第30話 「もう一つの未来」
「ミルキー祭」
レコアイトスの国教であるミルキー教。その神々や精霊達を称えるお祭りである。
バッファハリーの街では、この三日間が一年でもっとも賑やかな季節だという。
そして今年――
神話でしか存在しなかった“星渡り”の誕生に沸くこの街は、例年以上の熱狂に包まれていた。
ホニーの星環海横断成功の祝賀会は、祭の二日目の夜に開かれる。
初日の今日は、本来なら兄グラルと街を見て回る予定だった。
「お祭り、行きたかったな……」
ホニーはバルコニーから遠くの街並みを眺める。
通りには色とりどりの屋台と人波、紙吹雪が風に舞い、祭囃子が微かに聞こえる。
本当は自分の足で歩いてみたかった。
けれど――
「無理だよ。あれだけホニーの写真が並んでたら」
マートの声に、ホニーは小さくうめく。
「ブロマイドって何!? なんであんなのが出回ってるの……」
ホニーがお祭りを歩けない原因。祭りのいたるところにホニーの写真が飾られていたのだ。
「レコアイトスの工業力ってすごいね。昨日の昼の写真が、もう露店に並んでるよ」
「そんなすごさ、いらないよ……」
ホニーは溜め息をつきながら、部屋のドアの前に視線を向ける。
ちょうど約束の時間だった。
ノックの音が響き、落ち着いた声が続く。
「アレックス・ノノレです」
ホニーは深呼吸をひとつして、ドアを開けた。
立っていたのは、兄グラルと同じくらいの年齢に見える優しげな青年だった。
どこか影のある、静かな雰囲気を纏っている。
「はじめまして。ホニー・テンペスト・ドラグーンです」
ホニーは笑顔をつくり、丁寧にノノレを招き入れた。
彼が椅子に腰掛けると、ホニーは立ち上がり、頭を深く下げる。
「助言を、ありがとうございました。ノノレさんのおかげで、私たちは命をつなぎとめることができました」
マートも隣で頭を下げる。
「顔を上げてください」
ノノレは微笑む。
「私の言葉が、ほんのわずかでも役に立ったのなら、それだけで十分です。……あなたがたは、“越えた”のですね」
『何を』とは言わずに、彼はそう言った。
ホニーもまた頷く。
「“精霊は味方だ”――あの言葉だけが、最後まで残っていました」
短く。だが、確かに届いた想い。
「……それと、報奨の件、感謝します」
ノノレは穏やかに礼を述べた。
「けれど、申し訳ない。すべて辞退させていただきます。“星渡り”の称号は、あなたちだけのものです」
彼の言葉に悔しさも、未練も滲んでいなかい。
ただ、清々しいほどの静けさがあった。
「……ご迷惑、だったでしょうか」
ホニーは思わず聞いてしまった。
その人の過去を勝手に掘り起こしたことへの、後悔のようなものが滲んでいた。
「いいえ。とても、嬉しかった」
ノノレは少しだけ視線を外す。
「“星渡り”が誕生した。それだけで、生き恥をさらしてでも生き残った価値があったと、思えました」
ノノレは挑戦前はレコアイトス史上最高の竜使いと呼ばれていた。皆が成功を確信していた中での失敗。
そして失敗後は空すら飛べなくなっていた。
「それだけで……もう、飛べない身には、十分なのです」
彼の表情は、静かで、まるで達観した老人のようだった。
ホニーは、なんとなく察してしまった。
「……もしかして」
「ええ。あれだけ好きだった空が……怖いんです」
その言葉に、ホニーの胸がひどく締めつけられる。
あの16時間の先にいた“魔物”。
空と自分の境界が溶けていく感覚。
マートを疑い、自分を失いかけた――
ほんの少しの差で、自分も“飛べない側”にいたのだと。
(この人は、私のもう一つの未来だったんだ)
そう感じると、ホニーは胸の奥が締め付けられる。
その後軽く談笑し、ノノレが去り、扉が閉まる。
外の通りから、祭の喧騒が遠く聞こえてきた。
笑い声、音楽、歓声――
空を飛ぶことを諦めた彼が、それでも私を助けてたくれた。
それがなければ、今の自分はなかった。
「……ありがとうございました」
ホニーは窓の外を見つめ、
羽を焼かれてなお、空に手を伸ばした同士へ――
心のなかで、深く、礼を告げる。




