Now and Then -スターティング・オーバー-
レノンの生前最後のシングルは、多くの国で「スターティング・オーバー」である。和訳すれば「再出発」。彼の言葉では「八十年代は男と女の対話の時代だ」。その価値観の再認識であり、そのコンセプトに倣うようにアルバムの『ダブル・ファンタジー』はレノンとヨーコの曲が交互に納められている。意味の無い男尊女卑と過度に行き過ぎたウーマンリブ運動を払拭した時代の幕開けだった。
これに後押しされるようにエリコは意志の強さを前面に押し出してきた。若い時代の夢を追いかけるために夫婦や家という概念をかなぐり捨てて歩き出した。きっとこれには賛否両論あるかも知れない。それで渡米後彼女は、語学力を活用した通訳ガイドという観光業の現地スタッフになったと聞く。
でも言えるのは、賛否両論よりも、彼女のその行動自体、そのものに価値があるという点だ。不思議なもので若い頃は、男の方が無鉄砲で、女性が保守保身の身の振りなのに、ある程度の年齢が行くと女性の方が大胆かつ自由奔放になれる。開き直り居直りのような性格や性質の変化だ。少なくともオレの世代の女性はそうだった。これがレノンのおかげなのか社会の風潮やパラダイムなのかは分からない。
少し前、二〇〇〇年の初頭に「もったいない」や「無駄」と言う言葉が一世を風靡していたが、こういう物は流行や民意のみでやってはいけない。学生運動の時と同じレベルの結果しか待っていないからだ。こういうのを「同じ轍を踏む」というのだろうか?
例えば、関西の大きな湖のある県での話。全ての下準備が整った東海道新幹線新駅設置に対して、民意を担ぎ白紙撤回で各処との契約を反故にした出来事。新任知事の公約もあり、民意を楯に強硬路線で各処企業や団体に作業中止の白紙撤回に動いた行政。その時は報道などで勝者のように映っていた。
だがその数ヶ月後には大変なツケを払わされたと聞く。土地の取得費用や造成費用などを含めた上に違約金の発生などだ。当然、契約を反故にすれば、ペナルティは発生する。私たち個人のレベルでも怒られるのに、自治体や企業間となれば尚更のこと。
民意がとても大切な意見というのは紛れもない事実だ。だがリアルな取引である信用は実体のある経済活動と紙一重である。もう数年前から始まっていた作業を一方的に中止して契約破棄はいかがなものなんだろう。感情論よりも信用の大切さを学んだニュース報道の事例だった。
「もったいない」で拒否した東海道新幹線の新駅設置のツケは、もっと勿体ない費用を産んでいる。おまけに鉄道会社も、余程のことがない限り、もう二度とここに新駅を作ってはくれまい。意味の無い政争事例となった。選挙戦のために、わざわざ新駅の賛成反対の二極化候補に仕立て上げたのなら、皆が犠牲になった残念な戦いだった。正直、オレ自身は傍観者の立場でしかないが、明らかに誰も得していないのが分かる。他に折衷案などはなかったのだろうか、な思いで寂しさがこみ上げたし、色々な意味で残念に思う気持ちは大きい。
こころの温かさや人との交流と譲り合いが行える社会が形成できれば、きっといい関係もアクシデントの回避も出来るのだろう。レノンは「争いに意味は無い」と謳う歌詞を数多く残している。マッカートニーも然りだ。このメッセージが正鵠を得ているのは言うまでも無い。
あれからオレの人生経験で、社会は、バブル経済の崩壊、平成の凶作米騒動、長野五輪、インターネットの登場、スマホの登場、東日本大震災、パンデミック、東京五輪、そして令和の米騒動と確実に時間を進めていった。プラットフォームが変わるごとに国産のコンシューマー向け電化製品のシェアは落ちた。コンテンツ産業はサブスク契約に移り、レンタル業界は縮小に歯止めがかからなかった。駄菓子屋商売で始めたレンタルレコードはほぼ駄菓子屋商売に戻った感じだ。今も元気なのはかつての大人たちが子どもに禁止していたゲーム機とアニメ関連である。これらが一大産業として経済を支えているのだから皮肉なものだ。
そんな現代社会の成り行きを予見していたのか、エリコは自分の「今」をオレたちに見せて、「あの時」を諭しているのかも知れない。まさにナウ・アンド・ゼンなのだ。エリコはユキを包括した愛で今も生きている。大学は中退しているが、卒業したオレやユキよりも「Noblesse oblige」を実践している。まるで社会やオレたちのパラダイムの育成よりも一手先をよんでいるように。
そんな事を考えながらオレは今、和泉多摩川の駅前のショットバーで二人の女性を待っている。そうユキとエリコだ。
「お待たせ」
そう言って微笑んで先に入ってきたのはユキだ。オレのグラスの氷が完全に溶けてしまうのにはギリギリ間に合った。
彼女はアンサンブルとハーフ丈のスカートに白いパンプス。つい先日七十歳になったとはいえ、上品な奥様の装いだ。家を出て直接この店に来たオレと、途中で買い物を済ませてきたユキ。オレの横で微笑むと「ビールを」と白髭のマスターに注文をする。
無言でスッとグラスが滑り、彼女の目の前にサーバーから出たての生ビールが置かれた。
「乾杯」
軽くオレのグラスに自分のグラスを当てると喉を潤す彼女。
暫くして、店の扉が開くと、地味なビジネス・スーツに黒のローファーでエリコが現れた。
オレとユキは笑顔で「お帰り」と微笑む。そしてユキは紙袋から小さな花束を取り出すと「はい」と彼女に差し出した。
彼女は驚いたように「まあ」と喜んで受け取る。そして「ただいま」とオレとユキに向かって告げた。
マスターは無言でバーボンのロックを彼女の前に置いた。この店には一時帰国の度に訪れていたようで、彼女の「いつもの」を知っているようだ。ここに通っていたエリコ、オレたちの出会いを大切にしていた彼女の思いがオレにも伝わった。
「唐突で悪いけど、お二人はまだ夫婦なの? もうケンちゃんを要らないのなら私引き取るけど」と悪戯っぽく笑う。
オレは勘弁してくれという表情のヤレヤレ顔で肩をすくめる。
「おあいにく様。まだまだラブラブよ」と腕を絡めるユキ。
「まあ、じゃあ半分は私の物と言うことで」と反対の腕にしがみつくエリコ。
どちらも七十歳には見えない美しい女性だ。右にはユキ、左にはエリコと今日のオレは文字通り両手に花だ。
「まあ、ケンちゃんはどっちを選ぶのよ」とエリコ。
「勿論私だわ」とユキ。
「いいえ、艱難辛苦をともにした私よね」とエリコ。
誰がこんな『いなかっぺ大将』の最終回のようなシーンを想像しただろう。ここでオレは『菊ちゃんと花ちゃん、ひとりだけなんて、どっちも決められないダス』とでも言うのか? オレの脳内で二人の価値を新幹線駅誘致選挙の賛否のように簡単には、白黒つけられない。二極化などと言う、そんなに単純な世界ではないのだ。
困った顔で「おいおいオレは風大左衛門じゃないよ」と笑う。老人になってまで二人の女性に必要とされるオレは幸せ者だ。熟年離婚を切り出される団塊世代の同輩たちからすれば驚かれる立場である。
家事や家計の工面をそつなくこなす専業主婦のユキ、世界を通訳ガイドで飛び回ってきたキャリアウーマンのエリコ。どちらも魅力的な女性だ。どちらかを選ぶなんてどちらにも失礼だ。
「そう思ってね、私、この近くに三人の住居を建ててみたの。三人で同じ建物で暮らせれば健康面で何かあったときには寄り添えるでしょう。管理人には娘の美羽にお願いしたのよ」
エリコの言葉に、オレは「なるほど」と笑った。美羽はエリコを「ママ」と呼び、ユリを「お母さん」と呼ぶ。彼女なりに賢く使い分けているのだろう。俺に似ないで頭脳明晰なエリコに似て本当に良かった。
そしてエリコは続ける「ユキと私で一週おきにケンちゃんのお世話をやきましょう。どちらかが都合の悪いときには交替しあってね」と。
「いいわね」
ユキの言葉に「私、ケンちゃんのお世話がしたくたまらないの我慢してたのよ、この三十年」と返すエリコ。そして「再出発に乾杯ね」と出されたグラスを軽く持ち上げた。
おじいさんとおばあさんの実地のおままごとが始まるのか、と想像するオレ。苦笑いだ。
「乾杯! スターティング・オーバーだね。レノンみたい」とグラスを当てて笑うユキ。
「そしてオレたちなら残りの人生『上手くやれる(We can work it out)』って、ね」と加えたオレはグラスの中身を飲み干した。
この世話好きな美女ふたりとオレの奇っ怪な出会いと青春の軌跡の回想はこれで終わり。社会はめまぐるしく変わり、翻弄されて、生業と食い扶持の確保や恋や愛にうつつを抜かしていると、あっという間に還暦などとっくに過ぎてご老体である。青春や人生など悩んでいる間に通りすぎる。「光陰矢のごとし」だったのである。
了
謹啓
例年にない暑さを毎年のように更新する気候。そんな中、久しぶりに定期連載をしてみたけど、まあ、あまり上手ではないと改めて感じた。
内容について、おそらく僕より十数年先を走っていた人たちの物語かな。なのでこの物語に出てくる人たちの幼少期の社会現象は僕の記憶にはない。生まれてないからだ。資料をつけ合わせて、想像をたよりに書くには少々心許ない知識と記憶だ。
故にこの物語は登場人物たちの十代の終わりからのスタート。この頃なら僕の記憶の中にも、何となく幼少期の記憶として当時の社会背景や時代感と時代観は残っている。それらを紡ぎながらの物語なのだ。
レノン=マッカートニーと当時のヒットソング、レンタルレコードにオーディオの知識。読者諸賢、皆が読みながら少しだけ昔を思い出して頂けたなら嬉しい。そして共時性のある人たちにお読み頂けるのがなによりの本望。
和泉多摩川はそれほど知らないけど、昔、釣りに行った記憶はある。その程度の土地勘。山手もまあお散歩程度の知識なのでさほど詳しくはない。
エリコとユリの若かりし頃の出来事は、昔から各処でこんな仕打ちを色々な場所や媒体から耳にした。今で言うイジメのたぐいだ。当時は「つるし上げ」という表現だったと思う。こういう人たちがいる横で、工場や商店で一生懸命働いて小銭で生活している人がいた。時代の光と影なのかもしれない。
だからどっちが偉いという話ではない。ただ目の前の経済や仕事に追われて社会全体まで考えの行かないグループもいれば、社会全体のことを考えている振りをして暇潰しをしている人もいた。幼少期の僕は、ニュースで出てくる映像を見ながら大人は変なことしているな、と思ったモノだ。
そんな回顧録のようなフィクションの物語。ようやく終わった。大きな意味では本作も歴史物である。マニアックな用語や時代言葉にはできるだけ説明註を付けてみた。意外にもこういうジャンルも好きなのかな、と思える作品になった。ウェブ小説では少ない類いだ。でもニーズはありそうだ。このたぐいの小説をもう少し磨いてみるのも悪くない。そう言える作品になったことは自己満足である。
最後になったが、肝心なところでは本作の構成と創作の意図だ。まだ女性の生き方が保守的な部分も残りながら、躍動的な時代を築き始める時期である。女性の社会進出が始まった過渡期と僕は捉えてこの物語の軸に据えた。その前者の象徴人物がユキであり、後者の象徴がエリコという風に、この物語の持つアトリビュートのような扱いにしている。
主題はそれに類する部分で『女性の人生』としている。作中でもいっているが、彼女らの世代の人生は実はまだ終わってない。現在進行中である。かの世代は少年、青年、中年、壮年を経て、今現在老年期に入っているはずだ。その中でヒロインである二人がどの様な女性の人生を見せてくるのか、それは時間と時代だけが知っている。暫くすれば自ずと答えが見えてくるのだろう。それは作者が描くのではなく、社会と時代が教えてくれるのである。ぜひ作者も皆さんと一緒に時代の結末を見届けたいと思う。この物語のエピローグを描くのは時代である。そんな作品になればと思う。
そしてなにより拙作の読書に最後までお付き合い下さった方々のおかげでこの物語がいま作品となった。その温かい応援とご愛読、それらに素直に感謝だ。
「ありがとうございました」
作者 敬白