が悪いくせに、人にそんな言葉を浴びせていた。いまさら、どんな顔をして会うことができるんだろう。
聡がこんな私を許すわけがない。ちょうど偶然にここを通りかかったのだろうか。どうしてここに聡が要るんだろう。そして、私の行動を止めている。なぜ? 私を罵るため?
ここから逃げ出したかった。近づかないで。もうこれ以上、私は聡を傷つけたくない。さらに自分自身も傷つきたくなかった。
聡のこと、気にしていた。自分の心に嘘をついて、他の人とつきあうようにさせた。私は本当に聡のことが好きだったんだと思った。でももう遅い。もうなにもかも。そして、あそこへいけばすべてが終わる。
でも、動けない。
「奈緒、帰ろう。皆が心配している。探したんだ」
嘘だ。絶対に嘘だ、そんなこと。
そう心の中で叫ぶ。
すると山の方からも声が聞こえた。
『そうだ、信じるな。みんな嘘ばかりだ。今、戻ればお前はもっと傷つく』
ほうら、やっぱり。
歯を食いしばって、足に力を入れた。山の方へ行こうとしていた。
「お姉ちゃん、お兄ちゃんが迎えにきたよ。今なら帰れる」
私は翼を見た。
「あっちへ行ったらだめ。初めは優しく迎えてくれるけど、後はもう絶対に放してはくれない。ぼくがそうだった。それにぼくの名前、知られちゃったんだ。逃げられなかった」
あとは翼の心の声が聞こえてきた。
『ぼくは川に落ちた。一人で遊んでいた。風で帽子が飛ばされて、受け止めようとして落ちちゃったんだ。川は楽しいけど、突然入ってくるものには容赦しない。ぼくはもがいて、たくさん水を飲んだ。そして、この橋の大きな石のところにかろうじて体が止まった。そのまま苦しいのを我慢していれば、探しに来てくれたお母さんに助けてもらうことができたはずだった。
けど、・・・・・・。あの黒い山からの誘いに乗っちゃった。あっちへ行けばもうこんなに苦しいことはなくなるって』
ああ、わかっていた。翼はもうこの世の人ではないってこと。
ぼくはあの世に行くこともできた。けど、お母さんが毎日のように、この場所に来る。しかもこの恐ろしい時間にね。だからぼくはお母さんを守るために、ずっとここに留まっていた。だからどこにも行かれないんだよ。
知っている。死者にはどうすることもできないのだ。身内や友達が悲しんでくれる。その悲しみが深ければ深いほど、それを見ている死者もつらい思いをしている。
翼は、母親がいつもここで悲しんでいることを知って、ここから離れられないと言った。その姿を見ていることもつらいことだろう。
「お姉ちゃん、お兄ちゃんと一緒に戻って。そうしたらもう僕は必要なくなるからね。あのお兄ちゃんは強い。こんな状態のお姉ちゃんも見えるし、近づいてこられる。あの山も手出しできないくらい強い人」
そう言われて、私は後ろを振り返った。
カチカチに凍ってしまったかのように冷たい私の体が、ふんわりと柔らかく、暖かいものに包まれていた。
聡がすぐ後ろにいた。自転車から降りて近寄ってくる。そして聡が私を抱きしめた。私は聡の大きな腕の中に抱かれていた。ドクンと私の鼓動が音をたてたみたいだ。それと同時に体が温かくなっていく。
「よかった。すごく心配したんだ。お母さんに、奈緒がいなくなったから、助けてくれって言われて・・・・」
私の周りを覆う何かが外れていた。この何かが私を釘付けにしていた。後にも戻れず、先にも進めずにいた。
聡の腕の中は暖かくて安心できた。
「聡、来てくれたんだ。こんな私を探しに来てくれたんだ。ごめんね、私、ひどいこと、いっぱい言っちゃって」
「オレもだ。ごめん」
「私が悪いの、本当にごめん」
そういうと、聡の腕に力がこもる。
「奈緒、好きだ。お前がなんて言おうと、オレは奈緒が好きだ。ずっとずうっと前から。ちゃんというべきだった」
私は、今言われたことが本当なのか、確かめたくて聡の顔を見上げる。
聡はじっと私を見ていた。
「私も・・・・好き。たぶん、ずっと好きだった。美咲とのこと、本当は悲しかったの」
そこで気づく。
「あ、ごめんなさい。こんなこと、美咲に悪い」
私は聡の腕の中から逃れようとした。けど、聡は放してくれない。
「いい、オレ達、別れた。ってか、元々友達同士のつきあいだっただけだしな。あの吉沢とのことがあって、あれからすぐに美咲には正直に言ったんだ。美咲もわかってくれた。それを奈緒に言おうと思ったけど、ずっとお前、休んでただろ。電話で言うより、ちゃんと顔を見て言いたかったから。そしたら今日、奈緒のお母さんから、奈緒がいなくなったって・・・・きっとこの山の近くにいるはずだから探してほしいって頼まれた」
私は聡に肩を抱かれ、その身を守られるかのように橋を戻っていった。もう辺りは暗くなっている。橋を渡り切った時、一度だけ振り向いた。
翼のことが気になっていた。しかし、そこには翼の姿はなく、三十代半ばくらいの女性が立っていた。暗い川の流れを見ているようだった。もしかするとあの人が翼のお母さんなのかと思った。




