第二章 チェシャ猫との取引 その1
久しぶりの更新ですよ。相変わらずのアリスとその他です。今回から新章になりました。
「で、ここがお前のご主人様の屋敷か?」
「正確にはご主人様の旦那様の屋敷だよ」
チェシャ猫が相変わらずの笑顔で答える。
目の前にある大きな屋敷を見て、言葉をなくす。
これだけ立派な屋敷に住んでいたとは、チェシャ猫もなかなか侮れない。
自分の事を飼い猫と言っていたが、この屋敷内でどれぐらいの地位にあたるものなのだろうか。
俺には見当もつかない。
最初っからレノは知ってたのか、大して驚く様子もなく、さっさと屋敷内へと入って行こうとする。
「おい……そんな勝手に入っていいのか?」
屋敷を見ただけでその旦那様とやらがある程度地位のある、金持ちだとわかる。
いくら呼ばれたからと言っても、このまま行くのは気がひける。
「そんなに不安がらなくても大丈夫だよ。旦那様はアリスが何をしたって怒ったりしないよ」
チェシャ猫の言葉に珍しくレノも頷く。
「大丈夫だ、アリス。侯爵は他の住人に比べればだいぶましだからな」
「帽子屋さんったら、酷い言いぐさだね。自分だって他の住人と大差ないくせに」
「うるさい……」
レノに睨みつけられ、チェシャ猫がわざとらしい笑顔を浮かべる。
また騒ぎだす気か……
おそらく今日1日で10回以上、2人は飽きもせず言い争っている。
いい加減止める気力も失せた。
無関心を決め込み、俺はなるべく2人を視界に入れないように離れる。
まあ、2人の話を聞くかぎりこの屋敷に住んでる旦那様は他の住人よりはまともらしい。
あの2人が言う事だから大してあてにはならないが少なくともこの2人よりはましだろう。
そこまで考えて、ふと俺の思考が止まる。
「おい、レノ。さっき、何て言った?」
俺の言葉にレノはきょとんとし首を傾げる。
「アリス?」
「さっきの言ってただろう? 侯爵って……」
まさかこの猫の飼い主が侯爵じゃないよな?
俺の嫌な考えを肯定するかのようにチェシャ猫が笑う。
「あれ? 言ってなかったけ? 僕のご主人様は侯爵夫人なんだよ」
そんな事……聞いてない。
ちらりと俺は自らの格好を見下ろし、額を抑える。
悪くはないが、はっきり言って貴族に会えるような格好ではない。
まあ、それを言ってしまえばレノも俺と大差ない格好をしているし、チェシャ猫に関しては問題外の服装をしている。
これでいいのか?
俺が何か言う前に屋敷の扉が勝手に開き、中から可愛いらしいメイドが現れた。
もう逃げられない。
仕方ない。こちらに笑顔を向けるメイドに言われるままに屋敷の中に入った。
「いらっしゃいませ」
何人ものメイド達が俺達は出迎え、挨拶をしてくる。
さすがは貴族の屋敷のメイド達だ。皆、礼儀正しく、かなり怪しいにも関わらず不審な視線一つ俺達に向けず、笑顔で接してくる。
何人かいたメイドの一人がチェシャ猫に近づき、丁寧に頭を下げる。
「エリオル様、お帰りなさいませ」
「うん、ただいま。旦那様はいつもの所?」
「はい。旦那様をお呼びいたしますか?」
「いや、いいよ。僕らが直接行った方が早いから」
チャシャ猫は相変わらずの笑顔を浮かべ、こちらを振り返る。
「旦那様はいつも書斎にいるんだ。書斎まで来てもらってもいいかな……って、あれ? アリス、どうしたの? そんな変な顔して」
いや、どうしたって……なあ?
あのチャシャ猫がまともに人と話してやがる。
チャシャ猫には悪いが正直驚きを隠せない。
と言うかチェシャ猫がまともとか、不気味だ。
しかも屋敷の使用人達はチェシャ猫を見て変な顔をするどころか、皆、丁寧に挨拶をしている。
こいつ……いったい何者だ?
ペットなどと軽く言っていたが、それにしては使用人達の対応が丁寧すぎる気がする。
ペットに接する態度というよりそれは上司にでも接するかのような態度だ。
こいつ、ひょっとしてこんな身なりでも偉い奴だったりするのか?
貴族の飼い猫だからか、はたまた名前持ちとか言うのが関係あるのか、気にはなったがいちいち尋ねてたらきりがなくなる。
とりあえずその事には触れない事にする。
「エリオルって、お前の名前か?」
「そうだよ。僕の名前はエリオル。今度から僕の事も帽子屋さんみたいに名前で呼んでくれてもかまわないよ?」
誰が呼ぶか。
俺がそう答えるよりも早く、レノが怒鳴る。
「駄目だ! アリスに名前で呼ばれていいのは恋人の俺だけだ!」
レノが俺の腕にしがみつき、チェシャ猫を睨む。
チャシャ猫はそれを見ても、もう慣れたのか特に表情を変えないがメイド達はそうはいかない。
初めて見るそれに皆、息を呑み、こっちを凝視している。
視線が……痛いだろう!
「おい、レノ。さっさと離れろ」
「うわっ、何怒ってんだよ!?」
誰のせいで俺が怒ってると思ってんだよ!?
しがみつくレノをひきはがそうともみ合っているとチェシャ猫の楽しげな声が聞こえてくる。
「もう、人の家でいちゃつかないでよ」
「いちゃついて悪いか!? 俺とアリスは恋人なんだから当たり前だろう!」
「お前は少し黙れ!」
「な!? 何でアリスが怒るんだよ!?」
「うるさい! いちいち騒ぐな!」
「あ~あ、アリスを怒らせちゃって」
「お前も黙れ! さっさと俺達を案内しろ! もう帰るぞ!?」
チェシャ猫はくすりと笑って、それは困るなぁと全く困った様子もなく呟く。
最悪だ……
さっさと旦那様とやらに会って、早く家に帰りたい。
「さっさとしろ」
「そんな怖い顔しないでよ。わかったから、すぐに案内するから、ね?」
最初っからそうしろよ。
俺はがっくりと肩を落とした。
「ここだよ」
しばらく歩いてからチェシャ猫はある扉の前で立ち止まり、俺達の方を振り返る。
「ここが書斎。旦那様はたいていこの中にいるんだ」
この中にね……
チェシャ猫を見ながら俺はまたため息をつく。
ペットがペットなら飼い主もろくな奴じゃないだろう。
とりあえず話の通じる相手ならいいんだが……
「会う前に言っておくけど、旦那様は本当に優しい、いい人だから、くれぐれも発言には注意してね」
どういう意味だ?
一瞬だけだが確かにチェシャ猫から笑みが消え、その目が鋭くなる。
その真意を確かめる前にチェシャ猫は扉に向き直り、扉をなんの躊躇いもなく開けた。