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男の子が夕暮れに気づいた。
急にはっとして空を見上げ、山の黒い森の方を見たからだ。
「もう暗くなるね」
「そうね」
本当に、この橋の上で何時間も話していたらしい。不思議な感覚だった。
「お姉ちゃん、遠くに住んでるんでしょ。もう帰った方がいいよ」
また小学生に言われた。
このままでは年上の面目がたたない。そこで思いついたことを言った。
「ねえ、どこに住んでるの? お姉ちゃん、送って行ってあげる」
たぶん、この近くに住んでいるはずだ。まだ暗くなっていないから、私なんて自転車ですぐに帰れる。
しかし、その子は首を振った。とんでもないと言わんばかりに。
「いいよ。お姉ちゃん、ぼくはこの近くに家があるし、もうすぐお母さんがくる」
「あ、そうなの。じゃ安心ね」
私は自転車の向きを変えた。仕方がない。家に帰ることにする。
「ねえ、名前、なんていうの? 私は高・・・・」
名前を聞こうと思った。またここに来るかもしれない。そしてまた、その時に会うかもしれないから。
けど、男の子は私の言おうとしたことを遮った。
「全部名前を言わないでっ。言っちゃダメだよ。ぼくみたいになる。お姉ちゃんでいいでしょ。ぼくは翼って言う」
妙に怯えた表情でそう言った。
「そう・・・・。翼くんね。私はお姉ちゃんか。それでいいかも。じゃ、またね」
「うん、また」
翼は再び子供のあどけない表情に戻り、手を振った。
橋を渡り切ったところまで自転車を引き、橋のたもとで自転車にまたがる。そのとき、ふいに翼の方を振り返った。もうそこには誰もいなかった。
「もう帰っちゃったんだ。お母さん、すぐそこに来ていたのかな」
そう単純に思った。自転車に乗る。
黄昏はほんの一時。すぐに暗くなってしまった。明かりをつけた車がぶんぶん走る車道が怖くて、途中、ふと思いついたように裏通りへ入った。少し遠回りだが、そっちの方が車が少なくて走りやすいと思ったのだ。このまま表通りに沿って同じ方向の道を行けば、どこか知った道に出て、帰れると思っていた。
けれど走れば走るほど、どんどん見知らぬ住宅街へ入り込んでいった。そして、その向こうに見覚えのある山がそびえたっているのに気付いて、私はブレーキをかけていた。
すぐ目の前に橋がある。それは翼と話していた大きな橋ではなく、もっと小さな古びた橋だった。その橋のたもとに、【鈴ヶ森・南】と書いてあった。なぜか私はその町を出ずに、山の周辺を周っていたらしい。
「どうして・・・・・・」
確かに私は、この山に背を向けて走っていた、はずだった。
橋の向こうは街燈もなく、暗い。誰も辺りにいなかった。通り過ぎる車もない。
私は山を見上げた。 黒いシルエットでしかない山だ。けれど私は大勢に見つめられている気がした。昼はあんなにこの山に来たかったはずなのに、今感じることは怖い、その一言だった。
山はその表情を変えていた。昼は穏やかで人々に涼と安らぎで包みこんでくれる、木々に囲まれた山なのに、夜はその影に隠れていた異形のものが顔をだし、活動を始める。そしてそういうものに人一倍敏感な私の存在は、向こうにも感じられるらしい。だから、向こうもこっちを見ていた。
ここから去った方がいいのに、私は動けないでいた。どうしよう。体が言うことをきかない。このまま見つめられるのか。
その時、その暗闇の束縛を破る音がした。私のポケットの携帯が鳴ったのだ。辺りにその音が響き、私を拘束しようとしていたものを打ち破っていた。
すぐさま電話を取り出す。動ける。
それは母からだった。
〔奈緒っ、一体どこにいるのっ〕
母の叫び声。
〔お父さんがいくら電話をしても通じなかったのよ。電波の届かないところにいたの? どれだけ心配していると思ってるのっ〕
「あ、ごめんなさい。気晴らしに外へ出て、道に迷っちゃったの」
そう言った。
母がブツブツ言っていたが、すぐに迎えに来ると言って電話を切った。
私は、あることに気づいた。母はすごいということ。
私は携帯電話の電源を切っていたのだ。初めは携帯でさえ、持って行かないつもりだった。けど緊急用にと電源を切ったままでポケットに突っ込んだ。それを覚えていた。
父が何度も電話しても私が出るはずがなかった。それを母が電話してきて、電源をオンにしてしまった。きっと私の危機を悟ったのかもしれない。
私は元来た道を戻った。そして、母の言う通り、明るい灯の下で何か目印になるところを探し、待てという。
もう何年も前に閉店したような元スナックの店舗が並ぶ一角にたどり着いた。そこには街燈がある。その電柱に住所が書いてあった。
それを電話で知らせた。父と母が車で迎えにきてくれた。こんなところに店があるとわかっていないと誰も来ないようなところだった。
車のトランクに無理やり自転車を入れ、車輪が出ているが父は手慣れた様子で紐で縛りつけ、固定した。
「なんだって、こんな奥まできちゃったんだ」
父が車を走らせ、ぼそりとつぶやく。
母は、くちびるに人差し指をあてて、しぃと言った。
それで私達は首をすくめ、無言のまま、家にたどり着いた。
家へ入るとやっと体の力が抜けた。ほっとする。
「あの山、あなたに興味、あるみたいね」
母が温かいお茶を差し出してそういう。
私もだが、父までがギョッとしていた。
「山が?」
「そう、あの離れたところからも感じた。あと少しであなたをおびき寄せられたのにって、山に舌打ちされたの」
私はギョッとした。確かに夜見るあの山は怖かった。
「奈緒、もうあの山の近くには行かないで。あっちは奈緒の霊感のこと気づいてる。そして、私という存在もね」
あっちって、どっちのことだろう。一体、誰が私のことを・・・・霊感のこと、それを知ってどうするのか。母の存在もって、それを口に出すことも怖かった。
「ね、明日まで休んでも構わない。けど、月曜日からは気持ちを切り替えて学校へは行ってね」
母が哀願するように言った。
わかってる。いつまでも聡と顔を合わせたくないって言うだけで休んでいられないってこと。けど聡とは同じクラスなのだ。避けようがない。もうすでにその時のことを考えただけで胃がズンと重くなった。
いつも何かあれば、何も言わなくても聡がそばにいてくれた。言いにくいことでも一人事を言うように、ポツリポツリと相談ができた。そんな聡を失っていた。
私はこれからの人生で、聡に成り代わる男性を探し出せるのか・・・・。そんな大げさなことまで考えていた。
奈緒のお母さんが携帯の電源をオンにしてしまったというのは、もちろん作り話ですが、霊感のある人は電気系統に敏感らしいです。友人がよくPCが壊れたと嘆いています。映画でも消えていたはずのテレビがついたり、明かりが消えたり、電気系は伝わりやすいみたいですね。そうそう、リングの貞子さんもそうでした。今はSNSであっという間に広がっていきます。




