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私は来た道を自転車に乗って戻ろうとした。
けど、すぐにタイヤがパンクしていたことに気づく。以前から空気が少ないと思っていたが、こんなところで空気が抜けてしまっていた。しかたがない。このままでは走れない。
携帯電話で父に連絡した。迎えに来てもらうしかない。けど、電波が通りにくいところにいるらしく、なかなか通じなかった。話し始めても途中で切れたり、その声は非常に聞きにくく、雑音がした。それでも何とか現在地を知らせることができた。
両親は暗くなっても帰ってこない私をかなり心配したようだ。いつも遅くなる日は必ず朝、そう言って出かけるし、その都度、連絡をしていたから。
父がすぐに車で迎えに来てくれた。一安心だ。
「聡くんにも電話したんだけど、彼、知らないの一言だったの。だから余計心配になっちゃって」
聡に電話した、そのことが私の声を荒げていた。
「お母さんたら、なんでそんなことで聡に連絡するのっ。私達、何の関係もないのよ。もう絶対に聡に電話なんかしないでっ」
そうまくしたてていた。母は私の剣幕に声も出ない様子。
父が険しい顔をして言った。
「奈緒、お母さんは奈緒のことが心配でどうしようもなかったんだ。ちょっと聡くんに聞いてみたいって思っただけだ、そんな言い方はないだろう」
そう言われて、私は自分のことしか考えていないことに気づいた。すべて自分がいけないのに。聡もあんなことがあった後、私の母とは話をしたくなかっただろう。だから、そっけなかったことも理解できる。
私は、聡をいいように私物化していた。美咲に譲るようなこと、言ってしまった。あの時、自分の心も痛かった。けど吉沢とのことで、あの時、聡がどれだけ傷ついたかわかった。もちろん、何も知らない吉沢にも失礼だった。そして、連絡もしないで一人勝手に行動をしていた。周りにどれだけ迷惑をかけたんだろう。私ってなんて嫌な奴なんだろう。わがままで、嫌な子。
そう思うとまた、ぼろぼろと涙がこぼれた。両手であふれてくる涙を覆うが、ぼたぼたと流れていた。
驚いたのは父だ。
「そんなに泣くこと、ないだろう」
父は自分に叱られたから泣いているんだと思っていた。違う、そう言いたかったけどしばらくは何も言えない。母が私の背中を優しく撫でてくれるが、私はそれでも涙を止めることができなかった。
「違うの。私、聡にひどいことしちゃった」
涙がおさまりかけ、やっと私がそう言える状態になった。
「喧嘩か」
父が、涙の理由に少し安堵した様子で言う。
「私、美咲に、聡になんか関心ないから譲るみたいなこと、言っちゃった」
父と母が顔を見合わせていた。
「聡くんと美咲ちゃん、今、つきあってるのね」
最近、聡が遊びに来ないから変に思っていたらしい。
「聡くんは、奈緒が譲るって言ったって・・・・・・、言われるままにつきあってるのか」
父としては当然の疑問。
「その時美咲はすぐに舞い上がっちゃってて、聡は友達としてなら、って言ったの」
そう、その後、悲しそうな表情でポツリと言った。
「奈緒は全然、俺に関心なかったみたいだ」ってそう言った。
その言葉は私に胸に突き刺さった。痛かったのだ。
「聡、すごく怒ってて、前のようには戻れない。もううちにもご飯なんか食べにこないの」
また新たな涙が出ていた。
それを見た母が言った。
「ってことは、奈緒はやっぱり聡くんのこと、意識していたのね」
「わかんない。いつもそばにいたから」
「聡くんに相当甘えていたみたいね。ひどい事言っちゃったら、謝ればいいんじゃないの」
そうだ、それは正論。しかし、私はそんなことを言う母に怒鳴っていた。
「いまさら、謝ったって許してくれない。聡、ものすごく怒ってた。もうだめなんだってばっ。聡のこと、もう言わないで」
私は涙でクシャクシャになり、そのまま二階の自分の部屋へ駆け上がっていった。
ベッドで泣いていた。
そうだ、絶対に許してはくれない。そういうレベルのことをしてしまったのだ。人を傷つけるということは、その何倍も自分の心も痛む。
翌日、私は学校を休んだ。頭痛がするからと仮病をつかった。
こんなことするのって初めてだった。母は私の嘘を読み取っていたけど何も言わず、学校へそう連絡をしてくれた。
一人で寝ていると、ますます気がめいった。どんどん悪い方に考えるからだ。ネガティブになると、暗いトンネルに突き進むかのようになる。自分でもそれがわかった。今は明るい光が鬱陶しい。こういうふうになるともう前向きに行こうとか、明日はいいことある、なんてこと一切考えられない。
私は着替えて外に出る。まず自転車のタイヤを直してもらうために。顔見知りの自転車屋にはいかず、もう少し遠いところの自転車屋へ寄る。平日の昼間、高校生がうろうろしていると余計なことを言われそうだったから。夕べ、父が見てくれて、空気を入れる虫ゴムの劣化だから、交換してもらわないといけないと言った。
私は帽子を深くかぶり、年齢がわからないようにした。かなり遠くの自転車屋に寄った。そして、直してもらった自転車に乗り、走り出していた。このまま家には帰りたくない。昨日、行った鈴ヶ森町へ行ってみようと思った。あそこなら知り合いにも会わないだろう。なぜかわからないが、あの土地に足がむいていた。
確かあの大橋の向こうに、町全体を見下ろすような山がそびえていた。あの森のようなところに惹かれていた。もし、昨日あの橋の途中で、男の子と出会わなかったら、きっと私はそっちに足を向けていたと思う。
自転車は快適に走る。風を切ると心が逸った。なんでだろう。早くあの場所へ行きたかった。なんとなく、あの町に呼ばれているような気分だった。
しかし、私はまたあの大橋の真ん中で自転車を止めた。あの男の子に会ったからだ。昨日と全く同じ場所に立っていた。
目が合う。
笑顔をむけた。不思議なことに、この男の子には笑顔が向けられる。向こうも私のことを思い出してくれたようだ。
「こんにちは」
「こんちは、お姉ちゃん、今日は自転車に乗ってるんだね」
おかしそうにそう言った。
「あ、そうね。昨日はちょっとボーっとしていたから」
「乗るの忘れちゃった?」
「うん、まあ、そんなところ」
大きな橋だ。私達は舗道にいるが、すぐ横をブンブンと車が行き交う。ちょっと立ち止まって話している最中も、自転車の主婦やお爺さんなどが横を通り過ぎる。
「また会ったね」
男の子が意味ありげにいう。
私はそれには答えずに
「ここ、好きなの?」
と、手すりの下に流れる川を見て言った。男の子って、川とか好きなんだろうな。
「うん、好きだった。ここ、なんでも流れてくるんだよ。すっごく面白いんだ。雨や風が強かった次の日は、上の山の方から大きな木が流れてきて、川をせき止める。するとね、そこにいろんなものが流れ着いてくる。誰かの落としたボールとか、ジョウロ、バケツとか」
「へーえ」
上流から流れてくるゴミってことだろう。
「前にね、あの大きな石のあたりに、猫の死体とか流れてきた」
この橋のすぐ下の脇に大きな岩があった。ギョッとした。
「毎日見ているとね、どんどん形が変わってくの。ふっくらとしていたお腹がぺっちゃんこになって、いつのまにか皮だけになっちゃう」
「えっ、そんなのを見てたんだ」
「うん、その死体を見てるとね、死ぬってどういうことなんだろうって考える」
こんなに小さい子が、猫の死体を見て、そんなことを考えていたなんて意外だった。
「で、どういうことだと思ったの?」
そう聞いてみた。
「う~ん、わかんない。だから、ぼく、ここにきていつもそれを考えてる」
そのうちに、雲の形の話に移った。あの雲は蛇みたいだ、あっちは車とかの子供っぽい会話になって、正直私はほっとしていた。なぜだろう。すぐ目の前にある山を目指していたのに、もうそっちには興味を失っていた。私はいつの間にか、男の子と他愛のない話に夢中になり、時を忘れていた。




