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私は壊れていた。
だって、制服のまま、街の中を自転車をひきながら、どこへ行くというあてのないまま歩いていたんだもん。それでも目の前の、信号が赤なら私の足は止り、青なら進む。そんな感じで無意識に隣町を抜け、いつの間にか、滅多に来たことのない山の方にある鈴ヶ森町へきていた。その名の通り、木が多い。森と山の町だ。
それでもそのまま大通りをずっと道なりに歩いていた。
私の心はなにも考えられなくなっていた。というか、頭を使ってなにかを考え始めると聡のことを思い出してしまうから無意識にしなかったのかもしれない。それはかなりつらいことだった。
一体、なにがあったのか。それは学校でのこと。
新学期が始まり、再び慌ただしい生活に戻っていた。そして私はその頃から、かなり孤独を感じていた。
その日の放課後のことだった。
学校が終わると私は必ず図書室による。別に本を借りなくても私は足をむけた。そこにいる先生と話し、本の虫タイプの生徒に気が向けば挨拶もする。本も大好きだが、そこへ行くとなんとなくうれしくなる、それだけだ。
しかし、そんな私の前に立ちふさがるようにして、隣のクラスの吉沢が現れた。待ち伏せしていたようだ。全然、予期してなかったから驚いた。
吉沢誠はいつも腐れ縁の里中聡と同じサッカー部に所属していた。一年生女子の圧倒的人気ナンバーワン。その吉沢が私に何の用だろうと些かいぶかしげな目で見ていた。
いつも見かける彼の姿は、聡と大きな声で騒いでいる明るい人だが、今は全く違っていた。居心地の悪いほど、真剣な顔をしていた。
「あのう・・・・高野さんって、今、つきあっている人、いますか」
どきりとした。そういう話なのかとわかった。
「聡とはなんでもないんですよね」
そう念を押される。
その時、私は廊下の遥か向こうでこっちをちらちら見ている聡の姿を見つけた。聡のシルエットなら、どんなに遠くてもわかるのだ。
「えっと、別に今、いませんけど・・・・・・」
どうしよう。ドキドキしていた。吉沢の顔がパッと明るくなったからだ。でも・・・・・・困る。
「じゃ、ぼくとつきあってもらえますかっ。お願いします」
吉沢はそう言ってぺこりと頭を下げた。
吉沢には悪いが、その気はない。これが他の人でも今は誰かとつきあうなんて考えられなかった。
だって、だって私は・・・・・・。
すぐに返事ができなかった。吉沢は、私に彼氏がいない、イコール、即、自分とつきあってくれると思ったらしく、なかなか返事をしない私を怪訝そうに見た。それはモテる男子の自信からくるのだろう。
「高野さん?」
「あ・・・・ええと、申し訳ないんですけど、今、私、そんな気になれなくて・・・・」
きちんと断った方がいいと思ったから、そう言いかけていた。しかし、その言葉だけで吉沢の顔色が変わった。
「ええっ、だって・・・・聡が・・・・。話が違う」
吉沢は廊下の向こうでこっちの様子を見ている聡を見た。もうそれだけで私がなんて返事をしたのかわかったらしい。
聡は怒った顔でずんずんと歩いてくる。
「奈緒っ、なんだよ、いまさら。お前、前に吉沢とならつきあいたいって言ってただろう」
私は声にならない叫び声をあげる。でも、聡は無情にもまだ責めてきた。
「俺とはなんでもない、つきあってなんかいない。そんな気にもならなかった、でも吉沢とならいいっていっただろっ」
聡が私に噛みつくように言う。
そう、私は確かにそう言った。
塩崎美咲の祖母の一件のあと、美咲と聡は二人きりで映画に行っていた。美咲にとってかなり楽しかったらしい。そのデートのような夜、美咲からのメールは私の胸を抉るかのようだった。
《やっぱり聡くんってやさしいし、かっこいいから皆が振り向くの。一緒にいてすごく鼻が高かった》
その時の私の返信は、《へえ、あんなんで皆が振り向くんだ》とか《美咲ももの好きだね》みたいな事だったと思う。
その後、美咲は私と聡を呼び出した。そしてその時、もう一度、私と聡がつきあっているのかと問いただした。
私はいつものように言った。
「私達はただの腐れ縁、小学校の時から一緒なだけなの。つきあってなんかないよ」
そう言えば、聡もいつものように「そうそう、この顔ずっと見っぱなしだよな」とか、返してくれるはずだった。
けど、聡がそういう前に美咲が言った。
「じゃ、私が聡くんとつきあってもいいのね」
え・・・・・・。
私の思考がその一瞬、止まった。
美咲は嬉しそうに言う。
「ね、私、聡くんとつき合いたい。ずっと奈緒とつきあってるって思ってたから遠慮してたんだけど、考え過ぎてたみたい」
私にはなんて言い返していいかわからなかった。少し青ざめていたと思う。だめだ、調子に乗って言わなくてもいいことを言ってしまう。そんな私は次にこう言っていた。
「もちろん、私とは関係ないし、美咲に譲る。どっちかっていうと、私は吉沢君とかの方が好みかな」
そんなことを言っていた。
美咲は少しだけ吉沢のことも知っていた。前に一度、サッカーの練習を見に来ていたから。
「ああ、あの人もかっこいい」
その時、私は聡をちらりと見た。
聡は別人のような怖い顔をして私を見ていた。ドクンと私の鼓動が飛び跳ねた気がした。
てっきりいつものように笑いながら、かわしてくれるんだとばかり思っていたのだ。けど、聡は何も言わないで怖い顔が悲しそうな表情になった。けれど美咲には作り笑いを向けていた。
美咲はそんな聡の腕にまとわりつき、「やったぁ」と叫んだ。
え、これで決まりなの? 私が許可を出したから、OKなわけ? 聡はなにもいわないのっ、なぜ? それって聡も美咲とつきあいたかったってわけ。ねえ、なんとかいってよ。
そう心で叫んでいた。けど私は両者に何も言えなかったのだ。
そういうことが二週間前にあった。
それから新学期が始まり、美咲は別の高校だけど殆ど毎日のように放課後、うちの学校へ来てサッカーの練習を見にくるようになった。
他校の子が聡を応援に来る。そんな噂はたちまち広まった。聡と私のイメージが壊れ始めていた。皆が私に、喧嘩でもしたのかと聞いてくる。私はその都度、説明をした。
「私達って、もともとつきあってなかったの」
「つきあいたいんだろっ、俺とじゃなくて吉沢とさっ」
吉沢はちょうどつきあっていた彼女と別れたばかりで、聡が別の女の子とつきあいだしたから、私に目がいったらしい。もし、私がフリーなら、つきあいたいと聡に相談したようだ。聡も以前の私の言動を知っていたから、即、告白しろという話になったようだ。
「そうはっきり言っただろっ」
私は自分の見ている人が一体誰だったのかわからなかった。私の知っている聡は、こんな怖い顔をして怒鳴らない。いや、聡が悪いんじゃない。私が聡を怒らせたんだ。
そう、あの時、私が美咲に言った言葉、こんなふうに傷つきながら聡も聞いていたんだと、今、実感した。私はもう何も言えなくなり、じっと聡をにらみつけていた。その私の目からポロリと熱いものがおちた。一度流れ出すともう止めどもなく出てくる涙。吉沢はそんな私を前にして完全に怯んでいた。
「ひどい・・・・」
しかし、聡は私を許さなかった。聡はぐっと拳を握りしめる。
「お前だって、・・・・あの時の俺の気持ち、わかるかっ」
「もう聡なんか、顔も見たくない。大嫌いなんだからっ」
私はそう叫んでその場を去った。
そしてしばらく自転車置き場で泣いていた。家にも帰りたくなかった。誰にも私が泣いている理由を聞いて欲しくなかった。思い出したくもなかった。
他の下校する生徒が遠巻きに私を見ていた。向こうも居心地が悪そうに、私の前を通り過ぎていく。
誰も知りあいがいないところへ行きたかった。今は聡にはものすごく腹を立てていた。そして美咲にもだ。吉沢には悪いが、これからしばらく顔を合わせられないだろう。もう学校にも行きたくなくなっていた。
段々、暗くなる。家とは反対の方向に足が向いていた。誰かと話すことが苦痛なのだ。なんでもないふりをして、全然関係ないことを話しすることは今、絶対に無理。じゃあ、どうしたのと聞かれるとさっきの現実を見なければならない。そういうことが嫌だった。
たぶん、この時の私は自分の世界に入りこみ、閉じこもっていたんだと思う。
私はそのまま山の方へ向かっていた。視界には森のような木々と小高い山しか見えなかった。
そんな時、私は大きな橋の上で足を止めた。小学一、二年生くらいの男の子が、自転車のすぐ前に現れたから驚いた。ぼうっとしていたんだろう。ぶつかりそうになっていた。
「あ、ごめんね」
そういうとその男の子はにっこり笑う。かわいい笑顔。不幸のどん底にいた私までつられて笑顔になっていた。
「お姉ちゃんこそ、大丈夫?」
よほどひどい顔をしていたのだろう。こんなに小さい子供にそんなことを言われていた。
私は無理して笑顔を保つ。
「うん、大丈夫。もう平気」
「もう暗くなるから帰った方がいいよ」
そう言われていた。その台詞は私がその子に言うべきことだろう。
「そうだね。気がついたらもうこんな時間になってたんだ」
山がすぐ目の前にそびえたっていた。夕暮れはもうその山自体を黒く映し出していた。
なんとなしにぶるっと震えがきた。
「もう帰るよ。お腹、空いたしね」
そうおどけるようにしていうと男の子が笑った。
「うん、帰った方がいい」
その子はそう繰り返した。
「じゃ、バイバイ」
「うん、バイバイ」
そう言って手を振ると男の子も手を振り、すぐに走って行ってしまった。
大きな川の上にある橋の中央にいた。車道を行く車がライトを照らし、眩しい。暗闇に気づくと見る見る間にそれがひろがり、辺りはかなり暗くなっていった。
なんだかずっと思いつめてこんな遠いところまできてしまった。今の男の子と出会わなかったら、ずっとこのまま橋を渡り、あの山のところまで行っていたかもしれない。
気持ちが不思議なほど切り替わっていた。男の子との会話で、やっと周りが見えた。
帰ろう、そう思った。自転車に乗り、ライトをつけた。




