第25話 「絶望」
16時間を超えてから、どれくらいが過ぎただろう。
――分かっている。時計を見れば、すぐにわかる。
けれど、もし時間がほとんど進んでいなかったら――。
そう思っただけで、ホニーの胸の奥がぞわついた。
(時間を見るのは、私の仕事だ。怖いからと目を逸らしたら、それこそ終わりだよ)
ホニーは自分に言い聞かせ、意を決して腕の時計に目を落とした。
まだ、17時間には届いていない。
半刻ほど足りない。それだけのことなのに、吐きそうになるほどの絶望感が襲ってくる。
満月は真上に昇り、空も海も青白く照らしている。
その光は静かすぎて、頼もしさよりも恐ろさが勝る。
まるで、世界から自分たちだけを切り離してしまったようだ。
空にいるのに、孤独。
いや、空にいるからこそ、余計に孤独だった。
これまで、空はホニーにとってすべてだった。
自由で、優しくて、雄大で、いつでも自分を受け入れてくれた。
泣いた日も、笑った日も、嵐の時も、誰にも言えなかった夜も――空だけは、傍にいてくれた。
(なのに……なんで今、こんなにも怖いの?)
今の空は、ただ広い。広すぎる。
道もない、声も届かない。
ただ広がる“何もなさ”が、空を輝く無数の星が、ホニーを飲み込もうとしている。
(私たちだけ? ……ほんとに?)
不意に、自分と空の境界が揺らいだ気がした。
このまま意識を手放したら、空と一緒に溶けてしまいそうな――そんな錯覚に陥る。
そのときだった。
マートの飛行の速度が、わずかに緩んだ。
「マート……なんで……?」
動揺が声に出た。
指示してない。いや、したはずだった。速度を維持するように――でも、伝わっていない?
「マート、聞いてる? 速度、落ちてる……!私の声聞こえないの?? ねえ、マート。」
この空の唯一の味方。そのマートにホニーの声が届いてない。
ホニーはそう思ったとき、広大な星環海にたった一人になった。
***
マートは、ホニーの異変に気づいていた。
少し前から、彼女は“空が怖い”とつぶやいている。
普段なら、冗談半分に笑って返すような彼女が。
今は違う。顔を見ても、いつもの反応が返ってこない。
どんな嫌なことがあっても常に空だけは僕たちの場所。そういってたホニーが"空が怖い”と零したのだ。
(ホニー……もう限界なのか?)
マートは迷っていた。
天竜として、契約者の指示に従うのは当然だ。
だが、このまま速度を上げれば、飛び続けば、ホニーが壊れてしまうかもしれない。
もしかしたらもう、壊れてるかもしれない。
そう思うとマートは怖くなった。ホニーのいなくなった世界が。
(僕は……君を守りたい。たとえ、それが“裏切り”と呼ばれても)
マートは決断をする。
「ホニー、挑戦は……断念しよう。無線で助けを求めよう」
(ホニーが生きることが僕の優先事項だ、ほかのどんなことよりも)
***
その言葉は、遠くから聞こえたような気がした。
「……え?」
ホニーは目を見開いた。
挑戦を断念する――その言葉は、凍てついた胸の奥に、一筋の熱を流し込んだ。
テンペストとしての覚悟、これからの起こる出来事、色々と考えて決めた星環海横断。
色々な人の助けを借り、期待もされた。
だからこそ”神話を成し遂げる”、つい1時間前まではそう思っていた。
悔しさ? ある。でも、それよりも先にあったのは、“救い”。
(ああ、これで終われる。もう、怖い空にいなくていい)
ホニーが今、一番聞きたい言葉をマートが告げてくれたのだ。
「……わかった、断念しよう。無線、繋ぐね。」
それは、本心だった。今は、誰かにこの闇から引き上げてほしい。
ホニーからは焦りが消え、穏やかにマートに向けて頷いた。
ホニーは震える手で無線機に手を伸ばし、スイッチを入れようとした――が。
「……反応しない……?」
何度電源を入れ直しても、作動しない。
「嘘……なんで……?」
機材の不調? 術式の不備?
あらゆる理屈が頭をよぎるが、どれも“今このとき”を救ってはくれない。
「冗談だよね?動いてよ!お願いだから....助けてよ」
そして次の瞬間――
それまで白く照らしていた満月が、分厚い雲に呑まれ、空から突然、光が消える。
月も星のない空に、ぽっかりと穴が空いたようだった。
世界が、黒に沈んだ。




