表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

見捨てられた國のヒミコ20Ⅹ0 (4)

    見捨てられた國のヒミコ20Ⅹ0 (4)

         Ⅽ・アイザック 

 ヒミコは跳び起きた。国連のカミヤに電話を発信しながらカーテンを開ける。朝の眩しい光が容赦なく顔に射した。寝坊してしまったのだ。時刻は既に九時を回っている。

「こちらカミヤ、ヒミコか?」

「お早うございます。ヒミコよ。状況はどう?」

「好転した…と言えるのかな。警備隊が巡回に来てくれたので調査員と称する男たちはいつの間にかいなくなった。」

「警備隊は政府が派遣した自衛隊員のことね。彼らはそこにいなかったの?」

「駐屯はしているのだが、新潟キャンプは距離が五キロに及ぶ細長い形をしている。五十人ほどの隊員では手が回らない。全体を同時にカバーできないので巡回で対応しているそうだ。」

「ハナエ・クボさんは見つかったの。」

「見つかってはいないが、彼女が自衛隊員の姿を見かけたなら安心して事務所に来てくれると考えている。それを待つつもりだ。」

 カミヤの言葉がのんびりしているとヒミコは内心で拍子抜けの気分だった。しかし五キロも続く難民キャンプを想像すると、それが現実的であることは確かだ。

 「話は変わるけど、ドローンをどうする? バッテリーの問題で着地したと思うけど、そちらに充電設備があるなら運んであげようか。」

「そうしてもらうと有難い。設備はある。」


 ヒミコはアースボーイに準備を頼み、新潟に行くことをアスカに報告し許可を得ようとしてふと考えた。これまでアスカの指示を完全に守ってきたが、自身の判断で出来ることは何か。どこまでが可能でどれがそうでないのか。

 またヒミコが公務員として内閣府分室に採用されたとき、アスカの立場が官房長だという意味の説明を受けたような記憶がある。しかし最近になって思うのは分室に官房長がいるのは変ではないかということだ。かといってアスカが身分を偽ったとは思えない。その必要は無いし利益もない。これは組織に混乱があるのか。

「 調べてみよう、今更だけど…。」

ヒミコは政府の組織図と管理系統、事務概要などを検索した。それによると内閣官房は政策の企画立案と総合調整が役割。内閣府は内閣官房の方針に基づきそれを具体化するため各事務局を設け複数の省庁の利害を調整する役を担う。似ているようでハッキリ違うのだ。さらにホームページに内閣府分室長の官房職を解くと記録されていた。その日付けはヒミコが就職した五か月後だった。分室長はアスカを指している。

ヒミコはそのあたりの事情を察する事が出来た。つまり敷島は人も予算も無い中で列島の職務を果たすためアスカに内閣官房と内閣府と事務局の複数の役割を頼んだ。押し付けたとも言える。ところが天皇の処遇に対して莫大な寄付金が集まり、これによってジパング島に政府の機能が整い始めると、政策立案に必要な官房職を本来あるべき自身の周囲に戻したことになる。

「敷島のおじさん、調子よすぎるわ。」

ヒミコは呆れてしまったが、これによってアスカが重い責任から解放されたともいえる。もともと人も資金も無いなかで残留民を救う方策を立案し実行せよというのは不可能な話だった。アスカの現在の職務は「残留民問題対策本部事務局長」であり内閣府分室長を兼ねるとなっている。

 ついでに調べると、内閣府が担当するのは①科学技術、②重要地域情況の調査、③残留民援護、④外交、安全保障、⑤ジパング島国家創造、⑥世界日本人社会ネットワーク創生となっている。

 さらにヒミコにとって重要な記述を見つけて眼を見張った。兄のタケルが官房副長官補であり、科学技術の発展、重要地域情況の調査、外交・安全保障における事態対処、危機管理を担当すると記されていた。

 ヒミコは驚いた。全く知らなかったし兄からも説明されていなかった。でもこれは、と思った。兄の許可があればもっと自由に行動できることを意味しているのではないか? 北海道、九州にだって赴ける。差し当たって新潟にも堂々と行ける筈だ。ヒミコはアスカに電話した。彼女の意見を確かめたかったのだ。

 ヒミコの話を黙って聞いていたアスカが口を開いた。その語調は厳しいものだった。

「あなたは残留民援護局の人間です。そして事務局長は私です。私の指示に従ってください。」

「でも新潟に行かなければならないんです。」

「許可できません。」

有無を言わせぬ口調にヒミコは反発した。

「これは残留民援護ではなく安全保障にかかわる問題よ。だからその担当である兄の許可を貰って新潟に行きます。」

切り札を出したつもりだったが、アスカは少しも驚かない。

「あなたが行かなくても現地の自衛官に任せればいいことです。」

「そういうのが嫌なんです。」

「えっ?」思いがけないヒミコの言葉にアスカは戸惑った。「何と言ったの?」

ヒミコは自分でも驚いていた。心の隅に燻っていた本心が突然に飛び出したのだ。

「…アスカさんがどう思うかしれませんが、こんな私でも使命感を持って働いています。今も列島に住む日本国民の力になりたいと思っています。けれども振り返ってみれば肝心なことは人任せというのが多いわ。北海道、青森はNPOまかせ。新潟も結局は国連とNGO,そして数少ない自衛隊員に任せっきりです。

 私はしっかり仕事をしたいのにほぼ何も出来ずにいる。私は今の自分に誇りが持てないのです。」

ヒミコの訴えにアスカは動じる気配を感じさせなかった。

「新潟は外国人の難民キャンプです。あなたはUNHCRが求めるスキルを持ってはいません。問題をごちゃ混ぜにしないで。」

「そうは思わないです。新潟は日本の主権が日常的に侵されているわ。それを回復しないと残留民の援護は出来ないじゃない。私は新潟に行きます。」

アスカが悲鳴に似た声を上げた。

「ダメっ。あなたはまだ子供だわ。何も分かっていない。敷島総理からも重ねて注意されたでしょ。危険な地域に立ち入ってはならないと。これはあなたとの約束だった筈よ。それを守って。」

「アスカさん分かって。あの子供たちの母親を保護して連れ帰るつもり。私が行かなければ誰もそれをやってくれないわ。」

「ヒミコ、あなたは分かっていない。独裁政権に身を置く者たちがどれほど冷酷な行動をとるかあなたは少しも知らない。そして彼らは新潟のどこかに必ず潜んでいるわ。新潟行きは許可できません。どうしてもというなら敷島総理に伝えてあなたの職を解いてもらいます。」

 ヒミコは唖然とした。アスカがこれほど強硬な態度に出るとは予想していなかった。またそれがヒミコの身を案じてのことでもあると思われてヒミコは困惑せざるを得なかった。

「アスカさんが私の安全を考えてくれているのは有難いです。」とヒミコは口を開いた。

「でも、いつかは覚悟を決めなければならないわ。私の決心は変わりません。」

アスカは何も言わなかった。二人に無言の時が流れた。

 ヒミコがその空気を繕うように言った。

「アスカさんもご存知のように基地は衛星用ロケットを打ち上げる予定です。五日後には応援のスタッフ十人がチャーター機でいわきに到着します。

私も忙しくなるので新潟に行ったとしても滞在するわけではないわ。不時着した国連の小型ドローンを回収して届けるのとハナエ・クボさんの情報を確認すればすぐに帰ってくるわ。いいでしょ?」

アスカが力なく応えた。

「私が許可しなかったことを忘れないで。もし新潟に行って残留民と接触するようなことがあったら必ず報告して。どう対処するか私の指示を仰いでください。」

「分かりました。」ヒミコが急いで告げた。

新潟行きを黙認するという事だろうと解釈できた。もっともヒミコは安全保障の対処行動として新潟に行くことを考えていたのでアスカの許可や黙認がどうしても必要なわけではなかった。けれども結果的にアスカを追い詰めてしまったと申し訳ない気持ちが湧いてもいた。

アースボーイから連絡が来た。準備が出来たのだ。けれどヒミコは朝食と弁当を必用としていた。

ヒミコが食堂に向かうとケンイチ兄妹がテーブルに着いていた。食事は終えたらしく、カオルが猫を抱きかかえている。

「お早う。」

ヒミコは挨拶して「サンタ、元気?」と猫にも声を掛けた。

「この子はサンタというの?」カオルは初めて知ったらしい。

「そうよ、山下さんは報せるのを忘れたのね。」

ケンイチが椅子を立った。「ヒミコ、お母さんは?」

「これから行くところ。安心して、きっと見つけるわ。」

「僕も行く。」

兄の言葉にカオルも猫を抱いたまま慌てて席を降りた。

「カーチャも行く。」

ヒミコは腰に両手を当てると断固とした声で告げた。

「あなた達はここで待っていて。二人を危ない場所へ行かせたら私はハナエ・クボさんにすごく叱られてしまうわ。分かった? 大丈夫よ。私を信じておとなしく待っているのよ。」


 ヒミコはアースボーイの装甲車に乗り込んだ。コクピットから隔てられた後部に隊長が控えている。いつものチームだ。装甲車はドローンを運ぶ小型の台車をけん引していた。

「さあ、出発よ。人道回廊を辿って西会津へ、そして鳥居峠付近で新潟へ入るわ。現在、UNHCRの事務所を自衛隊が警護しているから武装集団が動きを見せることは無いと思うけど、注意を怠ることは出来ないわ。気を付けて行きましょう。」

「勿論、旅行ではない。」とアースボーイが応じた。

 装甲車のコクピットに窓は無いが面前に並ぶディスプレーで周囲360度の状況や景色を確認しながら進む。人道回廊は平地を過ぎると山中に入る。それが逐一映し出されていた。やがて遠くに湖が現れたもののすぐに山腹が迫る。

「日本って山ばかりね。」

ところが山肌が大きく削れて茶色の土が露出した風景に気づいた。そこに樹木は一本も無い。

「山が崩れてる。水害かしら。」

ヒミコは呟いただけなのだが、アースボーイの頭の小さな光が青く点滅した。

「山が崩れる原因はほとんど水が関係している。水が地表から浸透することで表層崩壊と深層崩壊が起こる。」

「怖いわね。防げないの?」

「悲観することは無いよ。大抵の山はいつか崩れる、それが摂理だから。部分的な崩壊を繰り返して数万年、あるいは数十万年の時を経てなだらかな丘陵となる。」

「ボーイ、数万年先のことを教えてくれて有難う。」

アースボーイが赤と青の豆粒ほどの光を忙しく点滅させた。

 二時間を要して西会津に着いた。川沿いを進めばUNのドローンが不時着した河川敷が目前だ。

「さてヒミコ、ドローンは安全装置が働いて自動で着地した。だからバッテリーにはまだ電力が少し残っているはずだ。川を渡ってこちらに飛ばしてほしい。」

「えっ、どういう事?」

「河川敷は対岸だよ。」

「私に川を泳いで河川敷に渡れというの? まだ五月よ。水はきっととても冷たいわ。」

「そんなに深くない。水深は一メートル程度。水温は約十五度。」

「遠慮するわ。水深が一メートルならこの車のタイヤ径の方が大きいよ。これで川を渡りましょ。」

「分かった。まず台車を切り離す。」

アースボーイがその操作を済ませて言った。「行くよ。ベルトをしっかり締めて。」

 装甲車が堤防の端までゆっくりと動いた。ディスプレーに川の流れが迫って見える。車は川に向ってせり出して行くが、まだ一番前のタイヤは土手の斜面の中空にあると思われた。構わずに前進すると二列目のタイヤが堤防の縁を越えたとみるやいきなり車体が勢いよく傾いた。思わず悲鳴を上げてヒミコが叫んだ。

「止めて! ストップ、ストップよ。」

ヒミコの体がシートからベルトでぶら下がっている。

「どうしたの。」

「私の体がシートから吊り下げられているわ。」

「ベルトがあるので落ちないよ。」

「ボーイ、このまま川岸まで下りて水に突入するつもり?」

「それから川を渡ります。」

ベルトで体を締め付けられたヒミコが切れぎれに言葉を吐いた。

「降りたとして、ここを登れる?」

「難しいかもしれません。」

「そうでしょうね、今でも土手を滑り落ちそうだわ。」

アースボーイに赤色のライトが点滅した。

「河川敷側にルートがあるかしら。どこかに橋がある?」

「無い。」

「やっぱり。首都から遠く離れたこのあたりのインフラはとっくの昔に滅んでるわ。橋が落ちても放置されたはず。」

ヒミコの声が更に苦しげだ。

「ボーイ、ベルトを外していいかしら。体中の血が止まってしまいそうよ。」

「血は止まらないと予想できる。」

「ボーイっ!」ヒミコが声を張り上げた。

「気を付けて。前部の隔壁はヒミコの両足の一メートル先だ。」

ヒミコは外したベルトにぶら下がるようにして体をコクピットの先端まで滑らせた。大きく息をついた。

「で、どうするつもりだったの。」

「登れないと判断したら隊長に協力を貰う。ワイヤーを引き出して土手の上の立木などに繋いで、それを巻き取りながら上がるのも一つの手段だ。」

「そんな都合の良い大きな木があったかしら。」

アースボーイのライトが赤と青の点滅を忙しく繰り返した。

「分かった。」とヒミコが言った。「私が川に入るわ。私が泳ぐから。…でも流されるかもしれないわ。」

「最も速いところで流速は0・5ノットだ。時速で0・926キロメートル、秒速に直すと…。」

「ボーイ、少し黙ってちょうだい。それよりも先ず土手の上に戻りましょう。早速隊長の力を借りなければ。」

「この距離なら作業アームを使って引き返せる。」

「すぐに実行して。ずり落ちる前に…。」


 ヒミコは思い悩んだ。下着の予備は準備してある。しかし衣服はそうではない。そのまま川に入れば一日濡れた服で過ごさなければならなくなる。Tシャツも脱ぐ必要がありそうだ。するとショーツだけで水温十五度の川を泳ぐのか。

「死にはしないわ。…多分だけど。」と声に出た。

「なにか言った?」

「何も。ただ風邪を引きそうと思っただけよ。」

「ヒーターを使えばいい。ただし十八度以上にはならないよ。」

ヒミコはものも言わずに服を脱いだ。そして気づいた。

「靴もだわ…。ボーイ、靴の予備は無い?」

「ヒミコが用意していなければ無い。」

裸足になるしかない。コクピットのドアを開けると東北の五月らしく風が冷たい。降りようとして自分の細い素足が眼に映った。突然に恥ずかしさが胸に広がった。

「なんだか恥ずかしい…。」

小さく呟いたのだが「誰も見てないよ。」とアースボーイの声がした。ヒミコが憤然とボーイを睨みつけたつもりでもコクピット上のその姿は視界に入らない。

 ヒミコは妙に覚悟が決まった。土手の斜面を慎重に下る。足裏に草の感触に混じって何かがチクチクと刺激する。ついに川の流れが目前に迫った。草の上に尻を下ろして片足を水に伸ばした。冷たさがヒミコの足首を掴んだ。

「ウウ…。」と意味もなく呻いた。

さらに伸ばして膝まで濡らしても川底に届かない。洲の河川敷側とは違っていきなり深くなっているようだ。心細い気分に押し潰されそうになったが水深は一メートルと聞かされている。川底が見えるかもしれないと身を乗り出した瞬間、ツルリと滑って勢いよく水に落ちた。あっという間に首の辺りまで沈んでヒミコが悲鳴を上げた。

 必死で足掻くとようやく足の裏が川底を探し当てた。両足を伸ばすと鳩尾みぞおちから上が水面に出た。ホッとすると同時に濡れた体を寒風が刺した。

「あわわわ…。」ヒミコは訳の分からない声を上げながら慌ただしく手足を働かせ、時折よろめきながら最速と思われる動きで川を渡った。

 河川敷の重なった小石を踏むと足裏が痛かったが文句を口にする余裕は無い。急いで白いドローンに駆け寄ってそのコクピットに飛び乗った。まずパネル類に目をやりバッテリーの残量を確かめる。赤いデジタルで一%と示されていた。

「一%って、どんだけ?」

さらに送受信がONのままであると気づいて焦った。僅かとはいえ残りのエネルギーを失い続けたことになる。

祈る思いでローターを始動する。四つの羽根が勢いよく回転した。手動に切り替える。ふわりと機体が浮いた。

「いける?」二十秒で川を越え装甲車の真上に到達した。

「ボーイ、台車に直接降りるわよ。」

白い機体を狭い台車上にピタリと着けて、ヒミコは安堵の息をついた。あとはベルトで固定しなければならないが優先事項があった。    急いで装甲車のコクピットによじ登る。寒さで全身が鳥肌立ち、顎がガクガク鳴るほど震えていた。

 ヒミコは個人用のバッグを開けた。着替えの下着とタオル、ハンカチ、靴下などが入っている。バスタオルを取り出して素早く体を拭いた。そのまま体に巻き付けてエアコンのスイッチを入れる。ショーツを固く絞って操縦席の小物入れに仕舞った。エアコンがやや暖かい空気を送ってくるのを確かめて衣服を身に着ける。身支度を終えてようやく人心地がつく思いだった。


 人道回廊はかつての国道をその大半で利用していた。道は新潟に入ったあたりで川から離れていく。その名を阿賀野川と変えたところで再び接近すると川の中に橋脚だけが残されていた。国道はここで橋を渡っていたのだがそれが失われている。回廊は国道と繋がった旧県道を選んで進む。高速道路の残骸が所々に姿を現した。

 やがて遠くにアーチ型の橋が見えた。県道がそこへ向かっている。橋は原型を保っているようだ。

「この道はあの橋を通るのね。」

すぐ側まで近づいたところでヒミコが言った。

「私たちは渡れるのかしら。」

「確信はない。」アースボーイが車を停めた。

「橋は国連の物資を積んだ大型トラックが利用したはず。大丈夫なんじゃないかな。」

「この車は二十トンの重量がある。台車を含めると二十三トンだ。」

雪ダルマのような体形のアースボーイには二本の手と足がピタリと収納されている。いま片手が伸ばされ指のような突起をコンピューターのポートに差し込んだ。

「何をしてるの?」

「衛星画像で橋の耐荷重実績を調べる。」

「私にも分かるように見せて。」

「モニター画面に映す。」

ヒミコの前のディスプレイに橋を俯瞰した映像が映された。隅に日付の数字がある。今年四月の記録だ。大型トラック十台が次々と橋を通過する。

「この映像では三台のトラックが同時に橋の上に映ってる。約四十トンの荷重があったと考えられる。」

「つまりこの車が通れる訳ね。」

「ヒミコの指示は。」

「進行!」

装甲車は橋を通過してすぐに阿賀野に至った。そして新潟は目の前だ。

 

 河幅がとてつもなく広がっている。水は逆に浅く狭く数十本に分かれ、はるか遠くまで扇状地を迷いながら流れていく。やがて難民キャンプが見える筈だった。しかしコクピットのディスプレイに映った景色にヒミコは衝撃を受けた。川岸に樹木が一本も無く、緑が見当たらない。あたりは見渡す限り砂だけが陽光に白く輝き、それが何処までも続くようだった。

「砂漠みたい、これが新潟なの?」

ヒミコは信じられない気持ちで周囲の風景に目を凝らした。

「ボーイ、新潟って砂漠の中にあるの?」

「その表現は間違っていない。もともと新潟には列島で最も大きな砂丘が存在していた。そこに気候変動による風食が重なって砂漠化が広範囲に進んだと思われる。」

風食はおもに中部地方で古くから知られる気候現象で、強風によって表土が吹き飛ばされ、植物が姿を消して地肌が露出してしまうのだ。その影響は限定的だったが、気候変動が現象を猛烈なものに変えていた。日本海側の地域では夏に内陸からのフェーン現象に曝され、冬は海から迫る低気圧の暴風に襲われた。このため多くの地域で砂漠化が進み、新潟では二十キロメートルに及ぶ長大な砂の山が夏は海側に、冬には内陸に移動を繰り返した。

ヒミコはカミヤに連絡を入れた。いったい何処に難民キャンプがあるのか全く分からなかった。

「カミヤさん、どこにいるの。砂の山しか見えないわ。」

その高さは五十メートル程もあるか。

「君こそどこにいるか教えてほしい。キャンプは砂丘を越えた場所にある。」

「阿賀野川が大河になって広がった地点にいるわ。目の前に砂丘が壁のように立ち塞がっている。ドローンを積んだ台車をけん引してるからこれを登るのは難しいと思う。」

「一キロほど東側に進めば砂丘が途切れた場所がある。そこからまた西に向かって川を渡り、信濃川の近くまでくれば我々の事務所がある。キャンプの拠点となっている。」

「車でこの川を越せるかしら。」

「河口の近くなら大丈夫だ。川底は流れと風で運ばれた石ころや砂で埋まっている。水がある所でも深さは十センチ程度だ。」

 カミヤが伝えた地点にはすぐに着いた。砂の山が消え、僅かな起伏の白い地表が数キロ先の海にまで向っている。所々に針のように細く長い緑の草が生え、棘の目立つアカシアに似た灌木が疎らに立っていた。丈の低い植物がいきなり地面から扇形に葉を広げ、その剣のような先端が強い照り返しの中で風に揺れている。…これは砂漠の風景だ、とヒミコは思った。

 聳え立つ砂丘を迂回して反転し、西へ針路をとる。やがて大河が見えた。その流れは数十本の細い水脈となって広大な扇状地を這っている。

八輪のタイヤを装着した装甲車が露出した川底に乗り入れた。川岸との高低差は無いに等しい。一定の速度で進む。

「隊長、声が聞こえないけど意見はない?」

ヒミコの問いかけに小さなスピーカーがロボットの返答を伝えた。

「まったく退屈な移動だ。」

「ルーフを開けて外を見物したら。」

「結構だ。興味は無い。」

ヒミコが肩をすくめた。

 危なげなく河床を渡り終えると轍が残る砂の道が続いている。進むにつれ海岸を離れ、小さな砂丘が現れて海の景色を遮った。一方の内陸側には巨大な砂の山がわずか数キロに迫っている。ついにはすべてを砂で覆いつくすかと危ぶまれた。

 前方に建物らしきものが見えた。道の両側に不規則に並んでいる。窓の外に人の姿がある。突然現れた装甲車に驚いたのか凍りついたように動かない。日本人の顔ではない。外見から難民かどうか判断がつかないと思われた。

「隊長、警戒態勢をとって。」

装甲車のルーフが昆虫の羽根のように開いた。隊長があたりを監視する。彼はレーダーと光学的な目を一眼ずつ持っている。

 点々と連なる建物はヒミコにある違和感を抱かせた。そして瓦屋根以外は何もない奇妙な家を発見したとき突然に理解した。建物の一階部分はすべて砂に埋もれているのだ。

 日本海側の地方が巨大地震による破壊から免れたのは確かだ。しかしそこに位置する都市が長きに亘って国のインフラ整備から除外され、都市部の議員が圧倒的多数を占める国会から見捨てられてきたのも事実だった。新潟では年に数回起こる巨大砂嵐によって都市機能がいち早く終焉してしまったが、富山、福井、鳥取、島根などの地方都市も住民が消えうせるという結果は同じ事だった。国の行政サービスを享受するためには首都圏に住むのが絶対的な条件だと彼らが気づいたからだ。

 行く手に小さな砂丘がいくつか現れた。その先に大きな川が途切れに目に入る。信濃川だと見当をつけた。道は川沿いを行く。やがて遠くに高い建物が見えた。場違いに感じるほど堂々とした十数階のビルだ。その前庭とおぼしき場所に青地に白く国連の紋章を標した旗が翻っていた。

「ボーイ、あのビルが目的地だわ。」

指示する一方で首をかしげたいヒミコだった。難民キャンプと都会的なビルが上手く繋がらない。けれど考えてみれば持ち主のいない建物が残されていれば利用するのが自然だ。テントを張る必要がないし風雨を効率的に凌げる。

 ビルの前で数人がヒミコを待ち受けていた。ヒミコは少し考えて拳銃をコクピットに残すことにした。装甲車を降りると一人が間近に歩み寄って装甲車のドアを見上げている。まだ他に人が降りてくると信じているようだった。

「今日は,ヒミコです。」

声を掛けると相手は眼を丸くした。

「えっ、ヒミコさん?」

「そうです、カミヤさんですか。」

四十代で長身の男がカミヤだった。

「これは失礼。UNHCRのカミヤです。」手を差し出した。

「まずお礼を。あなたのお陰で子供たちが危険から救われました。また国連の貴重な機材を届けて下さり有難うございます。」

そしてカミヤは傍らの黒人を紹介した。「私共のボス、オコト・アミン氏です。ウガンダ出身のUNHCR保護官で新潟事務所の責任者です。」

ヒミコは眼を丸くした。新潟とアフリカ人がすぐには結びつかなかった。急いで翻訳機能を持ったイヤホンを耳に差し込んだ。だがそれは無用だった。

「こんにちは、日本政府には多くの協力を頂き感謝しています。」

オコト・アミンは流暢な日本語で挨拶を述べ、握手しながら白い歯を見せて笑った。

「日本語が上手ですね。」

「二十五年も前ですが、国際政治を勉強して京都に五年住んでいました。」

「国連は長いのですか。」

「UNHCRに二十年務めています。」

自分の年齢と同じ時間を国連で働いてきたことになる。

「あなた方の努力で沢山の人が救われたことでしょう。」

ヒミコが素朴な気持ちを口にした。

アミンは「それは我々にとってうれしい言葉です。」と頷いた。

「ヒミコさん、事務所へどうぞ。」カミヤが誘った。

ビルの入り口は玄関の庇に並んだ大きな窓だった。本来の車寄せに大きく張り出した庇はそこだけがようやく砂から露出していた。

「入口はユニークだけど建物は立派ね。」

「県庁だったのです。」カミヤが説明した。

ヒミコは胸が塞がる思いだった。立ち並んでいた高層ビルが倒壊して無人の首都となった東京。ビルだけが残されて人々が消えた地方都市。結局は同じ結末を迎えている。その理由は何か。ヒミコには分からない。

広い事務所には二十人ほどが集まっていた。彼らがヒミコを歓迎しているのは明らかだった。

「簡単に紹介しましょう。英語で…。」

カミヤに告げられてヒミコは急いで翻訳装置の「英語」を選択した。イヤホンが自動的に日本語に翻訳してくれる。ヒミコの言葉は英語で胸元の小さなスピーカーから相手に伝えられるのだ。

「この人たちはMSFのメンバーです。」

数人が次々にヒミコと握手を交わす。

「お会いできてうれしいです。」と一人が言った。「私はマニエル・ロペス・ゴンザレス。国境なき医師団の新潟プロジェクト・コーディネーターです。」

ヒミコは「国境なき医師団」の名を聞いてはいたがその内容をよく知らなかった。このため笑顔を絶やさずに握手に応じたものの言葉を口にしなかった。何を話せばいいのか分らなかったのだ。

内心では困ってしまったヒミコだったが、メンバーの中に日本人と思われる若い女性がいるのに気づいた。

「あなたは日本人ですか。」と声を掛けた。

「はい。名前はマユミ、両親が福岡出身でオーストラリアに住んでいます。」

「マユミさんはお医者さんなの?」

「私は看護師です。」

ヒミコは幾つか年上と思える彼女の真っ直ぐな視線に気後れしながら尋ねた。

「立派なお仕事だと思います。キャンプの現場が日本だから参加したのかしら。」

「いいえ。スタッフに応募して最初の派遣先は選べないのです。偶然に日本列島に来ることになりました。」

「MSFに初めて参加されたわけですね。ここではきっと大変なこと、苦労があったのではないですか。」

マユミは微笑で応えたが、マニエルが代わって口を開いた。

「私たちの活動は自然災害の被災地に限らず紛争地や難民キャンプなど危険な場所でも行われます。この為にスタッフが武装した者やその集団と接触する可能性があるのは事実です。そのような場合にリスクの最小化を目指すのがコーディネーターの仕事の一つです。状況によっては待機、退避などを決断しその情報はスタッフ全員で共有しなければなりません。」

ヒミコは頷いて見せたが「国境なき医師団」について何も知らないままでいると思った。

「あなた方の活動は医療援助だと理解しています。それ以外を知りません。ごめんなさい。」と正直に口にした。

意外な質問と感じたのか数人が顔を見合わせたが、マニエルは余裕のある微笑を見せて言った。

「私たちは独立した公平な立場で危機に瀕した人々に緊急医療援助を届けています。つまり活動の中核は医療です。でもそれだけではありません。人命を守るために必要な衛生設備、水、食料の提供もおこなっています。」

ヒミコは顔を赤らめた。

「日本政府の協力は十分でしょうか。」

マニエルはヒミコを見つめて言った。

「国境なき医師団の日本支部は永くMSFの活動に積極的に加わり、多大な貢献を果たしました。ボランティアのナガタさん、ノダさんを知っています。そしてあの不幸な地震災害が起こりました。我々は力強い支部組織と日本の友人たちを一瞬で失いました。けれどもきっとまた日本支部が何処かで誕生することを信じています。」

「あなたの質問に答えるならば、我々は日本政府の協力を十分なものと感謝しています。」と別の人物がヒミコに告げた。

「ロジスティシャンのスミスです。新潟プロジェクトに必要な医療器材、薬品、食料、飲料水などの必需品を常にチェックして揃えています。これらは九割以上が個人をはじめとする民間からの寄付によるものです。」

マニエルが話を引き取った。

「物資輸送の全面的な支援に感謝しています。それに三百キロメートルの距離に日本政府の機関と病院がある事が我々を力づけてくれます。」

マニエルは再びヒミコと握手した。その手を放さずにヒミコを一二歩誘って横に並んだ。声を落として言った。

「本来ならば私たちは被災してこの国に取り残された人々の医療と援助に取り組むべきかもしれません。しかしその情報が伝わって来ないのです。」

ヒミコは突然に胸を突かれる思いだった。急いで口を開いた。

「震災後も地域に残る人々がいるのは事実です。けれどもその全てを把握できていないの。私たちは医療を含めた援護の準備を整えているけど、更に努力が必要だと考えています。」

「日本列島に残された人的資源が限られたものであることを理解しています。これから後に新たな医療の要請があった場合は我々に協力を求めることも選択肢の一つです。」

「有難うございます。心に留置きます。」

 MSFのメンバーに続いてキリスト教系のNGOに所属するというポルトガル人が活動の内容を告げた。

「私たちの運動体の結成は1918年に遡ります。紛争などの被災者の緊急支援を目的としてきました。新潟では母子の栄養改善としての食料パッケージを提供しています。

 活動の理念はキリスト教精神を基盤としておりますが1997年に国連の諮問資格を取得しています。」

ヒミコは次々に話掛けられた。まるで重要人物となったような気もして面映ゆかったが内容は初めて耳にすることばかりだった。

「あなたはUNHCRが求めるスキルを持ち合わせていない」とアスカに指摘されたことを思い出し、ヒミコは「確かにその通りだ」と少なからず気持ちが沈んだ。

 この時に迷彩服をまとった二人が部屋に現れた。自衛官とすぐに気づいてヒミコは思わずホッとした。看護師のマユミ以外は外国人ばかりだったので気疲れしていたのかもしれない。

「今日は、内閣府のヒミコです。」

ヒミコは自ら近づいて声をかけた。

 自衛官二人は無言でジロジロとヒミコの顔と体を見やった。疑わし気で、まるで値踏みするような視線だ。

「氏名を教えてくれないかしら。」

ムッとしたヒミコが質した。先ほど抱いた安堵の気持ちを搔き消したい気分だった。

「荒川、陸曹長です。」若いほうが答えた。

隣の無精髯の男は荒川陸曹長より年上で四十代に見えた。眼も口も細い。無表情ながら口を開いた。

「二等陸尉の国分寺だ。護衛中隊を指揮している。」

国分寺は少し首を傾げて続けた。「だがあんたはどういう立場の人間なのか?」

「私は内閣官房副長官補の下で働いている。副長官補は安全保障並びに事態対処、危機管理を担当している。」

ヒミコは国分寺を見つめて続けた。

「質問して良いですか。」

国分寺は細い眼を開いてヒミコを見返している。やがて不機嫌そうに頷いた。

ヒミコは内閣府の事務概要や管理系統などに目を通していて良かったと内心で胸を撫で下ろした。同時に決意めいたものが湧くのを感じていた。いわきの科学基地は事実上兵器を保持している。一方で目と鼻の先で新潟の地が主権を失う危機に瀕している。日本政府が主張する領土と他国に支配されない独立性が危ぶまれる状況だ。ヒミコは自分が一歩を踏み出そうとしているのを自覚した。

「先日オコト・アミン氏らが危険な状況下に置かれたと聞きました。今後同じような事態を防ぐために内閣府が協力出来ることはありませんか。」

陸尉は不信の色を表わして言った。

「あんたが何かを決めることが出来るとは思えんが?」

「出来ることは限られてるけど、装備については期待に応えられると思うわ。多分だけど。」

「装備?」

「そうです。新潟キャンプは密集していなくて東西に長い形をしているのを知りました。警備隊の移動に課題があるのではないですか。だったら適当な車両を準備できるかも。」「

荒川陸曹長が一早く反応した。「ほんとに?」

ヒミコは二人を交互に見ながら聞いた。

「今どんな車を使ってますか。」

「装輪の偵察車だが一台しかない。」国分寺が答えた。「最低でもあと一台は欲しいところだ。」

「どのような車ですか。」

「三軸六輪駆動で、定員が五名、二十五ミリ機関砲を搭載している。分かるか? 軽装甲で二十ミリ以下の火器なら耐えられる。」

「エネルギーは水素ですか。」

「そうだ。水素電池車だ。」

「水素はどう調達してますか。」

「難民支援のNGOが水素ガス製造装置を設置してくれている。だからいつでも圧縮ガスを補給できる。」

「液化水素ではないのですね。」

「現場で液化までは無理だそうだが、我々は圧縮ガスの方が利用しやすい。五分もあれば高圧タンクを万パイに出来る。」

「よく分かりました。少し待ってください。」ヒミコは装甲車のアースボーイを呼び出して国分寺の説明を伝えた。

「同じような車両を提供したいけど可能?」

「可能だよ。すぐに使える装甲車が一台ある。ただし、これには衛星通信用のアンテナと監視用センサーが付いているが機関砲が付いていない。」

ヒミコが国分寺に伝えた。

「最適と思われる車両が一台あるわ。でも機関砲が付いていないらしい。」

「まずいか?」

国分寺が荒川に質すと、彼は喜色を浮かべて答えた。

「隊が保持している機銃が連装出来ると思われます。」

国分寺が大きく頷いた。

「それが本当に提供されるなら有難い。」

「約束します。その他にも協力出来ることがあると思いますので今後も連絡を取り合いましょう。」

ヒミコが改めて手を差し出すと、国分寺が躊躇いがちに握手で応じた。眼は更に細く見え、頬に赤みが差していた。

 

 ヒミコはカミヤの姿を探した。新潟に来た本来の目的、ハナエ・クボ・クズネツォフの消息を知りたかったのだ。すぐにカミヤと目が合った。カミヤはヒミコを部屋の外へ連れ出した。

「こちらで話しましょう。」と声を潜めた。「盗聴の可能性がある。」

「そんなことが?」

「あの男たちが保護官を軟禁した際に、部屋が占拠されていた。念の為だ。」

ヒミコは再びアスカの言葉を蘇らせた。…彼らは新潟の何処かに潜んでいる。そして目的のためには手段を選ばない。

 「ハナエさんの居場所を知ることが出来た。」とカミヤが告げた。

「彼女の友人のアンナ・ポポフさんと一緒だ。」

ヒミコはホッとした。幼い兄妹の顔が浮かんだ。

「私が子供たちの所へ連れていきます。」

「ところが、だ。」カミヤが表情を曇らせた。

「電話で話したんだが、ハナエさんはどうしても新潟を離れるわけにいかないというのだ。」

ヒミコは驚いた。ハナエ・クボは身の危険をよく知っていると受け止めていた。

「理解できないわ。」

「それはこういう事情だと思う。夫がネオ・ソビエトに残って反政府活動を続けている。彼女としてはそれをサポートしつつ彼が安全に国外へ脱出することを望んでいる。しかし状況は複雑なようで、夫の出国は簡単なものではないらしい。そのため彼女はそれが実現するまで新潟に留まるつもりでいる。」

「どうかしてるわ。」

ヒミコは腹立たしい思いだった。若いヒミコは政治体制をめぐる社会運動の成り行きよりも、母親を心配して涙を流した少年の姿の方に重い意味を感じていた。

「ハナエさんと会って話したいわ。」

「どうするつもりですか。」

「子供たちの傍にいるように説得します。彼女一人が新潟にいてもいなくても政治情勢に影響はないでしょう。」

カミヤは両腕を組んで考え込んだ。

「どうしたんです? 何か問題でも…。」

「我々はネオ・ソビエトの当局に監視されている懸念がある。もしハナエさんを訪ねるとなると、彼女の現在地が知られてしまうかも知れない。とくにヒミコの車は目立つ。」

ヒミコは言葉を失った。国連の職員たちは想像以上に強いプレッシャーに直面しているのだ。

 もしハナエが意思を変えず、さらにカミヤの危惧が現実になった場合は国分寺二尉の護衛隊に後を託すしかなくなる。さすがにそれは無責任と思えた。

だがヒミコはすぐに迷いを払拭した。自身の決意が変わらないと知っていた。

「結局私がハナエさんを説得してここを離れればキャンプの危険要因が一つは減るわけね。首に縄をつけてもいわきに連れて行くわ。お願い、彼女の居所を教えて。」

「首に…。若い女性からその言葉を聞くとは思わなかったな…。」

「カミヤさん、真面目にやって。」

カミヤは携帯の画面をヒミコに示した。マップの一か所に小さな赤いポイントが標されている。

「分かるか?」

「ごめんなさい、まったく分からないわ。」

信濃川という文字だけが眼に付いた。

「川沿いに北東へ四キロ進む。」カミヤは声を落として説明した。「旧港に出る。東の岸壁あたりに二階建ての白い建物がある。ヒミコが訪ねると私からハナエさんに連絡しておく。だが直接ここへ行かずに他にも寄ってくれ。アンナにも危険に遭って欲しくない。」

「特定されないようにってことね、用心するわ。有難う。」

「気を付けて。水素燃料を補充しなくて良いかい?」

「大丈夫、電磁波を利用して充電してるから。」

カミヤはきょとんとしている。ヒミコはうまく説明できないと知っているので黙っていた。空気中の電磁波から磁力線を捉える発電素子をタケルが開発していた。このシステムを積んだヒミコの装甲車は燃料が切れても数百キロを走行できる。

「カミヤさん、もう一つ…。ここのキャンプか周辺に日本人は住んでいないのかしら。」

「確証はないが、キャンプの外になら可能性はある。」

ヒミコは驚きと落胆を同時に覚えた。確証のない可能性ならばそれは何処にでもある。

「キャンプにはネオソビエトの北東部に位置するサホ共和国の出身者が十人ほどいる。サホ共和国の人口は百万人くらいだが顔立ちが日本人に似ている。」とカミヤが続けた。

「その彼らがキャンプに辿り着く途中で出会った人物に耳にした事のない言葉でしつこく話しかけられたと語っていた。それは多分日本人だったのではないか。」

「その出会った場所は何処だったのかしら。」

「ここから四十キロほども北の、山形の手前くらいらしい。」

「有難う、調べてみます。ハナエさんについては結果を報せるわ。」


 ヒミコはわざと廃屋に立ち寄るなどしながら目的の場所に向った。ルートは簡単だ。川沿いに港まで行けばよいのだ。その信濃川が方向を変えて海に向かい、やがて広大な港に流れ込む。突き当りの岸壁あたりに白い建物が見えた。一階は半分が砂に埋もれている。壁に「フェリー」の文字が辛うじて読める。

 直ぐ側に車を停めた。

「外へ出るならヘルメットと防弾着が必要だ。」とボーイが指摘した。

素直に従う。砂の上に降りると意外と固い感触だ。大量の砂は岸壁を越え港の中にまで広がっていて、白っぽく変色した海底が数十メートル先に続いて見える。浚渫工事が無ければ港は使い物にならないだろうとヒミコは思った。

建物の一階のドアは砂で閉ざされている。港に向いた玄関口も砂に埋もれ、その重量のせいか大きなガラス扉が無残に壊れていた。ガラスが割れ金属製の枠も変形している。奥を窺うと幅広の階段が見えたが、ガラスの隙間を潜って入るのは危険だ。

「ハナエさん。」声を掛けた。返答がない。

…本当にここにいるのか? ヒミコは白い壁を横に周り込んだ。狭い階段がある。非常階段か。鉄柵と手摺りが共に赤く錆びている。   足元に目を落とすと砂の上に靴跡を見つけた。

…人がいる。

ヒミコは静かに歩を進めた。拳銃を携帯すればよかったと一瞬思った。

 入口に面する小さなテラスまで登ると、ドアが待っていたように中から押し開かれ、ヒミコは跳び上がるほど驚いた。

「ヒミコさん?」女の声だ。

「そうです。ハナエさんですか。」

ドアがいっぱいに開けられハイネックの青いシャツを着たハナエ・クボが姿を見せた。三十代半ばの若さだがヒミコからすればかなり年上だ。一方でヒミコが子供に見えたのかハナエはまじまじと来訪者を見詰めた。

「ケンイチ君とカオルちゃんをお預かりしています。」

ヒミコが告げるとハナエは唐突にヒミコの手を両手で包んだ。その眼を忽ち潤ませ「有難うございます。」と声にした。

「あの子たちは元気にしています?」

「はい。それについてあなたに話があります。」

ヒミコは単刀直入だ。「ハナエさんに会いたいと彼らが願っています。私と来てください。あなたを連れて行くつもりです。」

「それは…ちょっと待ってください。」

ハナエが苦悩の表情を浮かべた。

 そのときになってもう一人の女性が視界に入った。対照的な色の赤いセーター姿だ。ヒミコは彼女がアンナだろうと推測したが更に辺りを見渡した。他にも人がいるのかもしれない。

 そこは広いフロアーで椅子が数列並んでいるほかは何もない。空間を囲む壁の一面に小さめの窓が並んでいる。待合室のような雰囲気だ。一角にカウンターで仕切られた小部屋がある。もとはチケット売り場か案内所だったのか。ドアの隙間からソファーベッドが見えた。そこが居室として利用されているようだった。

「私はアンナ。」と赤いセーターの女が口を開いた。

ヒミコは急いで翻訳機能の「ロシア語」をセットした。

「他に人はいないわ。」

アンナはヒミコの表情を窺いながら言った。

「あなたはハナエを連れて行くつもりのようだけど、それが彼女を助けると考えたら間違いだわ。」

唐突ともとれる言葉にヒミコは戸惑った。

「逃げても状況は変えられない。救いにはならないのよ。」

「いったい何の話?」

ハナエが慌てて説明役をかって出た。

「アンナは皆のことを言ってるの。ここに残った人たちは家族が大陸を脱出して日本海を渡ってくるのを待っているのよ。安全な場所へ逃げたいけれど、ここにいる必要があるの。」

「その気持ちは分かるつもりよ。でも待つというなら新潟にいるのもいわき市で待つのも同じじゃないかしら。」

アンナが両手を広げて強い口調で言った。

「私たちが何もしないでただ待っていると思う?」

「アンナ、それを話す必要は無いわ。」ハナエが制止した。

アンナはハナエを振り向いて頷いた。だがヒミコに対して言いたい事はハッキリさせるつもりのようだ。

「キャンプにはリーダーが必要なの。私とハナエがその役割を果たしてきたわ。これからもね。そして何よりも今、私達の活動が重要な局面を迎えている。独裁政権が揺らぎ始めたのよ。国内では政権を批判する声が高まっているわ。ハナエはこれを世界とそこに暮らすロシア人にアナウンスしている。政権に、世界中が見ていると判らせるのよ。それがこの場所から発信する意義だわ。」

つまりアンナはハナエが新潟を離れないよう願っているのだとヒミコは受け止めた。アンナを無視してハナエに告げた。

「ハナエさん、人にはそれぞれ大切な事があって、それは一つだけとは限らない。そうでしょう? ケンイチ君とカーチャを抱きしめてあげてください。その後はハナエさんと家族の問題に口を出すつもりはありません。」

ハナエは静かに視線を上に投げた。迷っているのか何も言わない。「今は皆にとって大事なタイミングよ。」

アンナが囁いた。ハナエが意に沿わない決意を口にするのではと焦っているように感じた。

 彼女はケンイチ兄妹を気にかけていない。ヒミコは苛立ちを覚えて言葉を投げた。

「あなたの国の歴史に詳しい訳じゃないけど、昔に同じような事があったわよね。ソビエト共産党の独裁者に完全に支配され、挙句の果てに百万人以上の国民が弾圧され命を失ったではないですか。それなのに同じことを繰り返そうとしている。理解できないわ。」

アンナがヒミコを睨んだ。

「随分と昔の事を言うのね。あなたは時代背景を無視しているのよ。当時のロシア国民の大半が農奴だった。彼らは人と扱われず、死せる魂と呼ばれることもあったほど。だから共産党の方が地主よりマシだと思い込んだのも無理はないわ。でも今は違う。ネオ・ソビエトの独裁体制はそう永くないのよ。」

「昔にもあなたのような楽観的な人が沢山いたはずよ、多分だけど。でも歴史はあなたが望むような結果になったかしら。」

「二人ともやめてッ。」

ハナエが鋭く制止した。

「なんてことなの。アンナ、彼女はまだ子供よ。」

二人は睨み合っていた。アンナの固く結ばれた唇が細かく震えた。その表情はまるで追い詰められた者のようだ。ヒミコは悟った。ネオ・ソビエト国内の政治情勢はアンナといえど決して楽観できるものではないのだ。

 ヒミコは自分の言葉が無神経だったと後悔した。それでも幼い兄妹を思うと安易に謝罪する気にはなれなかったがアンナが先にそれを口にした。

「ごめんなさい。なんだか言い争いのようになったわね。」

「こちらこそ。」ヒミコは急いで言った。「あなたに同情しているのに…。」

 突然ヒミコの耳にアースボーイの声が飛び込んだ。

「聞こえてる? ヒミコ、ハナエたちが客を招待したか確かめて。」

ヒミコは窓に駆け寄った。嵌め殺しの窓枠は動かない。外を窺うが人影が見えない。

「どっち?」

「北東の方角。バギーバイク四台が接近中。うち一台はサイドカー付き。」

「ハナエさん、誰かをここへ呼んだ?」

「いいえ。」ハナエも急いで窓の内から辺りを見渡した。視界は狭く何も見えない。

アンナが猟銃を携えて居室から出てきた。

「どうやらヒミコは道案内をしたようね。」緊張によるものか眼がギラリと光った。

「ボーイ、距離は?」

「約二キロ。」

「自衛隊員じゃないのね。」

「武装しているが自衛隊の制服ではない。顔はゴーグルとマスクで人種、民族を判別できない。制圧する?」

ヒミコは迷った。何者かを確認せずに攻撃するわけにはいかない。しかし武装した農民や漁民のグループがいるだろうか。疑わしいがあり得ないと断言できない。アースボーイは無言でヒミコの指示を待っている。

「攻撃の意思があるか確かめたい。少し待つ。」

「ヒミコ、手遅れにならないかしら。逃げるか、どうするか、早く決めた方がいいわ。」

「大丈夫。」ヒミコは落ち着いている。

傍らでアンナが猟銃を握りしめていた。猟銃には銀色の模様が飾られていて武器というより装飾品のようだ。

 やがて遠くからエンジンの音が響いてきた。内燃機関を持つかなり旧式のバギーバイクのようだ。

「ネオ・ソビエト製のバイクよ。」アンナが震える声で囁いた。

ヒミコが隊長に告げた。

「警戒と反撃の体制を準備して。」

装甲車は窓から見える位置にあった。そのルーフが昆虫の羽根のように開くと、隊長が黒く光る鋼鉄の頭を突き出した。

「あれは何?」

「いわきの基地の警備ロボ。私たちを守ってくれるわ。」

隊長が地上に降りて、四本足で数メートル進んだ。初めて隊長を目にした人間は大抵が恐怖に襲われる。バイクのエンジン音が騒々しく乱れて、遠ざかって行く。

「どんな人達か知らないけど、賢明ね。死なずに済んだわ。」

ヒミコが呟くと、アンナが言った。

「あなたの警備ロボは何故撃たなかったの?」

アンナは猟銃を抱えて震えていた。彼女はまだ強い緊張感から解放されていない。そして自分の言葉に自己嫌悪を感じたのか急いでヒミコから目を逸らせた。

 三人は沈黙の中にいた。考えることはほぼ同じだった。潜伏場所が知られたのだ。バイクを駆って来たのは多分ネオ・ソビエトの公安か秘密警察だと思われる。直接の原因となったのはヒミコの行動だ。カミヤの危惧が現実になったわけだ。問題は今後だ。その点ヒミコの意思は決まっていた。

アンナが沈黙を破った。

「ハナエ、あなたはこの娘の求めに従っていわき市へ避難すれば良いと思う。私は別の住処を探して日本の自衛隊員に護衛してもらうことにする。今はそれがいいわ。」

二人は互いに手を取り、見つめ合った。ハナエは友人の言葉に従うつもりだ。

「アンナ、注意深くありなさい。私たちが佐渡を中継地としているのを彼らは気付いているかもしれない。大陸の漁民と接触するときはこれまで以上に慎重であるべきよ。私はいわきに居ても最大限協力させてもらうわ。」

「頑張りましょう。諦めない限り未来は私たちの物よ。」

ヒミコが二人に遠慮がちに声を掛けた。

「このような事態を招いてしまって申し訳ないです。」

「あなたを責めるつもりは無いわ。それよりハナエをお願いします。」とアンナが応えた。

「分かりました。アンナさんの住居についてはカミヤさんが相談に乗ってくれると思います。」

ヒミコはアンナと手を握り合った。

              (つづく)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ