バリスタ気分
じわじわと育んだ恋が必ずしも長続きするわけではない。
瞬間にして沸騰した思いが、人生の恋になることもある。
時間ではない。胸を打つ躍動がどれだけ激しいか。恋とはそういうものであるはずだ。
買い物袋を抱えた人々が行きかう。
その空気が建物全体を包み込み、無駄なく効率的に配置された商品棚が所狭しと並べられている。
僕は、この、時には圧迫的にさえ思える空間が嫌いではない。
正確に言うならば、今は嫌いではない。
正面トビラから二重になった自動ドアを抜け、建物内へと足を運ぶ。
僕のような大学生がこの時間に、こういった百貨店に出入りするのは珍しいのだろう。
インフォメーションコーナーにいる女性がこちらを見ているような気がする。
その視線をやり過ごし、奥へつかつかと歩いていく。
僕は何も荷物を持っていない。今日特に何かを買う予定も無い。
ただ、一つ大きな決意を胸にいつもの場所へと向かう。
いつもの場所へは、20秒も歩けば着く。
そして、そこにあるボタンを押す。オレンジ色のランプが光り、3つあるエレベーターの1つが僕を迎えに来る。僕はわざと少し離れて、何かを探している振りをしながらエレベーターが到着するのを待つ。ドアが開き、客が降りてくるのと同時に、僕はそのエレベーターを横目で盗み見る。一瞬でそこにある状況を全て確認し、何事も無かったかのようにその場を去る。
一番左は、「鉄火面」だ。全く相好を崩さず、常にぶっきらぼうだからこのあだ名をつけた。
もちろんそれは僕しか知らない。
到着階数を示すオレンジ色のランプが上昇していくのを確認してから、僕はまた
エレベーターのボタンを押す。今度はそれに一番右側のエレベーターが反応を示す。
僕は、「こほん」と空咳をしてから、またさっきと同じように少し離れてエレベーターを待つ。他にも4,5人の客がエレベータが来るのを待ち始める。
到着し、人が降りる。
僕は、確認をし、今度は乗り込む。
地上から上空への短くも濃厚なデートが今始まる。
「ご希望階をお教え下さいませ。」
5階、6階、8階などと周りが言うのに併せて、目立たないように声色を抑えて
「16階」
と言う。
上は鮮やかな紫色の制服、黒のスカートに黒い手袋をはめている。
更にこれまた黒のカウボーイのような帽子を被っている。
背筋をピシッとさせ、正面を見つめている。
僕の場所からは、その姿勢正しい背中と左側の横顔しか見れない。
耳につけたシルバーのピアスは、大部分黒で固められたファッションの中で
精一杯自己主張しているように見える。
彼女は、目的階に着くごとにマニュアル通りの台詞を、
マニュアル通りの1オクターブ高い声で発する。
6階で2人が降りる。
8階に着く直前、僕は隣にいた右側のおじさんに「降りろ」と念じる。
それが伝わったのか、おじさんは8階でのろのろと降り、
僕は彼女と二人きりになる。
一瞬僕は自分がストーカーのようにも思える。監視カメラも何故か気になってしまう。
僕は平静を装い話しかける。
「今日は平日なのにお客さんが多いですね」
「そのようですね。」
「実は、僕ここの16階でアルバイトやってるんですよ。だから、今日はお店の方も混みそうだなー」
「頑張ってくださいね」
2人きりになると彼女は、それまでの型通りの話し方を止め、幾分和らいだ声を出した。
僕はそれにホッとし、話を続けようとする。
しかし、高速エレベーターはあっそりと階数を駆け上がり、16階へとさっさと到着してしまう。
「あのー」
「はい?」
「あ、いえ」
ドアが開き、彼女は突然事務的な声に戻り
「16階でございます」
と言った。
僕は、彼女の隣をすっと抜け、開かれたホールに出る。
エレベーターのドアがゆっくりと閉まり始める。僕はその瞬間、沸騰するような焦りを感じ
一瞬にして踵を返し、すぐ近くにあった下向きの矢印ボタンを押す。
閉まりかけていたドアがびくっと反応し再び開き始める。
彼女も同じように、怪訝に眉をひそめ、僕の顔を覗き込む。
「あ、あの」
「はい?」
「僕、実はずっと前からあなたのことが好きでした」
彼女はまさかの告白に驚き、一瞬言葉を失う。
僕は、覚悟を決め、前々から温めていたとっておきの決め台詞を言う。
「あなたのエレベーターで2人きりのデートがしたい。僕をあなたの人生のエレベーターに乗せてください」
意味は良くわからない。
大事なのは雰囲気だ。
一瞬、沈黙が辺りを包む。
彼女は全てを冷静に受け止めたように見えた。
そして、僕の目をまっすぐに見つめた。
僕の心臓が高鳴った。
しかし、彼女は目線を外し、深々と一礼する。
「下へ参りまーす」
そして、開いていたドアがゆっくりと閉まる。
僕は固まったまま、下に下りていくオレンジ色のランプを眺める。
それが8階まで一旦止まった後、再び下降し始めたとき、
僕はため息をつき、自分の仕事場へと向かう。
これからずっとアルバイトへは階段を使わなければならない。
そんなことを考えながら。
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