「軽くてごめんなさい」
小学校の裏、と言ってもそこはお寺の境内だった。
古くて、規模はあまり大きくないがしっとりと落ち着いたたたずまいを見せている。
黒っぽい寺の門を少年は悪びれもせずくぐって中に入り、きれいに掃き清められた白い玉砂利の庭に落ちないよう気をつけながら、四角い石畳の歩道をバランスよく渡っていく。
「こっちこっち」
と手まねきしながら本堂の左手奥に入っていった。
左手、学校との境までは墓所だった。灰色の墓石が並んでいる。お寺の裏手にも、ぐるりと墓地は広がっていた。
「お寺の裏の方、こっち」
「いいのかな、こんな所で秘密基地なんて」
ぶつぶついいながらも、椎名さんついて行く。
大きな木の後ろに、トタンと木切れを重ねて四角い空間ができていた。
「ほら」少年が自慢げに指さす。
「あっくんとボクとソウくんと作ったんだけど、じゅんちゃんも仲間に入りたいって言うからこっそり見せてやろうと思ってさ……」
ご説明、痛み入ります。
でも、懐かしさもあった。オレも小学校三年くらいの時やってたかな、とどこか遠い目に。
「これはねえ、レイカイとニンゲンカイをつなぐヒミツのトンネルを守るために、作られたんだ……オジサンももう仲間だからさ、誰か一人だけメンバー増やしてもいいよ」
「はあ……ありがとう」
みんな遠慮するだろうな。本部のナカガワでも入れてやろうか、仲間に。
「でさ、オジサン」急に話が変わる。
「かくれんぼしよ」はあ?
「キミさ……おうちの人が心配しない? もう5時過ぎてるだろ?」
「別に」急にませた口になる。
「うちすぐ近所だから」
「それに知らないオジサンについて行っていいのか?」
少し怖い声を出すと、意外そうに
「だって、ついて来てって言ったの、ボクだよ」だと。
なんだかシヴァと会話しているような気になった。
「おじさん、じゃあ最初ボクが鬼ね」
マイペースなところもそっくり。
「30数えるから隠れてねえ」いーち、にい、と始まったのでしかたなく墓地の方に戻って行った。
声が遠くなるにつれ、何となく、ひとつひとつに刻まれた名前に目がやっていた。どうしてか、足が勝手に本堂のすぐ裏手あたりに向かっている。
ススキの生い茂る草むらの脇、丸くなった古い石が一か所に積み上げてある、そのすぐ近く、少し奥になった所にぽつりと建つ墓石に、目が吸い寄せられた。
夕暮れの、こじんまりしたお寺の裏手のその場所で、秋の虫たちがひそやかに鳴き交わしている。
ゆっくりと、彼は歩を進めた。
オマエ、こんな所に眠っていたのか。
春日が退職したのは、彼が殺し屋に狙われた騒ぎから、半年ほど後のことだった。
「とうとう引導渡された。でも組織からじゃないぞ、医者からだ」
ハルさんは最後まで笑っていた。
悪いけどもう田舎へ帰る。オフクロが一人で住んでて、近所に住んでる妹が時々見に行ってくれてるんだ。せめて最後は心配かけたくないと思ったけど、地元の病院に来い、ってうるさくてさ。
彼の最期はいつだったか、聞かされていない。カイシャには連絡があっただろうが、見舞いにも来てほしくない、と家族からも言われていたらしいし、もちろん葬儀の連絡もなかった。 第一、管理職を除いた誰もが、彼の地元すら知らなかったのだから。
一つだけ聞いていた。
ハルさん、その蹴りは玄人はだしだねえ、ローズマリーが茶化した時か? 今のスリッパの軌跡を見ろよ、完全にキーパーをかわしたぜ。
ハルさんが爽やかに笑って言った。あたぼうよ、オイラ、高校時代はこれでも全国大会に出る程のサッカー野郎だったんだぜ。片足でぴょんぴょん跳びながら、飛んで行ってしまったスリッパを拾いに行った。
春日家の墓は、こじんまりとして他の墓となんら変わるところはなかった。
なぜ気がついたのか、自分でも分からない。気がついたらその前に来ていた感じだった。
横の石でできた墓誌に、春日家の終点に眠る人々の名が刻んであった。最後に
『宏光 平成十三年十月六日 享年三十六』とある。
それまでの先祖にはついているような戒名はない。本人の希望だったんだろうか。
言いそうだ、総務なら本名だけで済む、もうコードネームとかカイシヤ名なんて要らねえ、戒名も要らねえ、名前なんて一つでいいんだよ、軽くていいよ、うん。
周りの草はきれいに片づけられ、最近替えたばかりのような、新しい花が飾られていた。白い小菊だった。
そうか、もうすぐ命日だったんだな。
花、似合わねえなあ、ハルさん。
手を合わせ、目をつぶる。
ゴメン、知らなくて何にも持って来てない。手ぶらだよ。
ハルさんの笑い声がしたようだった。
気にすんな、オレだって急に呼び出したんだから、軽くていいんだよ、軽くて。
「軽くて、ごめんなさい」
そうつぶやいて、目を開いた。
そうだ、と急に思いつく。煙草持ってたよな確か。置いていこうか、ヤツに。
「デスでは、ありませんが」
そう言ってみてから、オヤジギャグでも何でもないのに気づいて口の端を歪める。
胸ポケットに手をやった、入っていない。
どこかで落としてしまったようだった。
風がかすかにかさついた音をたてた。ヤツが笑ったのかも知れない。
「おじさあん、もういいかあい」
涼しい夕方の風に乗って、小僧の声がかすかに聴こえる。
「もういいよぉ」
一回だけ叫んで、彼は墓をふり返らず、声のする方に歩いていった。