第105話「傅く空」
「敬虔なるリクリス神の使徒たちよ。
これより、アーミムからの撤退作戦を開始する。
全軍リクリス神の御許へ、進軍開始せよ──」
バルクーイは静かに、しかし確かに、無線越しに作戦の開始を宣言した。
その瞬間、アーミムの街中に鳴り響く鐘の音。
ローチェ占領下に建てられた大小百を超える教会が、一斉に祈りを刻み始める。
それは警報ではない。
荘厳で、力強く、澄み切っていて、むしろ美しい。
しかしその音は、神を讃えるものではない。
異教徒の街で鳴らされた、“神の元へ帰る者たち”の合図である。
市内の教会の中では、数百人の信徒が神像の前に並び、聖歌隊が声を張り上げる。
その旋律はやがて街全体を覆い尽くし、空気が揺れ、
街を包むように淡い光のヴェールが立ち上がる。
「偉大なる唯一神、リクリス様……
我らは今より、この穢れし異教の地より退き、御身の御許へと還らん──」
アーミム最大の教会。
その祭壇の前に立つワシャワ司教は、リクリス像の前で頭を垂れ、言葉を捧げる。
「どうか我らを導き給え」
その瞬間、祈りの言葉に呼応するように、街の空気が変わった。
『我ら、偉大なる唯一神・リクリス様の御許へ』
聖歌が低く、しかし圧倒的な力をもって響く。
祈りの魔力が螺旋を描き、アーミムの空全体を包み込む。
空にいたバルクーイは、その気配を確かに感じる。
空が、世界が、リクリス神で満たされていく。
その視界の端。
交戦圏に踏み込まず、周縁を旋回する一匹の竜の姿があった。
金色のミョルミルの照準器が、その影を捉える。
「……偽物の星渡り、か。
では、まずは貴様を──リクリス神への贄として捧げよう」
バルクーイは静かに呟き、加速を始める。
だがミョルニルの増槽タンクはまだ切り離さない。
これは“星渡り”ではない。ただの導入に過ぎないのだから。
***
──少し時間を遡る。
アーミム方面の第一陣、その先鋒として飛ぶのは、レコアイトスの竜使い・ノノレだ。
戦術偵察を主とする彼は、今、戦場の中心へと近づいていた。
(……妙だ)
目視する限り、敵影は皆無。
陸も、海も、空すらも──
“戦いの気配”がまるで存在しない。
(まさか……完全撤退?)
通信に乗せるべきかどうか、判断を迷っていたその時だった。
視界の下、地平線の向こうから──
たった一機。
金色の戦闘機が、空を切り裂くように現れた。
遠くにあるはずなのに、その存在が“近い”。
空間が軋むような錯覚すら覚えた。
「こちらノノレ。ローチェ軍、確認できるのは金色の戦闘機一機。
……ただし、尋常ではない圧を感じます」
報告と同時に、通信に割り込む声。
「……不死身の英雄、バルクーイだ」
答えたのは、天竜部隊を率いるガンブだった。
「ローチェ西部戦線で数百機を相手に、全てを退けた男だ。
いかなる攻撃も効かず、生きて戻る──
そうして“不死身”と呼ばれるようになった」
「そんな……」
ノノレは一度知っていたはずの名に、新たな重みが乗せられたのを感じる。
不死身の英雄・バルクーイ。ノノレも知っていたが、それは小さな事実を大きくしたプロパガンダの作り話、そう考えていた。
だが空を飛ぶ威圧感が作り話でなく、事実であると語っている。
敵は指揮官ではなく、“神話”としての英雄。
「手はず通り、高高度で戦況観測に移る」
落ち着いた声で言い、ノノレは高度を引き上げた。
──そして、その時だった。
アーミムの全域から、鐘の音が鳴り響いた。
怒声でも警報でもない。
ただひたすらに、聖なる祈りの鐘の音。
空すら震わせるその音が、ノノレの上空にまで届く。
(なんだ……?)
空気が変わった。いや、世界が沈んだ。
重い。重すぎる。
精霊が……動かない。
(違う──これは、沈黙じゃない)
(……跪いている)
ホナマ基地で感じた精霊制御と、は比べ物にならないもの。
音も光も空も、神の意志に屈している。
魔力の流れがすべて一方的に統制され、
空の下のあらゆる存在が、ただ“かしずいている”。
「アレックス!」
突如、相棒の竜ベルギの叫び声。
我に返ったノノレは、顔を上げる。
──眼前、金色の光が迫っていた。




