第36話「価値ある命」
――時刻は、ちょうど日付が変わろうとする頃だった。
ドンッ!!
何かが重く落ちる音が、宿泊施設のバルコニーに響く。
「……なに?」
ラシャが目を覚まし、飛び起き、寝具をはね除けてバルコニーへと駆け寄る。
ホニーもすぐに追いかける。
そこに、息も絶え絶えの天竜がいた。
「……バトラ……!」
ラシャの声が震える。
バルコニーの床に倒れこむように伏せていたのは、ラシャの契約竜――バトラだ。
体中に裂傷と黒焦げの痕があり、翼の片方には酷い火傷。
「ラシャ……ホニー……」
バトラは目を細めながら、懸命に声を振り絞る。
「お前たちの母からの手紙が……背に、ある。……急いで、読め……」
言い終えると、バトラは片目を閉じた。
すぐにでも崩れそうな体を支えるように、足元の床板が軋んだ。
「待ってて! 今、竜医を呼んでくる!」
ラシャはもう自分が妊娠中であることなど忘れ、扉を開けて飛び出していく。
「ラシャ姉、私が呼んでくる。」
ホニーが咄嗟に止めるも、ラシャはすでに町へ駆けて出て行ってた。
姉を止めようと追いかけようとしたところ。
「ホニー.....]
バトラが息を切らせながらホニーを呼ぶ。
ホニーはコクリとうなづき、バトラの背に巻かれた包みを解き、血で濡れた紙束をそっと開く。
手紙を開くその手が、震えている。
手紙を読む。きわめて冷静に、ナーグルに動揺を悟られないように。
「ホニー姉……バトラ大丈夫?……酷い傷、どうしてこんな……」
まだ状況を呑み込めない、ナーグルが不安げにホニーの手を握る。
手紙を読んだホニーは、姉としての顔を捨て、弟の目線までしゃがみ込んだ。
「ナーグル……ごめんね。お姉ちゃん、ちょっと仕事でしばらく帰れなくなるかもしれないの」
声は優しかった。いつも通り。
けれど、その目だけは笑っていない。
「……え?」
ナーグルは涙を堪えるように首をかしげる。
「ラシャ姉にも、伝えておいてね」
ホニーは立ち上がり、手紙を胸に抱く。
「バトラ……ありがとう」
そう呟くと、震えたままの手で彼の前脚に触れた。
「……ナーグルのことは任せておけ。……手紙を届けた意味を無駄にするな、行ってこい」
深手を負いながらも、バトラは変わらぬ強さでホニーに言った。
ホニーは、何も言わずに頷いた。
「……マート、行こう」
白き天竜が静かに現れ、バルコニーから空へと舞い上がる。
***
精都アーミム、戦時司令室。
「緊急伝令です。テンペスト卿より戦時報告の件にて」
ホニーは真夜中の司令室に通された。
領主のルルザは不在であったがシャッハ司令は椅子にもたれ、目を閉じていたが――声に気づいて顔を上げた。
「……何用だ」
「アクルの母から詳細な戦況報告が届きました。……あわせて、脱出作戦の概要も」
ホニーは短く、深く息を吐いてから語り始めた。
敵戦力は、テンシェン新型戦闘機およびローチェの最新爆撃機による編成。
すでに制空権は完全に奪われ、海からは連続的な艦砲射撃が続いている。
アクルは、事実上の孤立無援の戦域となっていた。
そして――
「明晩、天竜との未契約者、負傷者含めた一般人を乗せた避難船が中部諸島へ出発。
そのため、夜間に残存戦力での奇襲・艦隊襲撃を計画。
……天竜契約者と、すべての天竜で脱出支援を行った後、離脱するとのことです」
室内が静まり返った。
「……アクルを、放棄するのか」
シャッハが、重く唸った。
「……アクルへの支援は……難しい。こちらも住民避難で手一杯だ」
その言葉に、ホニーは一歩踏み出す。
「シャッハ司令……アクルの未契約者の多くは、魔術適性が非常に高く、将来的に航空隊員の中核となれる人材です」
シャッハが言葉を挟もうとした瞬間、ホニーはさらに続けた。
「天竜は、飛行機に及ばぬ部分もありますが――夜戦や偵察では、今後も不可欠です」
そして、目を逸らさずに言う。
「……今アーミムにいる私の姉は、妊娠中で弟はまだ八歳です。その二人よりもアクル避難民の価値は高いです。決して私情を入れるつもりはありません。」
ホニーの声が震える。
「――私は星渡りのテンペストです。
……南部諸島だけでなく、シーレイアの国家のために判断してください」
その一言が、室内の空気を変えた。
シャッハは、ホニーの瞳をじっと見つめる。
(……これが、“星渡り”)
眼の前にいるのは17才の少女ではない、神話の具現者にして特命外交官、危機管理局長の代行権すら持つ人物そのものであった。
静かに、椅子から立ち上がる。
「……小破した空母コタンコロを、明朝には霊都へ送る手筈がある」
「テンペスト卿には、今から作る伝令を携え、即時先行してて霊都へ向かってほしい」
背筋を伸ばし、涙ひとつこぼさずにホニーは、頭を下げた。
***
シャッハから託された文書をホニーは胸に抱え、マートの背にまたがった。
夜空には薄雲が流れ、星の姿は見えない。
「私、娘としても、妹としても、姉としても……最低だ。」
ホニーはぽつりとつぶやいた。あのとき、シャッハに言い放った言葉が喉を刺す。
「僕も、そう思うよ。」
マートは振り返らない。慰めるでもなく、断じるでもなく、ただ事実を述べるように。
「アーミムからの避難船は、十中八九、途中で狙われる。空中からの護衛が必要だ。」
その声は静かで、冷たい夜気のように、ホニーの耳を刺した。
「たくさんの命より、国にとって価値のある少数の命――私は、あの場でそれを選ばせた。」
ホニーの声が震える。
「それを言わせたのは、私の……言葉だった。」
しばしの沈黙が流れたあと、マートは柔らかく言った。
「ホニー、君がどんな道を進もうと、僕は君と共にある。」
それは決して救いではない。ただ、この不条理で、救いのない世界を、共に歩むという選択。
「……マート、ごめん。そして、ありがとう。」
ホニーはマートの首元にそっと腕を回した。ぬくもりよりも、冷たさに似た安心がそこにあった。
そのときふと、フジワラの胡散臭い笑みが思い出す。
――ようやく、わかった気がする。
あの笑顔の裏には、飲み込まざるを得なかった選別の矛盾と、割り切れぬ痛みがあるのだと。
***
霊都カラバロンの空に、夜明けの光が滲み始めた頃、ホニーは鎮守府に到着した。
真新しい制服を着た若き衛兵に導かれ、司令室の扉を叩く。
「テンペスト、来たか。」
振り返ったヒサモト司令は、ホニーを見るなり短く告げた。
ホニーは無言でシャッハからの報告書を差し出す。
「――あい、わかった。」
書面に目を通したヒサモトは眉をひそめ、わずかに唸ると、部下を呼び伝令を告げた。
「オオクラ局長より伝言。テンペストは当面、霊都にて南部諸島からの避難民輸送支援にあたれ。
別命あるまで、わしの指示に従うように、とのことだ。」
ホニーはまっすぐに答える。
「ヒサモト司令、指示を願います。」
「アクルからの避難民支援にあたれ。本日夕刻、出立。こちらからも護衛空母を一隻派遣する。
おぬしには、上空から避難船団の警戒と敵機偵察を任せる。」
「了承しました。」
敬礼を終え、司令室を後にしたホニーは、重い足取りで一時休息所へ向かう。
その途中、廊下の角で一人の女性とすれ違った。
「――ホニー。」
立ち止まったのは、ジャスミンだった。護衛空母への移動途中のようだ。
何か言いかけたが、ジャスミンは言葉を飲み込む。そして代わりに、短く言う。
「ホニー、やるしかないよ。」
「……ジャスミン。」
言葉が喉で詰まる。ホニーはただ、肩に残る体温に手を重ねる。
そして見送るように、空を仰いだ。
夜の闇はもうそこにはなく、戦場に向かう光が昇り始めていた。




