第26話「魔物」
無線が、沈黙した。
その小さな絶望が、満月も隠された夜の空に、黒く染みを広げていく。
――助けを呼べない。
その事実が、ようやく“本当に失敗するかもしれない”という現実に輪郭を与えた。
マートの心に、はっきりとした言葉が浮かぶ。
『死ぬかもしれない。ホニーが。』
生まれた日から隣にいた相棒。
人と竜であるがゆえ、いつかは別れが来ることも理解していた。
だけどそれは、もっとずっと先の未来――老いたホニーを見送る、そんな穏やかな別れのはずだった。
(今じゃない。こんな誰もいない空の中じゃない……!)
焦燥が胸を焼く。
速度を緩め、高度を落として岩礁でも探した方がいいのではと考える。
けれど、一度落とした速度を、この体力で戻せる保証はない。
マートは空を見上げた。
ちょうどそのとき、満月が雲間から顔を出す。
銀白の光が、霧を照らす。
下界が見えない。海が、空が、地平さえも、さきほどまでなかった霧がすべてが全てを包んでいる。
(このタイミングで霧なんて、なんでだよ……)
――ここは本当に、どこなのか。
境界が、溶けていく。
空と自分。体と風。ホニーとマート。その輪郭が、ひとつずつ曖昧になっていく。
***
ホニーは、マートの飛び方にわずかな乱れを感じた。
(マート……?)
無線が沈黙したあの瞬間から、二人の飛行は、目に見えない何かに押し流されていた。
だがその違和感が、逆にホニーの意識を冷やす。
(私……なにか、大切なことを忘れてた)
頭の奥に、レコアイトス大使が伝えた言葉が浮かぶ。
>「自分を信じろ」
>「相棒を信じろ」
>「精霊は味方だ」
あの時、ホニーはマートを疑った。
指示を無視されたことに、怒りと戸惑いを覚えた。
でも今ならわかる。
(……違う。あれは、私がマートを信じきれなかっただけだ)
単独飛行で一番してはいけないこと。
“疑う”こと。そのわずかな裂け目が、挑戦者を呑み込むのだ。
ホニーはマートを疑わない。それだけは絶対だ。
竜使いにとって飛行の大前提は、互いを信じることだ。
星環海横断に挑戦するのは最高の竜使いと天竜。
「疑わず信じる」は意識するまでもなく当たり前のことなのだ。
絶対に疑わない存在を疑う。
――それが、神話の入口。一番の魔物だ。
理解と共に、ホニーの中にひとつの違和感が残る。
「精霊は味方だ」
その言葉だけが、まだ腑に落ちていなかった。
(魔力が尽きた恐怖かと思ってた。空との境界が曖昧になる感覚も……でも、もしかしたら)
――これは“精霊が身体に入ろうとしている”兆しなのでは?
確証はないが、ホニーはそっと空気に身を委ねた。
当たり前の風の中に、微かな“誰か”の気配がある。
それは手を貸すようでもあり、ただ見守っているようでもあった。
失われた魔力の代わりに、何かが確かに流れ込んできている――そんな感覚があった。
(……そうか。これが、“精霊は味方だ”)
***
マートの体が僅かに震えていた。
ホニーはそっと前へ身を乗り出し、背に寄りかかる。
凍える風の中で、その温もりだけが現実だった。
「マート、落ち着いて。……私はもう大丈夫だよ。」
その声には、もう怯えも焦りもない。
ただ、静かで穏やかな、空を愛する竜使いの声だ。
「私たち、今……空と海の間じゃなくて、空そのものにいる気がするよね。」
マートは黙ってうなずく。
「でもね。きっと精霊たちが、見てくれてる。応援してくれてる。」
風の中に、確かに“何か”がいる気がした。
その感覚を、マートもまた感じているとホニーは確信をもって話しかける。
「だから、信じよう。空も、精霊も、そして――私たち自身を。」
その声に、マートはようやく笑顔を取り戻す。
「うん。ホニーを信じる!」
再び交わされた、ただひとつの約束。
それがあれば、どこまでも飛んでいける気がした。




