第103話「最も美しい撤退戦」
──南部諸島の最終局面、アーミム奪還作戦が動き出そうとしていた、その頃。
北部列島、激戦の地ターキュ島。
テンシェンとシーレイアが幾度も空と海でぶつかり合い、空母の往来はおろか、制空権すらお互いまともに握れない日々が続いている。
テンシェンのエース、紅い死神――フェン・ウーランは苛立ちを募らせていた。
「……またか」
夜を裂くように鳴り響く空襲警報。
目を閉じればまた別の爆音が思い出され、眠りの淵から引き戻される。
(シーレイアの策、小賢しい……)
テンシェン空軍が地上にいる間を狙っての絨毯爆撃。
迎撃しても、空中でウーランの機体と判別されると、敵編隊は即座に離脱していく。
3機以下なら逃げ去り、4機以上でも距離を取った牽制に徹するのみ。
正面からの撃墜勝負を挑んでくる者など、一人もいない。
「俺を見て逃げる。……気分が悪い」
ターキュ島沖にはシーレイアの潜水艦が無数に配置され、味方の空母も容易に近づけない。
敵はそれを利用し、テンシェンの領土にある陸上基地へ、断続的な攻撃を繰り返してくる。
どれも本格的な攻勢とは言えないが、油断すれば本命が来るかもしれない。
そう思わせるには十分だ。
その狙いを、ウーランは分かっていた。
(戦場から、俺を排除したいのだ)
頭に過ぎるのは、今日の上層部からの打診。
──しばらく、通常機体に乗れ。
あの紅の塗装をやめろ、という命令だった。
(通常機体に乗れば、戦果は上がる。敵の退避行動も減る。だが……)
貴婦人──あのシーレイアのエースを討ち落としたときの、全能感。
自分が「紅い死神」として戦場に存在している、あの感覚。
それは機体の色などではない。“見られる存在”であることに意味があるのだ。
敵から畏怖され、味方から崇拝される。
そしてまるで、リクリス神に見ていただいてる感覚。
言い伝えられている英雄に至るもの、神の域に踏み入れるもの。
己が今、そこに立っている。
それを確信した時、ウーランの中で何かが変わったのだ。
紅の戦闘機に乗ることこそ、リクリス神の意思だと。
「星渡りが、こちらに来れば戦況は変わる。だが、今の俺の前では奴とて無力に等しい」
ウーランは、確信していた。
「……星渡り、貴様は俺が殺す。
バルクーイなど、過去の英雄に遅れを取ってたまるか」
その声は小さくも、空に届くほどの決意を帯びる。
***
同刻、南部・精都アーミム。
作戦参謀ワシャワ少将は、いつもと違う重さのある衣を身にまとい、神殿の石階段を登っていた。
その姿は、軍人というより祭司だった。
彼の隣で立ち止まる男も、神官服に身を包んでいた。
ローチェ極西軍の将軍にして、リクリス正教の大司教――バルクーイ。
「撤退の準備は整いました、バルクーイ将軍」
「……頼んだぞ、ワシャワ少将。いや、今は“司祭”と呼ぶべきか」
「はっ。全ては唯一神・リクリス様の御心のままに。」
ワシャワはかすかに微笑み、頷く。
無数に教会が立ち並ぶ、アーミム市内。
そこに展開するローチェ軍の将兵たちに、軍服を着た者はひとりもいない。
全員が白装束の神官服に身を包み、祈るように、整然と歩を進める。
この都市にいる全ての兵士が、今や“神の使徒”として撤退を開始しようとしている。
武器を捨て、祈りを口にしながら。
その様子から、これから戦闘が起きるとは全く想像ができない光景である。
街には対空砲も装甲師団も見当たらない。
後の時代、この戦いは神の意志を示した“最も美しい撤退戦”と呼ばれることになる。
リクリス神の英雄とその神敵となった星渡り。
──戦火の中、信仰の名のもとに、美と狂気が交錯する撤退戦が始まろうとしている。




