第24話 「神話の入り口」
満月がまぶしいように輝いている。
海はその光を反射し、さざめく波が銀の鱗のように光っていた。
風も凪ぎ、嵐の気配はどこにもない。
それでも、静けさが深すぎる。まるで、すべてが息をひそめ、これから起こる何かに備えているかのように。
神都を出発して15時間。
ホニーとマートは、これまで幾度も通ってきた海上補給時の終点を越え、未踏の空域へと入り込んでいた。
補給もなく、目印となる島もない。
ここから先は、誰も案内してくれない空だ。
会話もない。
言葉を交わせば、何かが崩れそうな気がしていた。
魔力も体力も、限界にはまだ届いていないはず。
でも、何かが少しずつ、静かに削られていくのを、ホニーは確かに感じている。
(残り5時間。これまでの最長飛行時間は24時間。問題ない。……問題ないはず。)
繰り返すように、自分に言い聞かせる。
ふと、星環海横断の準備中に、レコアイトス大使から聞いた言葉が蘇る。
> 「五年前、我が国の竜使いがこの海を越えようとして失敗した。
本人も天竜も生きている。だが、今も空を飛べない。恐怖が、残ってしまったらしい。」
そして、その竜使いが神話達成のためホニーに託した言葉――
> 「自分を信じろ。相棒を信じろ。精霊は味方だ。
……だが、“16時間の先には魔物がいる”。
そこから先が、“神話の入り口”だ。」
当時は気にも留めなかった。
あくまで“私ではない誰かの話”。
挑む以上、私はその誰かとは違う。そう思っていた。
だが今、残りの魔力が指先でかすかに感じ取れる程度になったこの瞬間に、なぜかその言葉が胸を締め付ける。
「魔物って……なんのことなんだろうね。」
つぶやいた声は、自分でも驚くほど小さく、震えていた。
「ホニー? 大丈夫?」
すぐに、マートの声が返ってきた。
「うん。大丈夫。……なんでもないよ。」
笑って答えたつもりだった。
けれど、その笑顔は自分でもぎこちないとわかっている。
レコアイトスの挑戦者が告げた”神話の入り口”というキーワード。
それが事実なら、まだホニーは入り口にすら立っていないことに気付く。
(大丈夫、私とマートは関係ない...)
ホニーは自分に言い聞かせる。
***
出発から16時間。
魔力は、完全に底をつく。
ここからは、精霊の加護に頼れない。
飛行の維持はマートの肉体と、ホニーの技術だけが頼り。
「残り、たぶん4時間くらい。――マート、いくよ。」
ホニーは元気を装って声をかける。
「うん。……僕たちなら、できる。」
マートも、同じように声を張る。
ふと、風が変わった気がした。
いや、違う。風は変わっていない。ただ――自分たちの心が、少しだけ沈んだのだ。
そのとき、ホニーの頭の奥で、誰かが囁く。
(本当に合ってるのか? 方向は? 距離は? 速度は?)
(その地図の現在地、信用できるの? 私の判断、マートの判断それで本当に――正しいの?)
胸の奥から湧き上がってくる“声”は、自分自身のものである気がする。
でも、それを否定するには、確かな根拠がない。
真夜中の大海の真ん中には目印はなく、空はどこまでも空で、海はどこまでも海。
天竜には速度計はない。
“信じる”ということが、最も難しくなっていく。
ホニーは、マートの背にうつぶせのように身を伏せる。
ふと、何度もこちらをうかがっていたマートの視線と、ようやく目が合った。
マートは、少し安心したように、軽く頷いてみせる。
ホニーも、小さく返した。
――きっと、マートも感じている。不安を。恐れを。限界を。
(マート……ごめん。私、大丈夫に見えてたらいいんだけど……)
でも、自分の頬にあたる風は、さっきより冷たい。
魔力の加護を失った世界は慣れていたはず。
だが星環海の風は思っていたよりもずっと――静かで、厳しい。
何度不安を押し込め蓋をしても、気が付いたら不安や恐れが溢れている。
(大丈夫、予定通り、計画通り)
ホニーは自分に言い聞かせる。
満月が真上に昇る。
その白い光があまりに強すぎて、星々の輝きは空から追い出されている。
月だけが、ただ無言で――
飛び続ける二人を、冷たく見下ろす。




